2016年10月28日金曜日

追悼 田部井淳子さん

登山家の田部井淳子さんがお亡くなりになりました。

がんと闘いながらも、登山活動を続けられていらしたし、この春にお会いした時も少しも衰えたご様子ではなかったので、信じられない悲しみで一杯です。


田部井さんに初めてお会いしたのは、1975年にエベレスト女子登山隊で女性として初登頂されたのち、カトマンズで日本大使主催の祝勝会をしたときでした。祝勝会の司会を務めたのは私でした。20年後に私が勤務していた会社に講演にいらした時に再会したのですが、田部井さんはこのことを忘れていました。

植村直己さんからも同じ印象を受けましたが、田部井さんもとても世界一の高峰に登られた冒険家とは思えない誇張のない自然体の人でした。


著書『山を楽しむ』(岩波新書)にこんな記述があります。

「ポツンと遠くに人の影が見えた時、無性にうれしく、早く出会いたいとさえ思えてくる。雑踏の中で行き交う人とのぶつかりをいまいましく思ったりした自分が、今人恋しさのあまり歩調が早くなっている。山の道は人をやさしくさせてくれる所なのだ。」


合掌



(スガジイ)


2016年10月21日金曜日

我が友・ランジャン

《インド人もびっくり》とういう昭和30年代のカレールーのTVコマーシャルを知っている方はかなりの年配でしょう。このインド人こそ我がポン友中のポン友ランジャン・バッタチャリアです。なんだネパール人ではないかと思われる方、さにあらず。

彼のおじいさんが、カルカッタからシャハ王朝に招かれたヒンズー教の司祭なのです。ダヌシャ郡に王宮から膨大な土地を与えられました。成人してカトマンズに出てくるのに道路はなく、村からジャナカプールまでネパール唯一の鉄道に乗ったのだそうです。

日本の篤志家に招かれて愛知県の大学に学びました。このとき地元の会社の目に留まってCMに出たのでしょう。カトマンズに初めて本格的な和食レストランを開業したのも彼です。多くの日本の登山隊を世話していました。残念なことに1990年に若くして亡くなります。映像には出てきませんが、往時のCMソングがここで聞けます。http://www.oriental-curry.co.jp/more/index.html


(スガジイ)


2016年10月14日金曜日

日本の秋


9月下旬に日本に帰国しました。庭の金木犀(もくせい)の花が散り際で、地面は金のじゅうたん。芳香が体を包みます。カキの実はまだ薄緑です。夜は虫の音が涼やかに奏でます。東京の9月のこの日までの日照時間はわずか6時間なのだそうです。東北、北海道が台風の甚大な被害を受けました。

翌日は彼岸のお中日です。菩提寺に墓参りに行きました。春と秋のお彼岸は、寺になんとなくなく華やぎを感じます。この日も大勢の方が家族でお参りに訪れていました。花のお供えのない墓にはわびしさがあります。家族が町を離れたり、葬儀の簡素化等で、墓の維持や寺の経営が厳しくなりつつあると聞きます。

帰りに近くのファミレスで昼食をとりました。休日で満員なのですが、家族連れは一組しか見当たりません。私の年代の年配者ばかりです。増田寛也編「地方消滅」によると、わが町の2040年の出産年齢女性は半減するとの予測です。いきなり現実を見せつけられた感があります。

翌週は高校のクラス会と大学のOB会、翌々週は小学校のクラス会とネパール会が予定されています。元気なのはジジババ世代のようです。

(スガジイ)


2016年10月7日金曜日

ゴンパ百彩

不動産屋の新聞広告にチベット仏教のゴンパ(僧院)用地というのがあり驚きました。それほど需要が多いということなのでしょう。この10年の間に、カトマンズ盆地の周辺農村部には多くのゴンパが建てられています。いずれもお城みたいな立派な建物です。


アジア各国、欧米の仏教徒やチベット支援者の寄付によるものだそうです。ゴンパの主は、古くから移住して辺境の村にいたラマ僧に加えて、中国のチベット侵攻後にネパールに逃れてきたラマ僧です。私の知己のラマ僧は頻繁に外国に招待されて留守にしています。スクーターに乗り始めたと思ったら、昨今は自家用車を運転しています。


マナスル登山のベースキャンプのあるサマ村からプンゲン氷河に沿って登ると、氷河の押し出した台地の奥にささやかなゴンパがあります。標高4,000ḿを超えています。マナスル峰とP29峰にいだかれた谷間の草原です。

訪れた日は釈迦降臨の行事が行われていて、多くの村人が供物を持って参拝しています。私は風の音のみが聞こえる草原に寝転んでいるうちに、おのれの存在が溶け込まれるようなこんな自然の中で人生の最後を迎えられたら素晴らしいだろうと、そんな思いがふと頭をよぎりました。




(スガジイ)