ネパール 変わったこと、変わりつつあること (上)
30年ぶりの弘前である。以前お邪魔したのは、ネパールで親しくしていた人が弘前大学で教鞭をとっていた年のねぷた祭りの季節であった。この度も7月の暑い季節で、昨秋にカトマンズでお会いした応用地形、応用地質、砂防学がご専門のツォウ先生の招聘によるものである。
最近の大学の学部学科は私たちの学生時代の簡単明瞭なタイトルと違って、シラバスを確認しないと何をやっているのかよくわからない。お招きを受けた学科もご多分に漏れず履修モデルを見て理解できた。農業生命科学部地域環境工学科農業土木コース・農山村環境コースの2・3年生60人が対象であったが、先生や他学科の学生もいらしたようだ。
いただいた講演のお題の一つが「ネパールにおける地域社会構造」である。学生時代の専攻科目であったが、大学ロックアウトや、クラブ活動や学生運動、夜の飲み会にどっぷりつかって教室にはトンとご無沙汰であったし、修士時代はマルクス史観の先生に入れ込んでしまった。大学教育を受けていないといわれる世代である。
そこで、ネパールは124の多言語国家であり、社会構造が多様であると言い訳して、「近代50年の社会構造の変化要因」、いうなれば何が社会を変える契機になったのかを話すこととした。そもそも理系の学生が社会学に興味を向けることはないであろうと自身の浅学を弁解するのであるが、講演内容をつくっていく過程で面白い気付きもあったので以下に紹介したい。
はじめに1951年の王政復古から今日までの社会経済の変遷についてみる。それまではカトマンズ盆地を除いた地方では、ジャガイモやトウモロコシの導入で食糧生産の増大による人口の増加があったにしても、何百年も変わらない生活が続いたと思われる。ネパールにとって激動の近代を王政復古から1990年までの「立憲王政期」、2008年までの「第一次民主化・マオイスト内戦期」、それ以降今日までの「連邦共和制期」の3つに分けてそれぞれの期間を俯瞰する。
社会経済の指標は、幼児死亡率(5歳までの幼児の1,000人当たり死亡数)と一人当たり国内総生産をとった。幼児死亡率は医療事情や母子の栄養状態を反映する社会の推移、一方で一人当たり国内総生産からは国民一人一人の豊かさを知ることができる。
一人当たり国民総生産(名目)は1990年前後から助走が始まり、2006年ころから急上昇し始める。91年にインドで選挙に勝利したコングレス党政権が経済改革政策を推進するが、第一次民主化を勝ち取ったネパールもそれに先立って1990年の第8次計画で経済自由化を原則としたアプローチへ転換した。悪名高い世銀、IMFの「構造改革」の強要もネパールでは一定の成果を見た。その後マオイスト内戦期を経て、新型コロナのパンデミック期を除いて安定した経済成長率を維持するようになったことが一人当たり国内生産を伸長させたものであると思われる。
(続く)
(2024年9月30日)