2024年11月6日水曜日

逍遥 ネパール 変わったこと、変わりつつあること (上) #178

 

ネパール 変わったこと、変わりつつあること (上)

 

30年ぶりの弘前である。以前お邪魔したのは、ネパールで親しくしていた人が弘前大学で教鞭をとっていた年のねぷた祭りの季節であった。この度も7月の暑い季節で、昨秋にカトマンズでお会いした応用地形、応用地質、砂防学がご専門のツォウ先生の招聘によるものである。

最近の大学の学部学科は私たちの学生時代の簡単明瞭なタイトルと違って、シラバスを確認しないと何をやっているのかよくわからない。お招きを受けた学科もご多分に漏れず履修モデルを見て理解できた。農業生命科学部地域環境工学科農業土木コース・農山村環境コースの23年生60人が対象であったが、先生や他学科の学生もいらしたようだ。

いただいた講演のお題の一つが「ネパールにおける地域社会構造」である。学生時代の専攻科目であったが、大学ロックアウトや、クラブ活動や学生運動、夜の飲み会にどっぷりつかって教室にはトンとご無沙汰であったし、修士時代はマルクス史観の先生に入れ込んでしまった。大学教育を受けていないといわれる世代である。

そこで、ネパールは124の多言語国家であり、社会構造が多様であると言い訳して、「近代50年の社会構造の変化要因」、いうなれば何が社会を変える契機になったのかを話すこととした。そもそも理系の学生が社会学に興味を向けることはないであろうと自身の浅学を弁解するのであるが、講演内容をつくっていく過程で面白い気付きもあったので以下に紹介したい。

はじめに1951年の王政復古から今日までの社会経済の変遷についてみる。それまではカトマンズ盆地を除いた地方では、ジャガイモやトウモロコシの導入で食糧生産の増大による人口の増加があったにしても、何百年も変わらない生活が続いたと思われる。ネパールにとって激動の近代を王政復古から1990年までの「立憲王政期」、2008年までの「第一次民主化・マオイスト内戦期」、それ以降今日までの「連邦共和制期」の3つに分けてそれぞれの期間を俯瞰する。

社会経済の指標は、幼児死亡率(5歳までの幼児の1,000人当たり死亡数)と一人当たり国内総生産をとった。幼児死亡率は医療事情や母子の栄養状態を反映する社会の推移、一方で一人当たり国内総生産からは国民一人一人の豊かさを知ることができる。

1950年の幼児死亡率は226であり、1960年あたりから大きく低下し始め、その後コンスタントに低下し2022年には24まで改善する。ちなみにインドの同指標は312021年)で日本が1.7である。1956年に第1次五か年計画が始まるが、医療分野ではマラリヤ撲滅、地方への医療機関の拡大、、人材育成があげられている。第2次三か年計画(196265年)、第3次五か年計画(196570年)も同様に医療分野に焦点を当てている。第4次五か年計画では、可能な限り基礎の医療を提供することを目標としてヘルスポスト設置(村落コミュニティにおける医療補助員と医薬品を配備した簡易保健施設)を計画した。一方で急激な人口増加に対処すべく第1次計画から主要作物である米と小麦の増産を目指して灌漑施設の建設に予算を振り向けている。この結果、医療分野には外国援助が充てられたこともあり着実に成果を上げた半面、食糧増産は目標を達成していない。とはいえ、これまで国家レベルでの開発計画がなかったことを考えると、幼児死亡率を着実に低減させる政策的効果があったものと考えていいのではないだろうか。

一人当たり国民総生産(名目)は1990年前後から助走が始まり、2006年ころから急上昇し始める。91年にインドで選挙に勝利したコングレス党政権が経済改革政策を推進するが、第一次民主化を勝ち取ったネパールもそれに先立って1990年の第8次計画で経済自由化を原則としたアプローチへ転換した。悪名高い世銀、IMFの「構造改革」の強要もネパールでは一定の成果を見た。その後マオイスト内戦期を経て、新型コロナのパンデミック期を除いて安定した経済成長率を維持するようになったことが一人当たり国内生産を伸長させたものであると思われる。

 

(続く)

2024930日)

2024年8月31日土曜日

逍遥 センチメンタルジャーニー、そしてコロナ #177

 センチメンタルジャーニー、そしてコロナ

 

今回の出張で、期せずしてハイライトとなったのが「ルムジャタール行」である。1972-3年に農村調査と称して1年間住んだオカルドゥンガ郡の村である。8年前にはカトマンズから車で行けるようになったのだが、尋ねそびれていた。クリシュナ・タマン夫妻の孫のノーマン君に車で同行してもらった。シンズリ道路を行く。バクンデベシが大きなバザールに変貌している。飯屋のおやじに、道路建設チームのキャンプがあった場所をたずねる。2002年にマオイストの襲撃にあったところである。クルコットがこれまた大きなバザールになっている。遅い昼食を食べた飯屋の家族と建設当時の話をしていると、日本人技術者の名前が次々に出てくる。

なおもスンコシ沿いを走りグルミに至る。沢をさかのぼってマハバラート山脈を越してウダイプールのカタリバザールからジャナカプールに出た場所だと思い出がよみがえる。スンコシを渡り高度を稼ぎ、オカルドゥンガバザールが望まれる地点まで来ると、遠くの尾根筋に街ができている。古いバザールから上方にかけて郡や市の役所があり、そのまた上方にバザールが開けている。この地方にはまれなタマン族が経営するホテルに泊まる。ナムチェのホテルに勤務していたという活動的な人である。奥さんがとても愛想がいい。

翌朝は、目当てのハート市にいく。昔は土曜だけだったのが今では水曜日にも開かれる。場所は変わらないがコンクリートで舗装されている。近隣の農家が野菜をもって集まる。ライ族は子豚をもってきていた。少し離れた場所で取引しており、値段を聞けば9千ルピーだというが、隣では8千ルピーで手を打っていた。

次の目当てはキリスト教団体が運営するミッション病院で、バザールから2時間歩いたところ、今では車で行ける。何倍にも大きくなっている。古くからの守衛に案内してもらうが昔の面影はない。バザール出身の事務長と話し込む。当時は伊藤邦幸先生夫妻が駐在されており、日本語が恋しくなると村から4時間歩いて尋ねたものである。

いよいよルムジャタール村である。暑いさなか、村中を歩いて住んでいた家を探したが見つからない。村自体は道が広くなって、昔は一軒しかなかった商店が増えているが、全体的にはそれほど変わっていない。学校の位置が変わったのと、郡の病院と保健所の立派な建物ができている。80歳前後の年寄りのいる家を回るが要領を得ない。私が部屋を借りた大家の名前すら知らないという。地主階層であったこの家族は村人に知られていたはずなのに。だんだんこちらからの誘導尋問めいてきて、村の人の思い違いに翻弄される。当時一人しかいなかった外国人の私を覚えていないとはどういうことだとイライラする。

結局わからずじまいのまま村の新しいホテルに泊まる。女将は村のグルン族とわかるが亭主は顔つきが違う。ビラトナガールから36年前に村の郡病院に赴任したムスリムとわかる。村の人たちの入れ替わりが激しいのだそうだ。純粋なグルン族の村ではなくなっている。村の家々でモヒ(ヨーグルトドリンク)や紅茶、ロキシーをごちそうになって世間話に講じた。学生時代の昔、訪れた家々で温かく迎えられたのと変わりがない人々であった。

問題はそれからである。帰国して翌日、町の心配事相談室の相談員の仕事をした。その翌朝、下痢症状が出る。午前中は民生委員児童委員の月例会に出席した。午後なんとなく心配で体温を測ると36.8度の微熱であったが、念のため近くのクリニックで新型コロナの検査をする。案の定「陽性」だった。5日間の自宅監禁。その間、妻にも伝染してしまう。

潜伏期間からみて、カトマンズの最後の数日間、あるいは飛行機の中で感染したのだろう。出張中一度もマスクをしなかった。のどもと過ぎれば何とやら、まったくの油断であった。

 

2024年8月21日)

 

逍遥 ネパールの明日を創る子どもたちにエールを #175

 ネパールの明日をつくる子どもたちにエールを (1)

 

昨年11月から一月半ほどネパールに行った。カトマンズは一昨年に比べてコロナ禍の経済低迷からすっかり立ち直っているように見えた。新聞報道では消費者物価の上昇が伝えられていたが、数字だけ見るとこれまで何度もあったインフレの局面と大差ないように考えていた。だが、一年というタイムラグの故か感覚的に衝撃が大きかった。食料品、レストラン、タクシー料金などで実感した。

この度の訪問は、8月に立ち上げたNPO法人「ヒマラヤの星たち」の現地活動が目的であった。2017年から子どもの眼を守るプロジェクトのスポンサーであったヤマト福祉財団が主役の座をおりたが、現地の支援者たちの継続要望が絶え間なく届く状況に、NPOを立ち上げて事業を継続したものである。眼の事業に関連して学校の衛生設備である手洗い場やトイレの整備を付け加えた。また、貧困等の理由によって学校に通えない子どもの支援、障害児の自立支援、学校や村の防災事業の4本の柱を目的に設定した。

予算の制約から、対象の学校をカトマンズから近いゴルカ郡の2校とした。おなご先生スミットラ・ラナが勤務するパタンデヴィ校はプリトゥビナラヤン市から悪路を2時間走ったブリガンダキ沿いにある10年制で生徒数154人の中規模校だ。スミットラはラナ姓であるにもかかわらず、経歴書の宗教欄は仏教とある。聞けば母がグルン族であるよし。インターカースト結婚であった。彼女の出身校は川の上流のグルン族の村ピリムにある。

もう1校のイチャ校は8年制191人、ニシャ・グルンが勤務している。ニシャもピリムの学校出身で、スミットラ同様にポカラのさくら寮卒業生だ。この学校にはブリガンダキ沿いの道をドバンまで走る。2008年と11年に最上流のサマ村まで学校と寄宿舎建設のために歩いたときはアルガートから3日歩いた。サマ村まではさらに4日の行程である。今はここまで小型四駆車が走る。さくら寮の寮母を務めたマンジュ・ドジュが同行してくれる。

プリトゥビナラヤン市を出発する朝に多少下痢気味であったので一日中絶食する。しかし、その甲斐なく、トレッキング・ロッジでは朝までトイレ通いの羽目になった。学校は川から急な斜面を登ったフルチュク村にある。子どもたちは1時間で登るというが、4時間かかってしまった。チームのメンバーは2時間半で着いており、視力検査をしてくれていた。視力0.5以下の子どもを細隙灯顕微鏡で検査する。

パタンデヴィ校から1名、イチャ校から10名がカトマンズの再検査につれてくる。このうち、7歳の女の子は耳が聞こえず診療できない。耳鼻科に連れて行くが、耳垢が溜まっているとのことで除去するのに1週間かかるという。ゴルカの病院で再検査することにする。もう一人の14歳の女児は小児緑内障の疑いありと診断され、ティルガンガ眼科病院で再検査する。このあと2回も村と病院を行き来して緑内障の疑いから解放された。この子も含めて10人は眼鏡をつくって視力が回復して大喜びである。

衛生施設は、パタンデヴィ校のトイレに水が引かれておらず不衛生であったが、校長の要求は女生徒の生理時のトイレ施設の建設である。手洗い場がないので設置を勧めると、給食にはスプーンを使っているので問題ないとのこと。教師の意識改革の必要を痛感した次第。イチャ校は地震で全壊した校舎や衛生施設が内外のドナーによって新しくつくられており問題なさそうである。

就学困難児のアンケートには4人、3人とそれぞれ回答があったので、これから奨学金基金を学校ごとにつくるが、団体ごとの冠奨学基金(名称をドナーごとにつけることができる)を募集中である。わたしたちのNPO事業にご賛同いただき、皆様のご支援をお願いする次第である。

この地域は、2015年の震源地に近く、アルガートより上流が壊滅的被害を受けており、アルケットは大きなバザールに成長し、マチャコーラは長距離バスの発着点として集落の家屋数が5倍以上に大きくなっていた。ドバンも2件のロッジが新築して営業している。一方で、タトパニの3軒の家は地震から無縁のごとく以前のままの姿を維持していた。浴槽が新しくできたのは地震の後であろうか。

 

2024年7月5日)