2017年5月26日金曜日

やめられないとまらない

「酒は飲むべし百薬の長」などといいますが、飲み過ぎて翌日つらい思いをするのは私ばかりではないでしょう。ネパール人の酔っぱらいともずいぶん付き合いました。

もう45年も前の話ですが、オカルドゥンガ郡ルムジャタール村に一年間住んで農村調査をしたときのことです。東部ネパールでは珍しいグルン族の村です。グルン族の故郷は中部ネパールです。ルムジャタールはその名からもわかるようにもともとはルムダリライ族の村でしたが、プリトゥビ・ナラヤン・シャハ王がカトマンズ盆地を征服した折に、いくつかのグルン族の部隊が勢い余ってそのまま東征し、もともとライ族の領地をこの村のほかに隣のコタン郡にも三村を占領して住み着いたようです。このグルンの人たちは母語をすっかり忘れています。

私の下宿先はグルン族の家でしたが、同じ敷地にネワール族の未亡人とその母親の婆さんが住んでいて、ロキシー(ヒエの蒸留酒)を造って村人相手に居酒屋(?)をしていました。夕方ここにいると村ののんべい連中から情報収集ができるのでとても便利なのです。私と同年代で村一番のインテリであるバフンのジャイナラヤンは、カトマンズで教育を受けた数少ない一人で、村で自分の能力を生かす場が見つからず不満が鬱積して酒浸りの毎日です。

年配のグルン族のイシュワルも常連の一人です。この人は村の男の例にもれず博打も大好きです。酒と博打の借金がかさんで自作地を切り売りして、今では小作に転落していますが、酒をやめることはできません。字が読めない彼は金貸しのバフンに借用証を捏造されて田地をだまし取られたといううわさもあります。

ある日、居酒屋の婆さんが病をえて寝たきりになりました。4時間ほど歩いたところにミッション系の病院があるので連れて行こうとしましたが、病院に行くと殺されるといって祈祷師のジャンクリを呼びました。祈祷が終わってうんちくを傾けながらロキシーを飲み過ぎたジャンクリは、突然椅子から落ちそのまま大いびきです。婆さんはといえば祈祷が効いたのか、その後すっかり元気になりました。

(スガジイ)

2017年5月19日金曜日

経済交流再始動元年

先日、北海道十勝の経済ミッションが来ネされました。ジョシ工業大臣主催のレセプションでは、お持ちになった製品の展示会がとても好評でした。ハイテク製品でなくネパールの人たちにも身近に感じられる商品を中心としていたからであると思われます。

ジョシ大臣は、パルバティヒンディー(山地部のインド起源の人々でバフン、チェットリ等)が主要ポストを占めるネパールの政界にあって、数少ないネワール族の有力政治家として期待を背負っている人です。また、高潔な性格をもって国民の信頼を得ています。私も当日親しくお話しさせていただきましたが、政府開発援助にも精通されていらして話題が尽きませんでした。

日本人会商工部会が今年度は安藤ハザマの猪狩所長を部会長として出発しました。

10年ほど前の部会活動は、日本フェアを催したり、ネパール商工会議所連合会(FNCCI)をはじめとする財界幹部と意見交換の場を持ったりしました。旅行業分科会が観光大臣に空港施設改善提案をして、いくつかが間もなく実施に移された成果もありました。このようなウインウインの関係を築くことで部会がますます発展していきます。猪狩部会長はじめ会員の皆様のご健闘をお祈りする次第です。

さて、十勝経済ミッションの皆様とは、大使閣下のお計らいで大使公邸にて日本人ビジネス界の皆さんが意見交換しました。私もネパールへの投資を中心にビジネス事情をご進講申し上げる機会をいただきました。このような機会を通じてネパールへの投資の機運が促進されれば、在住日本人のビジネスのプレゼンスも大いに隆盛することに違いありません。

(スガジイ)


2017年5月12日金曜日

カトマンズの風物詩

霧の中から天秤棒を担いだ農夫が近づくにつれてだんだんはっきり姿をあらわす、そんな観光プロモーション映像がありました。冬から春になる一歩手前のカトマンズ盆地の風物詩でした。かごの中は新鮮な野菜であったり、素焼きの器に入ったダヒ(ヨーグルト)です。ティミやバドガオン(バクタプール)の人たちです。南の郊外のチャパガオンやルブでも野菜作りは盛んでした。ジャープーと呼ばれるネワール族の農民です。
2000年代初めから首都圏に宅地造成ブームが始まります。都市が外周に広がるにつれて農地が蚕食されます。都市住民の核家族化に伴う住宅の実需と、金余りによる投資の行く先のない金が住宅産業に流れ込むのと、農業を敬遠する農家の若い世代が増える中で農地を手放したいという事情がマッチングしたのでしょう。
首都圏の人口が増加するにつれて野菜の供給地は盆地の外に広がっていきます。20年ほど前からでしょうか、チトワンやテライに野菜生産地が広がり始めます。インドのビハール州で野菜栽培が急速に伸びた時期と軌を一にしています。ビハール州の野菜栽培技術を持った農民がチトワンで請負栽培をしています。野菜の流通が季節を通じてバラエティ豊かになったのは、低地の気候と栽培技術の進歩によるところです。
一方、首都圏ティミの農民も意気軒昂です。一家族で持っている20-50アールという狭い耕地を有効に使って通年栽培しています。労力を惜しまず、緻密な栽培技術で健闘しているジャープーの野菜農業は、都市化に負けずにまだまだカトマンズの食卓を潤すものと思われます。
我が町湯河原のスーパーマーケットで地場産の野菜や果物を見つけました。生産者の名前が付されています。相模湾の新鮮な魚も潤沢です。「地産地消」で地域を豊かにするのが私流の町おこしの原点です。
(スガジイ)

2017年5月5日金曜日

金氏弁的旧市街

アサントールは古い時代からの商店街です。

バサンタプール旧王宮からまっすぐ北東に延びる近世の街並みの東の端にあたります。寺院を中心としたトール周辺は乾物屋の常設店が密集し、朝夕には野菜の市が立ちます。インドラチョークへのメイン通りは荒物、金物の店が並び長年景観が変わらないように思えます。

アサントールの南裏路地にはサリーの問屋がひしめいています。薄暗い路地が華やかです。近年はデザインの変化が激しくなっています。ラメが流行ったり、刺繍であったり、ここ数年はインド映画に出てくるような派手なデザインがこの路地でも見られるようになりました。私にはインド絹の伝統的な落ち着いた色合いのデザインや、夏用の羽根のように薄く軽やかな木綿や麻のオリッササリーが好ましく感じます。

このまた南のニューロードまでの広い地域は、新しいビルがぎっしりと立ち並ぶ細い路地の既製服問屋街です。カトマンズっ子はもとより地方の小売店主が大きな荷物を抱えて店から店へと買い出しに精を出す様子はネパールで一番忙しい街といっても言い過ぎではないでしょう。この街がにぎやかになったのは中国の縫製業の発展と無縁ではないと思われます。

アサントールの寺院の脇からマハボーダに抜ける細い路地をご存知でしょうか。カトマンズの秋葉原といわれている電器屋街です。既製服問屋街を日本橋馬喰町、浅草橋とすると、この地域の特性がわかります。

昭和30-40年代の家庭の三種の神器というとテレビ、冷蔵庫、洗濯機でした。

アサントールの電器屋街のいまどきはやりの家電は、液晶テレビ、冷蔵庫、音響機器です。スーパーマーケットやショッピングモールがいくつもできましたが、アサンの路地裏は私の長年の定点観測マーケットです。

(スガジイ)