2024年11月6日水曜日

逍遥 ネパール 変わったこと、変わりつつあること (上) #178

 

ネパール 変わったこと、変わりつつあること (上)

 

30年ぶりの弘前である。以前お邪魔したのは、ネパールで親しくしていた人が弘前大学で教鞭をとっていた年のねぷた祭りの季節であった。この度も7月の暑い季節で、昨秋にカトマンズでお会いした応用地形、応用地質、砂防学がご専門のツォウ先生の招聘によるものである。

最近の大学の学部学科は私たちの学生時代の簡単明瞭なタイトルと違って、シラバスを確認しないと何をやっているのかよくわからない。お招きを受けた学科もご多分に漏れず履修モデルを見て理解できた。農業生命科学部地域環境工学科農業土木コース・農山村環境コースの23年生60人が対象であったが、先生や他学科の学生もいらしたようだ。

いただいた講演のお題の一つが「ネパールにおける地域社会構造」である。学生時代の専攻科目であったが、大学ロックアウトや、クラブ活動や学生運動、夜の飲み会にどっぷりつかって教室にはトンとご無沙汰であったし、修士時代はマルクス史観の先生に入れ込んでしまった。大学教育を受けていないといわれる世代である。

そこで、ネパールは124の多言語国家であり、社会構造が多様であると言い訳して、「近代50年の社会構造の変化要因」、いうなれば何が社会を変える契機になったのかを話すこととした。そもそも理系の学生が社会学に興味を向けることはないであろうと自身の浅学を弁解するのであるが、講演内容をつくっていく過程で面白い気付きもあったので以下に紹介したい。

はじめに1951年の王政復古から今日までの社会経済の変遷についてみる。それまではカトマンズ盆地を除いた地方では、ジャガイモやトウモロコシの導入で食糧生産の増大による人口の増加があったにしても、何百年も変わらない生活が続いたと思われる。ネパールにとって激動の近代を王政復古から1990年までの「立憲王政期」、2008年までの「第一次民主化・マオイスト内戦期」、それ以降今日までの「連邦共和制期」の3つに分けてそれぞれの期間を俯瞰する。

社会経済の指標は、幼児死亡率(5歳までの幼児の1,000人当たり死亡数)と一人当たり国内総生産をとった。幼児死亡率は医療事情や母子の栄養状態を反映する社会の推移、一方で一人当たり国内総生産からは国民一人一人の豊かさを知ることができる。

1950年の幼児死亡率は226であり、1960年あたりから大きく低下し始め、その後コンスタントに低下し2022年には24まで改善する。ちなみにインドの同指標は312021年)で日本が1.7である。1956年に第1次五か年計画が始まるが、医療分野ではマラリヤ撲滅、地方への医療機関の拡大、、人材育成があげられている。第2次三か年計画(196265年)、第3次五か年計画(196570年)も同様に医療分野に焦点を当てている。第4次五か年計画では、可能な限り基礎の医療を提供することを目標としてヘルスポスト設置(村落コミュニティにおける医療補助員と医薬品を配備した簡易保健施設)を計画した。一方で急激な人口増加に対処すべく第1次計画から主要作物である米と小麦の増産を目指して灌漑施設の建設に予算を振り向けている。この結果、医療分野には外国援助が充てられたこともあり着実に成果を上げた半面、食糧増産は目標を達成していない。とはいえ、これまで国家レベルでの開発計画がなかったことを考えると、幼児死亡率を着実に低減させる政策的効果があったものと考えていいのではないだろうか。

一人当たり国民総生産(名目)は1990年前後から助走が始まり、2006年ころから急上昇し始める。91年にインドで選挙に勝利したコングレス党政権が経済改革政策を推進するが、第一次民主化を勝ち取ったネパールもそれに先立って1990年の第8次計画で経済自由化を原則としたアプローチへ転換した。悪名高い世銀、IMFの「構造改革」の強要もネパールでは一定の成果を見た。その後マオイスト内戦期を経て、新型コロナのパンデミック期を除いて安定した経済成長率を維持するようになったことが一人当たり国内生産を伸長させたものであると思われる。

 

(続く)

2024930日)

2024年8月31日土曜日

逍遥 センチメンタルジャーニー、そしてコロナ #177

 センチメンタルジャーニー、そしてコロナ

 

今回の出張で、期せずしてハイライトとなったのが「ルムジャタール行」である。1972-3年に農村調査と称して1年間住んだオカルドゥンガ郡の村である。8年前にはカトマンズから車で行けるようになったのだが、尋ねそびれていた。クリシュナ・タマン夫妻の孫のノーマン君に車で同行してもらった。シンズリ道路を行く。バクンデベシが大きなバザールに変貌している。飯屋のおやじに、道路建設チームのキャンプがあった場所をたずねる。2002年にマオイストの襲撃にあったところである。クルコットがこれまた大きなバザールになっている。遅い昼食を食べた飯屋の家族と建設当時の話をしていると、日本人技術者の名前が次々に出てくる。

なおもスンコシ沿いを走りグルミに至る。沢をさかのぼってマハバラート山脈を越してウダイプールのカタリバザールからジャナカプールに出た場所だと思い出がよみがえる。スンコシを渡り高度を稼ぎ、オカルドゥンガバザールが望まれる地点まで来ると、遠くの尾根筋に街ができている。古いバザールから上方にかけて郡や市の役所があり、そのまた上方にバザールが開けている。この地方にはまれなタマン族が経営するホテルに泊まる。ナムチェのホテルに勤務していたという活動的な人である。奥さんがとても愛想がいい。

翌朝は、目当てのハート市にいく。昔は土曜だけだったのが今では水曜日にも開かれる。場所は変わらないがコンクリートで舗装されている。近隣の農家が野菜をもって集まる。ライ族は子豚をもってきていた。少し離れた場所で取引しており、値段を聞けば9千ルピーだというが、隣では8千ルピーで手を打っていた。

次の目当てはキリスト教団体が運営するミッション病院で、バザールから2時間歩いたところ、今では車で行ける。何倍にも大きくなっている。古くからの守衛に案内してもらうが昔の面影はない。バザール出身の事務長と話し込む。当時は伊藤邦幸先生夫妻が駐在されており、日本語が恋しくなると村から4時間歩いて尋ねたものである。

いよいよルムジャタール村である。暑いさなか、村中を歩いて住んでいた家を探したが見つからない。村自体は道が広くなって、昔は一軒しかなかった商店が増えているが、全体的にはそれほど変わっていない。学校の位置が変わったのと、郡の病院と保健所の立派な建物ができている。80歳前後の年寄りのいる家を回るが要領を得ない。私が部屋を借りた大家の名前すら知らないという。地主階層であったこの家族は村人に知られていたはずなのに。だんだんこちらからの誘導尋問めいてきて、村の人の思い違いに翻弄される。当時一人しかいなかった外国人の私を覚えていないとはどういうことだとイライラする。

結局わからずじまいのまま村の新しいホテルに泊まる。女将は村のグルン族とわかるが亭主は顔つきが違う。ビラトナガールから36年前に村の郡病院に赴任したムスリムとわかる。村の人たちの入れ替わりが激しいのだそうだ。純粋なグルン族の村ではなくなっている。村の家々でモヒ(ヨーグルトドリンク)や紅茶、ロキシーをごちそうになって世間話に講じた。学生時代の昔、訪れた家々で温かく迎えられたのと変わりがない人々であった。

問題はそれからである。帰国して翌日、町の心配事相談室の相談員の仕事をした。その翌朝、下痢症状が出る。午前中は民生委員児童委員の月例会に出席した。午後なんとなく心配で体温を測ると36.8度の微熱であったが、念のため近くのクリニックで新型コロナの検査をする。案の定「陽性」だった。5日間の自宅監禁。その間、妻にも伝染してしまう。

潜伏期間からみて、カトマンズの最後の数日間、あるいは飛行機の中で感染したのだろう。出張中一度もマスクをしなかった。のどもと過ぎれば何とやら、まったくの油断であった。

 

2024年8月21日)

 

逍遥 ネパールの明日を創る子どもたちにエールを #175

 ネパールの明日をつくる子どもたちにエールを (1)

 

昨年11月から一月半ほどネパールに行った。カトマンズは一昨年に比べてコロナ禍の経済低迷からすっかり立ち直っているように見えた。新聞報道では消費者物価の上昇が伝えられていたが、数字だけ見るとこれまで何度もあったインフレの局面と大差ないように考えていた。だが、一年というタイムラグの故か感覚的に衝撃が大きかった。食料品、レストラン、タクシー料金などで実感した。

この度の訪問は、8月に立ち上げたNPO法人「ヒマラヤの星たち」の現地活動が目的であった。2017年から子どもの眼を守るプロジェクトのスポンサーであったヤマト福祉財団が主役の座をおりたが、現地の支援者たちの継続要望が絶え間なく届く状況に、NPOを立ち上げて事業を継続したものである。眼の事業に関連して学校の衛生設備である手洗い場やトイレの整備を付け加えた。また、貧困等の理由によって学校に通えない子どもの支援、障害児の自立支援、学校や村の防災事業の4本の柱を目的に設定した。

予算の制約から、対象の学校をカトマンズから近いゴルカ郡の2校とした。おなご先生スミットラ・ラナが勤務するパタンデヴィ校はプリトゥビナラヤン市から悪路を2時間走ったブリガンダキ沿いにある10年制で生徒数154人の中規模校だ。スミットラはラナ姓であるにもかかわらず、経歴書の宗教欄は仏教とある。聞けば母がグルン族であるよし。インターカースト結婚であった。彼女の出身校は川の上流のグルン族の村ピリムにある。

もう1校のイチャ校は8年制191人、ニシャ・グルンが勤務している。ニシャもピリムの学校出身で、スミットラ同様にポカラのさくら寮卒業生だ。この学校にはブリガンダキ沿いの道をドバンまで走る。2008年と11年に最上流のサマ村まで学校と寄宿舎建設のために歩いたときはアルガートから3日歩いた。サマ村まではさらに4日の行程である。今はここまで小型四駆車が走る。さくら寮の寮母を務めたマンジュ・ドジュが同行してくれる。

プリトゥビナラヤン市を出発する朝に多少下痢気味であったので一日中絶食する。しかし、その甲斐なく、トレッキング・ロッジでは朝までトイレ通いの羽目になった。学校は川から急な斜面を登ったフルチュク村にある。子どもたちは1時間で登るというが、4時間かかってしまった。チームのメンバーは2時間半で着いており、視力検査をしてくれていた。視力0.5以下の子どもを細隙灯顕微鏡で検査する。

パタンデヴィ校から1名、イチャ校から10名がカトマンズの再検査につれてくる。このうち、7歳の女の子は耳が聞こえず診療できない。耳鼻科に連れて行くが、耳垢が溜まっているとのことで除去するのに1週間かかるという。ゴルカの病院で再検査することにする。もう一人の14歳の女児は小児緑内障の疑いありと診断され、ティルガンガ眼科病院で再検査する。このあと2回も村と病院を行き来して緑内障の疑いから解放された。この子も含めて10人は眼鏡をつくって視力が回復して大喜びである。

衛生施設は、パタンデヴィ校のトイレに水が引かれておらず不衛生であったが、校長の要求は女生徒の生理時のトイレ施設の建設である。手洗い場がないので設置を勧めると、給食にはスプーンを使っているので問題ないとのこと。教師の意識改革の必要を痛感した次第。イチャ校は地震で全壊した校舎や衛生施設が内外のドナーによって新しくつくられており問題なさそうである。

就学困難児のアンケートには4人、3人とそれぞれ回答があったので、これから奨学金基金を学校ごとにつくるが、団体ごとの冠奨学基金(名称をドナーごとにつけることができる)を募集中である。わたしたちのNPO事業にご賛同いただき、皆様のご支援をお願いする次第である。

この地域は、2015年の震源地に近く、アルガートより上流が壊滅的被害を受けており、アルケットは大きなバザールに成長し、マチャコーラは長距離バスの発着点として集落の家屋数が5倍以上に大きくなっていた。ドバンも2件のロッジが新築して営業している。一方で、タトパニの3軒の家は地震から無縁のごとく以前のままの姿を維持していた。浴槽が新しくできたのは地震の後であろうか。

 

2024年7月5日)

 

2024年8月2日金曜日

逍遥 ネパールの明日を創る子どもたちにエールを2 #176

ネパールの明日をつくる子どもたちにエールを(2)

 

梅雨が明けて、二十四節季の大暑が過ぎ、セミの鳴き声が一段と大きくなった。あとひと月この暑さと付き合うことを考えるとうんざりする。なにせ、炎天下に10分もいるとめまいがしてくるほどの日ざしである。

5月から4週間ほどネパールに出張した。事務所の引っ越しと秋のプロジェクトの準備が目的であった。一番暑い時期になってしまったのは、某団体から依頼されていたネパールの障害者福祉に関する調査報告書の作成や、NPO法人の年度末の理事会、総会やら行政への報告書提出時期が重なってしまったためである。52年前に始めてカトマンズを訪れた日と一日違いであったのが時の流れを感じさせた。ジャカランダは変わりない華やかさで街を彩っている。

引っ越しは考えていたよりも早く4日で済んだが、日ごろ力仕事をしていない身にはこたえた。帰るまで疲労が抜けずじまいの始末である。新事務所は故宮原巍さんのトランスヒマラヤン・ツアー社の一室を娘のソニアさんのご厚意でお借りした。近くに格安のホテルがあり、定宿とする。

さて、NPO法人のあらましについては先に拙稿でお知らせしたが、今年は地固めの年として、協力者を含めて実施体制を一層強固にする。現地カウンターパートには旧知のクリシュナ・カティワダが代表するNGOを起用し、ティルガンガ眼科病院の小児眼科医スリジャナ・アディカリ女史に総合的に眼科医療部門を見てもらう。これまでも高度な診断、治療は最終的にはティルガンガにゆだねていたのであるが、これで一元化できる。女史の同僚医師を現場に派遣してもらって、学校教師対象の啓蒙活動も容易になった。

この秋にダディン郡2校でプロジェクトを実施するのに先立ち、打合せのため当該校を訪問した。おなご先生ニルマラ・ガイリピレが教えているサルバス校は8年制で113人の児童と10人の教師である。校長はこの集落はダディン郡の中でも貧困集落だという。ニルマラは隣村の出身だが、嫁いでこの村に移り、出稼ぎ中の夫の両親と暮らしている。

他の1校はプリトゥビ・ハイウエーの対岸にあるクリシュナの村アダムタールにあるサティヤワティ校、12年制で663人の児童と38人の先生がいる大規模校である。校舎も鉄筋コンクリート4階建てが3棟ある。近年生徒数が減少しているとかで、使っていない教室が目立つ。都市に近い公立校は子どもを私立学校にとられる傾向にある。教師の質や義務教育修了試験の合格率で私立校がまさっているのが大きな理由という。この学校にはキャンティーン(簡易食堂)があり、6年生以上の公費給食が出ない児童はここで食べるようだ。

この学校の児童数が急激に減少している理由は、少子化と私立学校に子供を通わせるほどに家計が改善していることにあると思われる。少子化はネパール全体の問題として人口ピラミッドを見るとよくわかる。家計の向上はここでもご多分に漏れず海外出稼ぎによる所得増がみられるが、純農村地帯である村の野菜栽培によるものが大きい。ネパール随一の交通量を誇る国道沿線に位置し、しかも大消費地であるカトマンズに近い。野菜の品質も次第に改善されてきている。

50年前のカトマンズの野菜の供給は、近郊のリングロードの外周の村やティミ、バクタプール等からのもので足りていた。朝早く天秤棒で売りに来る光景は季節の風物詩ともなっていた。90年ころからの人口の増加、家計の向上そして外食文化の流行が農産物の需要増を招き、また宅地の郊外への拡張に伴う農地の減少がともなって、供給地を近隣郡の村落からタライ地方まで広げた。

この結果、農家の現金収入はこれまで考えられないほど増えたが、流通が依然として整備されておらず、農家の取り分は不当に少ないものがある。アダムタールの近隣のマレクは国道が開通した70年代から川魚料理を売りに発展したバザールである。90年代初めの水害を機に新たなバザールを野菜の集積地として自然発生的な「道の駅」が形成された。農産物流通の一つのモデルであろう。農村の学校を活動の場としているところ、産地経済の課題も考えてみたい。

2024年7月24日)

 

2024年5月28日火曜日

逍遥 花嫁の越えた峠 #174

 

「花嫁の越えた峠」

2013年春に、東部山地のピケピークにトレッキングに行った。秋田県立大学二村教室の学生とは、2009年にマナスル山麓のサマ村の学校施設に太陽光発電を設置してもらって以来の付き合いである。今年は、オカルドゥンガ郡のグンバ(ラマ教僧院)に設置するとのことで、私も是非にと同行を申し出た。オカルドゥンガ郡東部は197273年に農村調査のため滞在したルムジャタール村がある。当時は、カトマンズから半日バスに揺られ、終点から徒歩で7日かかった。毎日高度差1,000メートルの峠を越える難路である。この山沿いの道はリク川までエベレスト登山隊のキャラバンルートで、カトマンズから徒歩で5日の行程であったが、今では車で6時間ほど走るとリク川に至る。72年に通過したキジパラテに泊まり、翌朝早くチュプル・バンジャン(峠)のゴンパ(ラマ教僧院)で先行の学生に合流する。

 

ゴンパはこのトレッキングチームのサーダーの実家である。同行している年上女房はここから4時間ほど下った村の出身で、シェルパ族居住地のほぼ南限である。サーダーは31歳の時チュプルンを離れ、登山隊やトレッキングの仕事をしてカトマンズで財を成したやり手だ。弟が僧院長を継いでいる。母親も健在だ。

ゴンパから急坂を3時間登りラムディン・ダンダを超えてキルクルディン・ゴンパに下る。北斜面は針葉樹やシャクナゲの密林で、足元にはプリムラが咲いている。ゴンパには200人の僧が暮らすそうだが、冬季はカトマンズやインドに避寒移住するので留守番の数人しかいない。廃村に来たような寂しさである。本堂に泊まる。

翌日は東側の道を上り返して広いダンダ(尾根)にでる。尾根をのんびり歩いて小さなゴンパと一軒の農家のあるキャンタールで昼食。なおも広くたおやかな尾根筋を歩きタクルンにテントを張る。茶店が一軒ある。この尾根の道はとても整備されて歩きやすいが、昔からソル・クンブ地方のシェルパ族がカトマンズに出るときに歩いた経路だという。乾季であれば、ここからスンコシ河に出て河原を歩いたほうが山沿いの峠をいくつも超えるよりはずっと楽である。

73年春にスンコシ川ルートを通ってみた。一人旅は、寝袋一つ持って、寝泊まりは家の軒下を借り、食事は道筋の茶屋で済ます。チャパティ(種なしパン)であったり、ご飯に豆スープ、ジャガイモのカレーのネパール定食であったりした。時にネパール人の家族が炊事道具一式をもって旅しているのに出会って、食事をごちそうになった。一人旅は危険だから一緒に行こうと親切にいってくれる人もいた。

ピケピークへは夜明け前に出発する。標高4,000メートルの上りは息が続かない。風も強く冷たい。頂上ではシェルパが持ってきたロキシー(ネパール焼酎)で体を温める。信心深いシェルパは祠にお供え物をして祈っている。クンブ・ヒマールに朝日が当たるがそれほど赤くならない。夕焼けのほうがきっといい色になるに違いない。

ゴール・ゴンパへの下りの道からは厚い針葉樹の木間越しにタシラプツァ峠(5,755m)を囲む山が見える。タマコシ川最上流ロールワリンの村々とクンブ地方を結ぶ古い道であり、両地方はシェルパ族の婚姻圏である。トレッキングロッジの女将さんに出身地を聞けば、何人かはこの峠を越えて嫁いできたという。里帰りするのも容易でない。

バンダールへの上り道で二組の花婿のグループに会う。これからデオラリ峠(3,105m)を越えて花嫁を迎えにいくという。新調の背広を着ている。東へ4時間歩いた村の人たちだ。翌日、峠で休んでいると、昨日の花婿が十代の花嫁を連れて引き返してきた。ネパールの結婚年齢は若い。親が決めた結婚で、前日初めて会ったそうだ。お祝いを述べると恥ずかしそうにうつむいてしまった。カトマンズのように華美な花嫁衣裳ではない。付き添いの親族や村人は朝から一杯やって上機嫌である。日本では過去形になってしまった峠も、ネパールでは日常の生活が息づいている。

シバラヤでは河原でロクタ(沈丁花)の皮をたたいて干していた。72年の当時も農家の庭先で紙をすいていたのはこの近辺の村ではなかったか。当時は地図が手に入らなかったので確認できなかったし、何よりもへとへとの毎日であったため、記憶があいまいなのである。その時のガイドはピケピークから1日下ったサレリ出身で、5月にエベレストに登頂したばかりのソナム・ギャルツェン・シェルパだった。

ラムディン・ダンダにはミツマタの可憐な花が咲いていた。

 

20151227日、2024520日改)

 

 

 

 

逍遥 人間到る処青山あり #173

「人間到る処青山あり」

 

5月12日に着いた。雨のカトマンズだった。52年前に初めてネパールの地を踏んだのは13日だった。その日は、頭がくらくらする陽射しにジャガランタの紫がシャワーのように降っていた。

Tさんは今では知らない人はいない名士であるが、カトマンズで日本料理店を始められたのは、私が会社を早期退職して、なんとも独りよがりな仕事を始めた時期と同じころであった。その風貌は“客商売”にはおよそにつかわしくない印象であった。うかがったところ、繊維業界で長いこと過ごされ、飲食店経営の夢をおもちだった。

繊維業界が日本の経済を支えた頂点の時代に始まり、日米繊維摩擦で袋叩きにあい、アジアの国々の繊維産業の追い上げで国内繊維産業が坂を転げ落ちるがごとく衰退した、そんな日本経済の構造的な変革をその真っただ中で経験された、と推量の域を出ないのは、ご本人から人生をお聞きする度量がわたしにはなかっただけである。

この稿の思いつきは、数日前のあるレストランでのよくある出来事であった。食事をしていると、あとから来た2人の客が大型スクリーンでクリケットを見始めた。しばらくして全電灯が消される。わたしとしたら、食事の最中に暗くなり不愉快極まりない。支払い時に、消灯した理由と問うと、経営者かマネジャーかの男が故障だという。見え透いたその場限りの嘘である。客をあからさまに選別する経営者の姿勢もこのレスウトラン限りではない。 50年前の経営者と少しも変わらぬビジネス・マインドに、少なからず失望した。

Tさんの日本料理ビジネスが今日の盛況をもたらしたのは何であろう。当地に新鮮な海産物を提供する本格的な和食がなかったことや、目の前で調理する鉄板焼きにカトマンズ上流階級が好んで集まったばかりではないと思われる。客になることがカトマンズのビジネス社会のステータスになったのはなぜだろうか。Tさんの商売の成功の大きな要因は、土地でのビジネスとその形態の着眼はさておいて、「場」の作り方が大きな要素であると思う。

サービス業は「時」と「場」の価値の提供といわれる。そして私だけの特別な。カトマンズにおける素材やネパール人の調理技術の劣位がTさんの念頭にあった。昔話の類になるが、1980年代に王宮通りの一等地に、ネパール人の親友が日本人の板前を招いて日本料理店を経営した。10年程は期待以上に繫栄したが長続きしなかった。何かが足りなかった。

Tさんの店ののれんをくぐるとすかさずに「いらっしゃい」の日本語が店内に響く。店主が率先しての発声である。日本料理店であってもネパール人経営ではこうはいかない。店の経営者あるいは運営を任されている人の意識は、「俺はえらい」のである。客より偉いのである。そこには、日ごろ同族社会や同質の地域社会で暮らしている人々が、一歩その外に出たとたんに他人との距離と上下関係を見切らざるを得ない意識構造が見て取れる。Tさんの店の客の多くは、日本のサービス業の心地よさを日本で体験している。周辺でいえばタイのバンコクでも味わえる。店に入れば自分だけの「場」が提供される。店主が率先すれば業員にも気持ちが伝わる。経営者が従業員を遇する心持が、無自覚ではあっても従業員の接客態度に反映されているように見える。上位カーストの人たちには理解しがたいと思われるが。

わたしにとって忘れられない出来事がある。日本人の小さな組織が機能不全になったまま数年が経過した。この組織の生みの親の一人である私にとって、なんともやりきれない寂しさの私情と、小規模ながらこの地で懸命にビジネスしている人たちにとって活動の制約条件になりやしないかとの懸念であった。人事を含めた提案をしたのであるが、思わぬ翻意の説得工作が水面下でなされた。成員個々のビジネスへの悪影響を懸念して根回しなしに協議に臨んだ。提案を望ましくないと考える人のメンツがる。私の議事進行は、自分でもイライラするほど歯切れの悪いものになった。出席者もその場のよどんだ空気の中で沈思した。Tさんの「成員の利益となる組織の刷新とさらなる団結」の明瞭な意見が出席者の心を動かした。

このとき、斜陽産業に身を置いて苦闘するTさんを見た気がした。生業の呻吟の中で夢を追い続ける姿である。日本料理店は繁盛して支店を出した。のちに本店を譲り渡す際に、有能な従業員を本店に残した。いずれの従業員も我が子のように育てたTさんの自信の表れとみえる。侠気のひとである。

2024518日)


2024年2月13日火曜日

逍遥 同じ穴の貉 #172

同じ穴の貉

 

今年の冬は暖かいのだろう。我が家の庭さきの梅は早くも満開である。町役場構内のあたみ桜もまた濃いピンクの大ぶりの花を枝いっぱいに咲かせている。

 

庭の陽だまりでタヌキがエアコン屋外機の風にあたっている。ガラス越しに眼があっても逃げない。全身の毛はずいぶん汚れている。左の脇腹に大きな傷がある。傷ついてそれほど時間がたっていないように見える。

 

山に住んでいたのだろうが、どうやって我が家にたどり着いたのだろう。我が家はJRの駅から400mほどの距離の住宅地にある。駅の裏は住宅地だがすぐに急斜面の畑や雑木林になる。反対の西方は県境の川からまで300mで、その先は山に連なる雑木林である。この辺りが彼らの住処なのだろう。昼間に交通量のある道路を経てきたとは考えにくいので、夜間に来て近くにかくれていたのかもしれない。

 

サルはたまに出没する。夏には子連れで来ることが多い。開け放した窓から侵入して仏壇のお供え物を奪っていく。秋にはたわわに実ったカキの実が目当てである。警察署に通報するとお巡りさんがオットリガタナで駆けつけてくる。数年前までは真剣に追いかけまわしていたが、最近では“またですか?”と面倒くさそうだ。町役場の農林水産課では爆竹を配布しているが、敵もサルものですっかり慣れっこになって驚かない。彼らと共存しているカトマンズとは住民の心持が違う。

 

わが町のゆるキャラは「ゆがわら戦隊ゆたぽんファイブ」である。狸の子ども5人組が悪の組織が現れると戦士に変身するというストーリーだそうだが、イマイチわからない。感性が鈍いといわれれば納得なのであるが、これまでこの町のPR戦略には借り物が多いような気がしている。以前「相模の小京都」をキャッチフレーズにしたことがある。海岸の玉石をかつて京都御所の造園に献上したというのが根拠だそうだが、街並みが似ているわけでもなし、歴史的ないわれもない。とってつけたような感が否めない。

 

湯河原には優れた文化遺産がある。万葉集巻十四東歌の相聞歌十二首のうちの一つとして収録されている。

足柄(あしがり)土肥(とい)河内(こうち)()づる湯のよにもたよらに子ろが言わなくに

足柄の河口近辺に出る湯河原温泉の湯、世にも絶えないその湯のように愛情が絶えることはないとあの子は言ってくれない。解釈は諸説ある。

 

古くは源頼朝の鎌倉幕府旗揚げに土地の豪族土肥次郎實平が重責を担ったことから、「平家物語」、「源平盛衰記」、「吾妻鑑」に登場する。明治期以降多くの文人が湯治に訪れており文学作品や絵画を残している。国木田独歩の紀行文「湯河原ゆき」の最後に “我々が門川で下りて、更に人力車に乗りかえ、湯河原の渓谷に向かった時、さながら雲深く分け入る思ひがあった” と書いており、明治期の田舎然としたたたずまいがしのばれる。作家の山本有三宅には近くに住んでいたこともあって子どもの頃にお邪魔した記憶がある。

 

これも観光用のストーリー臭いが、湯河原温泉はタヌキが傷をいやすために河原の湯に浸かっているのを住民が発見したのが始まりという。JRの駅にも湯桶を抱えた陶製のペア狸が鎮座している。さて、我が家の訪問者は猫用の餌を毎日平らげて3日ほど床下に暮らしたが、外出してやりそこなったのを機にいなくなった。傷が癒えて体力が回復したのか、あるいはよそにもっとおいしい食べものがあったのか、はたまた同居人と“同じ穴のムジナ”にはなりたくなかったのか。

 

202422日)