2024年5月28日火曜日

逍遥 花嫁の越えた峠 #174

 

「花嫁の越えた峠」

2013年春に、東部山地のピケピークにトレッキングに行った。秋田県立大学二村教室の学生とは、2009年にマナスル山麓のサマ村の学校施設に太陽光発電を設置してもらって以来の付き合いである。今年は、オカルドゥンガ郡のグンバ(ラマ教僧院)に設置するとのことで、私も是非にと同行を申し出た。オカルドゥンガ郡東部は197273年に農村調査のため滞在したルムジャタール村がある。当時は、カトマンズから半日バスに揺られ、終点から徒歩で7日かかった。毎日高度差1,000メートルの峠を越える難路である。この山沿いの道はリク川までエベレスト登山隊のキャラバンルートで、カトマンズから徒歩で5日の行程であったが、今では車で6時間ほど走るとリク川に至る。72年に通過したキジパラテに泊まり、翌朝早くチュプル・バンジャン(峠)のゴンパ(ラマ教僧院)で先行の学生に合流する。

 

ゴンパはこのトレッキングチームのサーダーの実家である。同行している年上女房はここから4時間ほど下った村の出身で、シェルパ族居住地のほぼ南限である。サーダーは31歳の時チュプルンを離れ、登山隊やトレッキングの仕事をしてカトマンズで財を成したやり手だ。弟が僧院長を継いでいる。母親も健在だ。

ゴンパから急坂を3時間登りラムディン・ダンダを超えてキルクルディン・ゴンパに下る。北斜面は針葉樹やシャクナゲの密林で、足元にはプリムラが咲いている。ゴンパには200人の僧が暮らすそうだが、冬季はカトマンズやインドに避寒移住するので留守番の数人しかいない。廃村に来たような寂しさである。本堂に泊まる。

翌日は東側の道を上り返して広いダンダ(尾根)にでる。尾根をのんびり歩いて小さなゴンパと一軒の農家のあるキャンタールで昼食。なおも広くたおやかな尾根筋を歩きタクルンにテントを張る。茶店が一軒ある。この尾根の道はとても整備されて歩きやすいが、昔からソル・クンブ地方のシェルパ族がカトマンズに出るときに歩いた経路だという。乾季であれば、ここからスンコシ河に出て河原を歩いたほうが山沿いの峠をいくつも超えるよりはずっと楽である。

73年春にスンコシ川ルートを通ってみた。一人旅は、寝袋一つ持って、寝泊まりは家の軒下を借り、食事は道筋の茶屋で済ます。チャパティ(種なしパン)であったり、ご飯に豆スープ、ジャガイモのカレーのネパール定食であったりした。時にネパール人の家族が炊事道具一式をもって旅しているのに出会って、食事をごちそうになった。一人旅は危険だから一緒に行こうと親切にいってくれる人もいた。

ピケピークへは夜明け前に出発する。標高4,000メートルの上りは息が続かない。風も強く冷たい。頂上ではシェルパが持ってきたロキシー(ネパール焼酎)で体を温める。信心深いシェルパは祠にお供え物をして祈っている。クンブ・ヒマールに朝日が当たるがそれほど赤くならない。夕焼けのほうがきっといい色になるに違いない。

ゴール・ゴンパへの下りの道からは厚い針葉樹の木間越しにタシラプツァ峠(5,755m)を囲む山が見える。タマコシ川最上流ロールワリンの村々とクンブ地方を結ぶ古い道であり、両地方はシェルパ族の婚姻圏である。トレッキングロッジの女将さんに出身地を聞けば、何人かはこの峠を越えて嫁いできたという。里帰りするのも容易でない。

バンダールへの上り道で二組の花婿のグループに会う。これからデオラリ峠(3,105m)を越えて花嫁を迎えにいくという。新調の背広を着ている。東へ4時間歩いた村の人たちだ。翌日、峠で休んでいると、昨日の花婿が十代の花嫁を連れて引き返してきた。ネパールの結婚年齢は若い。親が決めた結婚で、前日初めて会ったそうだ。お祝いを述べると恥ずかしそうにうつむいてしまった。カトマンズのように華美な花嫁衣裳ではない。付き添いの親族や村人は朝から一杯やって上機嫌である。日本では過去形になってしまった峠も、ネパールでは日常の生活が息づいている。

シバラヤでは河原でロクタ(沈丁花)の皮をたたいて干していた。72年の当時も農家の庭先で紙をすいていたのはこの近辺の村ではなかったか。当時は地図が手に入らなかったので確認できなかったし、何よりもへとへとの毎日であったため、記憶があいまいなのである。その時のガイドはピケピークから1日下ったサレリ出身で、5月にエベレストに登頂したばかりのソナム・ギャルツェン・シェルパだった。

ラムディン・ダンダにはミツマタの可憐な花が咲いていた。

 

20151227日、2024520日改)

 

 

 

 

逍遥 人間到る処青山あり #173

「人間到る処青山あり」

 

5月12日に着いた。雨のカトマンズだった。52年前に初めてネパールの地を踏んだのは13日だった。その日は、頭がくらくらする陽射しにジャガランタの紫がシャワーのように降っていた。

Tさんは今では知らない人はいない名士であるが、カトマンズで日本料理店を始められたのは、私が会社を早期退職して、なんとも独りよがりな仕事を始めた時期と同じころであった。その風貌は“客商売”にはおよそにつかわしくない印象であった。うかがったところ、繊維業界で長いこと過ごされ、飲食店経営の夢をおもちだった。

繊維業界が日本の経済を支えた頂点の時代に始まり、日米繊維摩擦で袋叩きにあい、アジアの国々の繊維産業の追い上げで国内繊維産業が坂を転げ落ちるがごとく衰退した、そんな日本経済の構造的な変革をその真っただ中で経験された、と推量の域を出ないのは、ご本人から人生をお聞きする度量がわたしにはなかっただけである。

この稿の思いつきは、数日前のあるレストランでのよくある出来事であった。食事をしていると、あとから来た2人の客が大型スクリーンでクリケットを見始めた。しばらくして全電灯が消される。わたしとしたら、食事の最中に暗くなり不愉快極まりない。支払い時に、消灯した理由と問うと、経営者かマネジャーかの男が故障だという。見え透いたその場限りの嘘である。客をあからさまに選別する経営者の姿勢もこのレスウトラン限りではない。 50年前の経営者と少しも変わらぬビジネス・マインドに、少なからず失望した。

Tさんの日本料理ビジネスが今日の盛況をもたらしたのは何であろう。当地に新鮮な海産物を提供する本格的な和食がなかったことや、目の前で調理する鉄板焼きにカトマンズ上流階級が好んで集まったばかりではないと思われる。客になることがカトマンズのビジネス社会のステータスになったのはなぜだろうか。Tさんの商売の成功の大きな要因は、土地でのビジネスとその形態の着眼はさておいて、「場」の作り方が大きな要素であると思う。

サービス業は「時」と「場」の価値の提供といわれる。そして私だけの特別な。カトマンズにおける素材やネパール人の調理技術の劣位がTさんの念頭にあった。昔話の類になるが、1980年代に王宮通りの一等地に、ネパール人の親友が日本人の板前を招いて日本料理店を経営した。10年程は期待以上に繫栄したが長続きしなかった。何かが足りなかった。

Tさんの店ののれんをくぐるとすかさずに「いらっしゃい」の日本語が店内に響く。店主が率先しての発声である。日本料理店であってもネパール人経営ではこうはいかない。店の経営者あるいは運営を任されている人の意識は、「俺はえらい」のである。客より偉いのである。そこには、日ごろ同族社会や同質の地域社会で暮らしている人々が、一歩その外に出たとたんに他人との距離と上下関係を見切らざるを得ない意識構造が見て取れる。Tさんの店の客の多くは、日本のサービス業の心地よさを日本で体験している。周辺でいえばタイのバンコクでも味わえる。店に入れば自分だけの「場」が提供される。店主が率先すれば業員にも気持ちが伝わる。経営者が従業員を遇する心持が、無自覚ではあっても従業員の接客態度に反映されているように見える。上位カーストの人たちには理解しがたいと思われるが。

わたしにとって忘れられない出来事がある。日本人の小さな組織が機能不全になったまま数年が経過した。この組織の生みの親の一人である私にとって、なんともやりきれない寂しさの私情と、小規模ながらこの地で懸命にビジネスしている人たちにとって活動の制約条件になりやしないかとの懸念であった。人事を含めた提案をしたのであるが、思わぬ翻意の説得工作が水面下でなされた。成員個々のビジネスへの悪影響を懸念して根回しなしに協議に臨んだ。提案を望ましくないと考える人のメンツがる。私の議事進行は、自分でもイライラするほど歯切れの悪いものになった。出席者もその場のよどんだ空気の中で沈思した。Tさんの「成員の利益となる組織の刷新とさらなる団結」の明瞭な意見が出席者の心を動かした。

このとき、斜陽産業に身を置いて苦闘するTさんを見た気がした。生業の呻吟の中で夢を追い続ける姿である。日本料理店は繁盛して支店を出した。のちに本店を譲り渡す際に、有能な従業員を本店に残した。いずれの従業員も我が子のように育てたTさんの自信の表れとみえる。侠気のひとである。

2024518日)