2024年8月31日土曜日

逍遥 センチメンタルジャーニー、そしてコロナ #177

 センチメンタルジャーニー、そしてコロナ

 

今回の出張で、期せずしてハイライトとなったのが「ルムジャタール行」である。1972-3年に農村調査と称して1年間住んだオカルドゥンガ郡の村である。8年前にはカトマンズから車で行けるようになったのだが、尋ねそびれていた。クリシュナ・タマン夫妻の孫のノーマン君に車で同行してもらった。シンズリ道路を行く。バクンデベシが大きなバザールに変貌している。飯屋のおやじに、道路建設チームのキャンプがあった場所をたずねる。2002年にマオイストの襲撃にあったところである。クルコットがこれまた大きなバザールになっている。遅い昼食を食べた飯屋の家族と建設当時の話をしていると、日本人技術者の名前が次々に出てくる。

なおもスンコシ沿いを走りグルミに至る。沢をさかのぼってマハバラート山脈を越してウダイプールのカタリバザールからジャナカプールに出た場所だと思い出がよみがえる。スンコシを渡り高度を稼ぎ、オカルドゥンガバザールが望まれる地点まで来ると、遠くの尾根筋に街ができている。古いバザールから上方にかけて郡や市の役所があり、そのまた上方にバザールが開けている。この地方にはまれなタマン族が経営するホテルに泊まる。ナムチェのホテルに勤務していたという活動的な人である。奥さんがとても愛想がいい。

翌朝は、目当てのハート市にいく。昔は土曜だけだったのが今では水曜日にも開かれる。場所は変わらないがコンクリートで舗装されている。近隣の農家が野菜をもって集まる。ライ族は子豚をもってきていた。少し離れた場所で取引しており、値段を聞けば9千ルピーだというが、隣では8千ルピーで手を打っていた。

次の目当てはキリスト教団体が運営するミッション病院で、バザールから2時間歩いたところ、今では車で行ける。何倍にも大きくなっている。古くからの守衛に案内してもらうが昔の面影はない。バザール出身の事務長と話し込む。当時は伊藤邦幸先生夫妻が駐在されており、日本語が恋しくなると村から4時間歩いて尋ねたものである。

いよいよルムジャタール村である。暑いさなか、村中を歩いて住んでいた家を探したが見つからない。村自体は道が広くなって、昔は一軒しかなかった商店が増えているが、全体的にはそれほど変わっていない。学校の位置が変わったのと、郡の病院と保健所の立派な建物ができている。80歳前後の年寄りのいる家を回るが要領を得ない。私が部屋を借りた大家の名前すら知らないという。地主階層であったこの家族は村人に知られていたはずなのに。だんだんこちらからの誘導尋問めいてきて、村の人の思い違いに翻弄される。当時一人しかいなかった外国人の私を覚えていないとはどういうことだとイライラする。

結局わからずじまいのまま村の新しいホテルに泊まる。女将は村のグルン族とわかるが亭主は顔つきが違う。ビラトナガールから36年前に村の郡病院に赴任したムスリムとわかる。村の人たちの入れ替わりが激しいのだそうだ。純粋なグルン族の村ではなくなっている。村の家々でモヒ(ヨーグルトドリンク)や紅茶、ロキシーをごちそうになって世間話に講じた。学生時代の昔、訪れた家々で温かく迎えられたのと変わりがない人々であった。

問題はそれからである。帰国して翌日、町の心配事相談室の相談員の仕事をした。その翌朝、下痢症状が出る。午前中は民生委員児童委員の月例会に出席した。午後なんとなく心配で体温を測ると36.8度の微熱であったが、念のため近くのクリニックで新型コロナの検査をする。案の定「陽性」だった。5日間の自宅監禁。その間、妻にも伝染してしまう。

潜伏期間からみて、カトマンズの最後の数日間、あるいは飛行機の中で感染したのだろう。出張中一度もマスクをしなかった。のどもと過ぎれば何とやら、まったくの油断であった。

 

2024年8月21日)

 

逍遥 ネパールの明日を創る子どもたちにエールを #175

 ネパールの明日をつくる子どもたちにエールを (1)

 

昨年11月から一月半ほどネパールに行った。カトマンズは一昨年に比べてコロナ禍の経済低迷からすっかり立ち直っているように見えた。新聞報道では消費者物価の上昇が伝えられていたが、数字だけ見るとこれまで何度もあったインフレの局面と大差ないように考えていた。だが、一年というタイムラグの故か感覚的に衝撃が大きかった。食料品、レストラン、タクシー料金などで実感した。

この度の訪問は、8月に立ち上げたNPO法人「ヒマラヤの星たち」の現地活動が目的であった。2017年から子どもの眼を守るプロジェクトのスポンサーであったヤマト福祉財団が主役の座をおりたが、現地の支援者たちの継続要望が絶え間なく届く状況に、NPOを立ち上げて事業を継続したものである。眼の事業に関連して学校の衛生設備である手洗い場やトイレの整備を付け加えた。また、貧困等の理由によって学校に通えない子どもの支援、障害児の自立支援、学校や村の防災事業の4本の柱を目的に設定した。

予算の制約から、対象の学校をカトマンズから近いゴルカ郡の2校とした。おなご先生スミットラ・ラナが勤務するパタンデヴィ校はプリトゥビナラヤン市から悪路を2時間走ったブリガンダキ沿いにある10年制で生徒数154人の中規模校だ。スミットラはラナ姓であるにもかかわらず、経歴書の宗教欄は仏教とある。聞けば母がグルン族であるよし。インターカースト結婚であった。彼女の出身校は川の上流のグルン族の村ピリムにある。

もう1校のイチャ校は8年制191人、ニシャ・グルンが勤務している。ニシャもピリムの学校出身で、スミットラ同様にポカラのさくら寮卒業生だ。この学校にはブリガンダキ沿いの道をドバンまで走る。2008年と11年に最上流のサマ村まで学校と寄宿舎建設のために歩いたときはアルガートから3日歩いた。サマ村まではさらに4日の行程である。今はここまで小型四駆車が走る。さくら寮の寮母を務めたマンジュ・ドジュが同行してくれる。

プリトゥビナラヤン市を出発する朝に多少下痢気味であったので一日中絶食する。しかし、その甲斐なく、トレッキング・ロッジでは朝までトイレ通いの羽目になった。学校は川から急な斜面を登ったフルチュク村にある。子どもたちは1時間で登るというが、4時間かかってしまった。チームのメンバーは2時間半で着いており、視力検査をしてくれていた。視力0.5以下の子どもを細隙灯顕微鏡で検査する。

パタンデヴィ校から1名、イチャ校から10名がカトマンズの再検査につれてくる。このうち、7歳の女の子は耳が聞こえず診療できない。耳鼻科に連れて行くが、耳垢が溜まっているとのことで除去するのに1週間かかるという。ゴルカの病院で再検査することにする。もう一人の14歳の女児は小児緑内障の疑いありと診断され、ティルガンガ眼科病院で再検査する。このあと2回も村と病院を行き来して緑内障の疑いから解放された。この子も含めて10人は眼鏡をつくって視力が回復して大喜びである。

衛生施設は、パタンデヴィ校のトイレに水が引かれておらず不衛生であったが、校長の要求は女生徒の生理時のトイレ施設の建設である。手洗い場がないので設置を勧めると、給食にはスプーンを使っているので問題ないとのこと。教師の意識改革の必要を痛感した次第。イチャ校は地震で全壊した校舎や衛生施設が内外のドナーによって新しくつくられており問題なさそうである。

就学困難児のアンケートには4人、3人とそれぞれ回答があったので、これから奨学金基金を学校ごとにつくるが、団体ごとの冠奨学基金(名称をドナーごとにつけることができる)を募集中である。わたしたちのNPO事業にご賛同いただき、皆様のご支援をお願いする次第である。

この地域は、2015年の震源地に近く、アルガートより上流が壊滅的被害を受けており、アルケットは大きなバザールに成長し、マチャコーラは長距離バスの発着点として集落の家屋数が5倍以上に大きくなっていた。ドバンも2件のロッジが新築して営業している。一方で、タトパニの3軒の家は地震から無縁のごとく以前のままの姿を維持していた。浴槽が新しくできたのは地震の後であろうか。

 

2024年7月5日)

 

2024年8月2日金曜日

逍遥 ネパールの明日を創る子どもたちにエールを2 #176

ネパールの明日をつくる子どもたちにエールを(2)

 

梅雨が明けて、二十四節季の大暑が過ぎ、セミの鳴き声が一段と大きくなった。あとひと月この暑さと付き合うことを考えるとうんざりする。なにせ、炎天下に10分もいるとめまいがしてくるほどの日ざしである。

5月から4週間ほどネパールに出張した。事務所の引っ越しと秋のプロジェクトの準備が目的であった。一番暑い時期になってしまったのは、某団体から依頼されていたネパールの障害者福祉に関する調査報告書の作成や、NPO法人の年度末の理事会、総会やら行政への報告書提出時期が重なってしまったためである。52年前に始めてカトマンズを訪れた日と一日違いであったのが時の流れを感じさせた。ジャカランダは変わりない華やかさで街を彩っている。

引っ越しは考えていたよりも早く4日で済んだが、日ごろ力仕事をしていない身にはこたえた。帰るまで疲労が抜けずじまいの始末である。新事務所は故宮原巍さんのトランスヒマラヤン・ツアー社の一室を娘のソニアさんのご厚意でお借りした。近くに格安のホテルがあり、定宿とする。

さて、NPO法人のあらましについては先に拙稿でお知らせしたが、今年は地固めの年として、協力者を含めて実施体制を一層強固にする。現地カウンターパートには旧知のクリシュナ・カティワダが代表するNGOを起用し、ティルガンガ眼科病院の小児眼科医スリジャナ・アディカリ女史に総合的に眼科医療部門を見てもらう。これまでも高度な診断、治療は最終的にはティルガンガにゆだねていたのであるが、これで一元化できる。女史の同僚医師を現場に派遣してもらって、学校教師対象の啓蒙活動も容易になった。

この秋にダディン郡2校でプロジェクトを実施するのに先立ち、打合せのため当該校を訪問した。おなご先生ニルマラ・ガイリピレが教えているサルバス校は8年制で113人の児童と10人の教師である。校長はこの集落はダディン郡の中でも貧困集落だという。ニルマラは隣村の出身だが、嫁いでこの村に移り、出稼ぎ中の夫の両親と暮らしている。

他の1校はプリトゥビ・ハイウエーの対岸にあるクリシュナの村アダムタールにあるサティヤワティ校、12年制で663人の児童と38人の先生がいる大規模校である。校舎も鉄筋コンクリート4階建てが3棟ある。近年生徒数が減少しているとかで、使っていない教室が目立つ。都市に近い公立校は子どもを私立学校にとられる傾向にある。教師の質や義務教育修了試験の合格率で私立校がまさっているのが大きな理由という。この学校にはキャンティーン(簡易食堂)があり、6年生以上の公費給食が出ない児童はここで食べるようだ。

この学校の児童数が急激に減少している理由は、少子化と私立学校に子供を通わせるほどに家計が改善していることにあると思われる。少子化はネパール全体の問題として人口ピラミッドを見るとよくわかる。家計の向上はここでもご多分に漏れず海外出稼ぎによる所得増がみられるが、純農村地帯である村の野菜栽培によるものが大きい。ネパール随一の交通量を誇る国道沿線に位置し、しかも大消費地であるカトマンズに近い。野菜の品質も次第に改善されてきている。

50年前のカトマンズの野菜の供給は、近郊のリングロードの外周の村やティミ、バクタプール等からのもので足りていた。朝早く天秤棒で売りに来る光景は季節の風物詩ともなっていた。90年ころからの人口の増加、家計の向上そして外食文化の流行が農産物の需要増を招き、また宅地の郊外への拡張に伴う農地の減少がともなって、供給地を近隣郡の村落からタライ地方まで広げた。

この結果、農家の現金収入はこれまで考えられないほど増えたが、流通が依然として整備されておらず、農家の取り分は不当に少ないものがある。アダムタールの近隣のマレクは国道が開通した70年代から川魚料理を売りに発展したバザールである。90年代初めの水害を機に新たなバザールを野菜の集積地として自然発生的な「道の駅」が形成された。農産物流通の一つのモデルであろう。農村の学校を活動の場としているところ、産地経済の課題も考えてみたい。

2024年7月24日)