2017年10月27日金曜日

10月27日

真鶴半島のうっそうとした自然林の中に瀟洒な「真鶴町立中川一政美術館」があります。人口7千人の小さな町の素晴らしい文化施設です。

中川一政は明治26年(1893年)に東京都文京区に生まれ、昭和24年に50代半ばで真鶴町にアトリエを移します。それから20年間福浦漁港からの風景を連作します。悪天候以外は毎日通ったといいます。

当時の福浦村はその後湯河原町、吉浜町と合併して今の湯河原町となります。私が生まれたのは中川が漁村を描き始める2年前で、漁港を見下ろす丘の上の母の実家です。最近母の戸籍謄本をとる必要があり祖父の代まで知る機会がありました。

母は9人兄弟の一番上に生まれました。2人が夭逝しています。父は7人兄弟の末っ子でしたが、時代は国威発揚の膨張政策の時なので『産めよ増やせよ』と子作りを奨励したことでしょう。少子化の現代では考えられない子供の数です。

祖父は網元の次男坊です。本家は戦後カツオ遠洋漁業に進出しますが事故でとん挫します。次男の冷や飯食いといいます。祖父は一丁櫓の小さな船で一人漁に出かけていました。よく子沢山の家計収入が得られたものと不思議でなりません。雛にはまれな端正な顔立ちでした。

家もそれほど大きくありませんが、伯父の一人は内湯があり家井戸がある家庭は村では希少だったといいます。子供心にトイレが外にあったのには夜に恐ろしい思いをしました。
祖母は湯河原の大百姓で二人姉妹の次女でした。貧しい漁師の家に嫁いで、さぞやさみしい思いをしたのではないでしょうか。

昔の田舎のことなので旅行をする楽しみもなく、祖父などはただ一度の日光旅行の思い出話をしていました。祖父母ともに町内の私の家に年に数回遊びに来るのが数少ない娯楽であったようです。私も夏祭りを楽しみにしていました。『けんか山車』や『神輿の海渡』など、荒っぽい漁師町ならではのものです。

中川の「福浦」の連作の時期は私の幼少期から思春期と重なるところ、今後ゆっくりと私の心象風景と重ね合わせて鑑賞したいと思います。


(スガジイ)