2026年3月6日金曜日

逍遥181 Gen Z運動って何だ? (2)

 

逍遥181 Gen Z運動って何だ? (2

 

Gen Zとは何者か

とっさに1960年代末の全共闘運動を思い浮かべた。私の世代である。アメリカのベトナム戦争反対、べ平連運動、原子力空母エンタープライズの横須賀寄港反対等の左翼活動が毎日のごとく報道され1966年に大学に入って間もなく刺激を受けた。これらに続いて、東大の医学部でインターン問題が提起され、また日大では経営陣による資金不正使用発覚を契機に全国の大学に運動が広がっていた。これに先立つパリのカルチェラタン等の運動に刺激を受けて、世界的に学生運動の広がりを見たのである。

翻ってネパールのGen Zであるが、日を追って分かってきたのが、NGO活動をしているコアなグループがあるが、全体的にはソーシャルメディアの広がりで運動に共感した若者たちの集まりであることであった。政治家のネポティズムや汚職が共通のアジェンダである。そこには通底する思想基盤は見られない。むしろイデオロギーがないことが若年層を含めた広範な運動になったのであろう。抗議行動の過程で、他の勢力による暴動へと発展する中、いくつかのグループが大統領および軍と協議する機会を獲得したのは、既存の政治システムがほぼ崩壊したこともあり、一定の影響力を顕示したかに見えた。

暫定首相を選定するまでが彼らの政治関与の限界だった。いや、初めから政治に関与するとは考えてもいなかったのではないか。その意味では偶然性の強い運動であったといえる。全共闘運動のように運動の過激化が組織の力を弱めて消滅していったのとは異なり、自然にフェードアウトしていく運命にあるのだろう。社会意識に目覚めた若者を育んで。

既成政党は動いた

動けなかったのが本音であろう。統一共産党のオリ首相は官邸から軍のヘリで救出された。のちに議会の解散総選挙は憲法違反だとのステートメントを出すが、負け犬の遠吠えにしか響かなかった。ネパリコングレス党をはじめ多くの政党のリーダーが暴徒による暴力を受けた。家も焼かれた。身を守るのが精いっぱいであったのだろう。共産党マオ派のプラチャンダは若者に迎合するかのごとき意見表明。彼らには、この3党でなれ合いのごとく政権を交代したのだが、わいろ政治、縁故主義を顧みる意識改革はないであろう。なぜならば、これらは王政時代からこの方当たり前のようになされ、いわばネパールの統治の文化のようになっているからである。逆に見れば、民衆から権力者あるいは社会的地位を得た人、チネコマンチェへのおねだりでもある。持ちつ持たれつのなれ合い社会といってもいい。

辛くもネパリコングレス党の若返りがあった。Gen Z運動時に主要政党のユース組織が動くとみていたが、大きな流れに飲み込まれてしまったようだ。政党の内部からの改革を期待したのだが幻想であった。

 

表に出ない力が働いた

陰謀論めくが、全国各地で時をたがえずして役所等の建物が襲撃されたのはいかなる力が働いたのであろうか。各地の刑務所が襲われて収容者が逃走したのも、武器が暴徒の手に渡ったのも成り行きの出来事とは考えにくい。先にも述べたが、Gen Z運動には暴力の意思がなかったことは事実だろう。ましてやリーダーの中に全国区の影響力がうかがわれるものは見当たらない。

首都圏の警察機能がマヒしたと聞いた時、まず懸念したのが軍の動きである。うがった見方とは思いつつも、国軍の生い立ちは王様の軍隊である、新憲法下でどれほど意識改革が進んでいるか、一定の王政復古を標榜する政治勢力もある、暮らし向きがよくならない民衆の王政へのノスタルジーも聞こえる、等々妄想がわく。幸いにして軍の良識を得てことなくして済んだ。

インド政府がいち早く各勢力の抑制を促したと聞く。インドにしても若者の政治改革を求める運動がスリランカに始まり、バングラデシュ、ネパールと続いて、明日は我が身となりかねない。地域の盟主として経済大国とならんとしている今日、社会不安は避けたいところだ。最大人口の民主主義国において権力を集中させるモディにとって、中国を意識せざるを得ない。

事態の真相究明の作業が始まったという。はっきりとした検討結果は示されないであろう。大きな出来事で真相究明がなされたためしがない。ことをはっきりさせないことが、多様な社会集団からなるこの国の統治者から民衆までの生きる知恵なのかもしれない。

(2026年2月25日)

 

 

 

 

2025年12月29日月曜日

逍遥180 Gen Z運動って何だ? (1)

 

逍遥180 Gen Z運動って何だ? (1)

 

989日のGen Zによる激震から3か月たった。76人もの死者を出す惨事となった。1210日には暫定政権とGen Z代表との間で10項目合意がなされた。日本にいる身としては、あまりに短い間の政治的出来事を限られた情報源で追いかけるのが精いっぱいであった。メディアによっては、出来事をprotestmovementといったりrevolutionと表現したりしている。同一記事でも両表現を混在させている。いったいどんな活動であったのか、少し落ち着いた今、当時のネパール英字紙から、出来事を整理してみたい。

まず、出来事を時系列的にみていく。

94

ネパール共産党(UML派)オリ政権は、税制改正に伴う通信事業関連法の改訂による登録を怠ったことを根拠として、FacebookXYou Tube等26のソーシャルメディアプラットフォーム(SMP)を停止する措置をとった。

98

NGO Hami Nepalが組織したものや自発的に集まった数万人の抗議集会が当初は平和裏にマイティガルとナヤ・バネソールの連邦議会前で始まる。議会敷地のフェンスを登り始めた集会の一部の者に対し警察部隊が当初は非殺傷武器で対応したが、次第にエスカレートする中で発砲して少なくとも19人が死亡し347人が負傷する。暴徒化した勢力には政党の組織下のものもあったといわれる。暴動は全国各地に広がる

政府は夕刻にSMP停止命令を撤回し、内務大臣が辞任する。また、外出禁止令がカトマンズの他6都市に出される。

99

オリ首相は軍のヘリでシバプリの軍施設に退避する。抗議の群衆が中央政庁のシンガダルバール、最高裁判所、シタルニワス大統領官邸、バルワタールの首相官邸、シン副首相私邸、ネパール共産党(UML派)本部、ネパリコングレス党本部、複数の大臣私邸、バンダリ前大統領、デウバ前首相、カナル元首相、プラチャンダ元首相、ラナ外相等私邸、国会議員私邸等に放火する。地方でも地方議会政治家の私邸が放火される。

民間施設は、カンティプール・メディアハウス、チャンドラギリケーブルカー、CGグループ工場、バトバティニ・スーパーマーケット等が破壊される。

全国各地の刑務所が破壊されて、収容者が逃走する。

軍等の治安部隊が政治家をトリブバン国際空港に避難させ、その後空港は軍の統制下におかれ閉鎖される。農業大臣、保健大臣、ラストリヤ・スワタントラ党の国会議員21人が辞職表明する。

ギャネンドラ元国王が声明を出したことによって、一部の王制復活主張が表面化する。

軍は、深夜、首相不在の間、法と秩序を守るために国家運営に責任をもつ、との声明を発出し、軍部隊の街頭展開への協力をよびかけ、抗議活動団体に協議を求める。

910

暴徒の政府オフィスや政治家私邸への襲撃が依然として続く。軍は武装暴徒からの一部武器の押収を発表する。各地の刑務所襲撃が続き9日の脱走者と合わせ13,500人に上る。

抗議活動に参加する民衆間でオンライン通信ソフトDiscordを通じて、暫定首相にスシラ・カルキ最高裁判所長官を推す声が上がる。同ソフトの利用者は14万人以上になる。

911

ポウデル大統領、軍参謀長官、Gen Z代表が、軍参謀本部で暫定首相選定の協議をもち、Gen Z代表団はスシラ・カルキを主張する。バレンドラ・シャハ、クルマン・ギシン、ハルカ・ラジ・ライの名前があがる。ネパール共産党(マオイストセンター)が抗議団体への支持を表明。

912

スシラ・カルキが暫定首相に就任。ポウデル大統領が議会を解散し、202635日の選挙を表明する。

警察当局が刑務所からの脱走者がいまだ12,500人と発表する。

913

カトマンズの外出禁止令が解除される。市中は平穏を取り戻す。

914

カルキ暫定首相は、平静さと抗議活動に続く再建に協力するよう呼び掛ける。また、放火等は前もって計画されたものだとし、犯罪行為の責任を追及すると述べる。暫定首相の起源は6か月を超えないものとすると明言する。

 

なぜ政府はSMPの停止措置をとったのか?

1990年の第一次民主化運動以降、権力の座にある政治家たちは変わらない顔ぶれである。当時まさに働き盛りであった彼らも、すでに老齢の域に達している。ネパールの年齢中央値は25歳で、まさにGen Zと重なる。彼らにとってソーシャルメディアのない日常生活がいかなるものか、古い世代の政治家は気づくことはなかったのであろう。ちなみに、ソーシャルメディアのアカウント普及率は48%でお隣のインドの33.7%より高い。

この頃ソーシャルメディアでは政治リーダーの子息や親族が特権を利用したビジネスを享受し、庶民には手の届かない処遇を受けているという縁故主義が横行して、これらの人々をNepo Kid’と称して拡散されていた。これを嫌った停止措置といわれている。また、国内経済の停滞によって雇用の拡大が望めず、海外出稼ぎに頼らざるを得ない状況に若者のフラストレーションは高まっている。

権力者はSMPの停止によって事態が収まると考えたのだろうか。お隣の国と同様な統治手法で政権を維持できると考えたのだろうか。確かにこの国には絶対王制時代の残滓がある。70年代には王室の話は小声でしなければならなかったし、マオイスト内戦時代も同様であった。かつて郡長官(CDO)の権力は絶大であった。

地方分権化後の選挙で選ばれた首長たちがとてつもない権力を獲得したかのようにふるまっているのをしばしば見かける。私は民主化によって‘petit raja’(小さな王様)がたくさん生まれたと揶揄している。ネパールのビジネス社会ではトップの権限は絶大であり、No.2にトップの座を脅かす優秀な人材を置かないのが常である。最近の日本でも超優良企業が同様の弊害を除去できずに苦しんでいるのを見る。

教訓は「権腐(けんぷ)十年(長期に権力の座にいれば腐敗する)」と戒めている。  

 

20251220日)

2025年7月1日火曜日

逍遥179 大地震から10年

逍遥179 大地震から10

 

ゴルカ地震から10年が過ぎた。あの時は、日本で何度も経験した身にとっても恐怖を覚えたほどの揺れであった。オフィスの机の下にかくれようとした途端に、わきの書類棚が倒れてきて下敷きになった。妻は昼食の準備をしていた。

2013年にNPO法人を設立して初めてのプロジェクトをゴルカ郡の学校で実施することとした。児童の眼の健康を守る事業を中心としたプロジェクトである。学校の選択は、日本ネパール女性教育協会が養成した100人の女性教師おなごせんせい”が赴任している2校である。

一校は郡南部のブリガンダキ川に面したキャムンタールにあるパタンデビ中等学校である。地震で全壊して、少し高いところにある教員室は2階建ての鉄筋コンクリートだが、教室はプレハブである。下流にブリガンダキダムの建設が計画されており、この土地はいずれ水面下になるので仮校舎としている。トイレ等衛生施設も劣悪である。ダム建設は、アクセス道路はできているものの、いつ始まるか見通しはない。おなご先生はスミットラ・ラナ、経歴書には仏教徒とある、ラナはチェトリ・カーストのヒンズー教徒なのに。聞けば父がラナで、村の役所に赴任してグルン族の母と結婚したのだという。グルン族は多くが仏教徒だ。

次の一校はブリガンダキをさかのぼったドバンから左岸の急斜面を登ったフルチュク村のイチャ初等学校である。おなご先生はニシャ・グルン、スミットラと同じピリムのブッダ中等学校の出身。

この道はは208年と11年にサマ村に行くときに徒歩で通過している。野口健さんの主催するNPO法人セブンサミッツ持続社会機構の依頼で第一期で2010年に教室と寄宿舎、第二期2014年に集会所が完成した。第一期の建築物の地震による被害は軽微であったが、集会所は修復不可能なほど破壊された。設計に際して建築家に要求したのは、現地で得られる資材を使うことと、現地で修復可能な伝統建築を基礎とする2点であった。第一期の建築物はまさに地元の人の手で修復が可能な被害範囲であった。集会所崩壊の原因は、石材の加工をごまかしていたことと、屋根を軽くするために軽量鉄骨を使ったことと思われる。揺れを支えきれなかったとも考えられる。

さて2023年のマナスル街道の話に戻そう。震災からの復興と、道路ができたことによる新たな経済圏の形成を見る旅ともなった。以前はダディン側からブリガンダキをアルガートにわたるにはつり橋であったため、ここから歩き始めた。アルガートはカトマンズ・ゴルカ・ポカラ往還のバザールであるとともに、1970年代初めに自動車道路が開通した後もブリガンダキ経済圏の中心地として重要な役割を果たしている。ソティコーラとアルガートの中間点にアルケットという小さな村がある。道路が奥地に伸びたことによって、ここが流通の拠点として開けている。アルガートももちろんバザールの規模が倍になっているので、前進基地の意味もうすいと思うのだが、アルガートが地形の制約によってこれ以上拡張ができないのかもしれない。

以前はソティコーラに泊まって、次の日にマチャコーラまで歩いた。マチャコーラがブリガンダキに合流するところの数件の店屋がある集落だった。この支流をさかのぼれば2015年大地震の震源地ラプラックである。このマチャコーラ集落が長距離バスの終点になっており、震災後にロッジが多数できて、以前の面影が全くない。

ここからは四駆の小型車が村人の足になっている。ネパールの名だたる温泉地はボテコシ沿い、カリガンダキ沿い、そしてここブリガンダキ沿いのタトパニで、いうなれば元祖三大温泉場である。ここのタトパニの3軒の家屋が全く地震の影響を受けていない。岩盤にへばりついて建ててあるからだろうか。温泉は打たせ湯に浴槽が新設されていた。ここがボトルネックになって道路を拡張できないために小型車しか入れない。

タトパニから15分も走ればドバンにつく。以前の記録を見ると50分歩いている。ドバンの数件のロッジも全壊して新築してある。この先ジャガットまで道路は建設済みだが、ドバンの橋ができていないため四駆のサービスはここまで。

ドバンから左岸の急坂を上って目的地のフルチュクに行くことになるが、村の子どもの足で1時間足らずのところ、スタッフは2時間半、私はなんと4時間かけて村の学校にたどり着く始末。実は、前夜下痢が止まらず全く寝ていなかったのであった。それはさておき、村は全滅、学校も内外の篤志家の寄付によって立派に建て直されている。地震の後ヘリでサマ村の被害調査に行ったが、飛行経路のブリガンダキ沿いの斜面の村々にはブルーシートが目立った。 そのうちの一つがフルチュク村であったのかもしれない。

大地震から8年後の復興状況は考えていたより早いものがあった。ドバンから2日歩くとグルン族の文化圏からチベット文化圏に移る。さらに2日歩いてサマ村であるが、この間の集落も地震被害は大きいものがあったと思われる。復興状況が気にかかる。 

 

2025613日)

 


2024年11月6日水曜日

逍遥 ネパール 変わったこと、変わりつつあること (上) #178

 

ネパール 変わったこと、変わりつつあること (上)

 

30年ぶりの弘前である。以前お邪魔したのは、ネパールで親しくしていた人が弘前大学で教鞭をとっていた年のねぷた祭りの季節であった。この度も7月の暑い季節で、昨秋にカトマンズでお会いした応用地形、応用地質、砂防学がご専門のツォウ先生の招聘によるものである。

最近の大学の学部学科は私たちの学生時代の簡単明瞭なタイトルと違って、シラバスを確認しないと何をやっているのかよくわからない。お招きを受けた学科もご多分に漏れず履修モデルを見て理解できた。農業生命科学部地域環境工学科農業土木コース・農山村環境コースの23年生60人が対象であったが、先生や他学科の学生もいらしたようだ。

いただいた講演のお題の一つが「ネパールにおける地域社会構造」である。学生時代の専攻科目であったが、大学ロックアウトや、クラブ活動や学生運動、夜の飲み会にどっぷりつかって教室にはトンとご無沙汰であったし、修士時代はマルクス史観の先生に入れ込んでしまった。大学教育を受けていないといわれる世代である。

そこで、ネパールは124の多言語国家であり、社会構造が多様であると言い訳して、「近代50年の社会構造の変化要因」、いうなれば何が社会を変える契機になったのかを話すこととした。そもそも理系の学生が社会学に興味を向けることはないであろうと自身の浅学を弁解するのであるが、講演内容をつくっていく過程で面白い気付きもあったので以下に紹介したい。

はじめに1951年の王政復古から今日までの社会経済の変遷についてみる。それまではカトマンズ盆地を除いた地方では、ジャガイモやトウモロコシの導入で食糧生産の増大による人口の増加があったにしても、何百年も変わらない生活が続いたと思われる。ネパールにとって激動の近代を王政復古から1990年までの「立憲王政期」、2008年までの「第一次民主化・マオイスト内戦期」、それ以降今日までの「連邦共和制期」の3つに分けてそれぞれの期間を俯瞰する。

社会経済の指標は、幼児死亡率(5歳までの幼児の1,000人当たり死亡数)と一人当たり国内総生産をとった。幼児死亡率は医療事情や母子の栄養状態を反映する社会の推移、一方で一人当たり国内総生産からは国民一人一人の豊かさを知ることができる。

1950年の幼児死亡率は226であり、1960年あたりから大きく低下し始め、その後コンスタントに低下し2022年には24まで改善する。ちなみにインドの同指標は312021年)で日本が1.7である。1956年に第1次五か年計画が始まるが、医療分野ではマラリヤ撲滅、地方への医療機関の拡大、、人材育成があげられている。第2次三か年計画(196265年)、第3次五か年計画(196570年)も同様に医療分野に焦点を当てている。第4次五か年計画では、可能な限り基礎の医療を提供することを目標としてヘルスポスト設置(村落コミュニティにおける医療補助員と医薬品を配備した簡易保健施設)を計画した。一方で急激な人口増加に対処すべく第1次計画から主要作物である米と小麦の増産を目指して灌漑施設の建設に予算を振り向けている。この結果、医療分野には外国援助が充てられたこともあり着実に成果を上げた半面、食糧増産は目標を達成していない。とはいえ、これまで国家レベルでの開発計画がなかったことを考えると、幼児死亡率を着実に低減させる政策的効果があったものと考えていいのではないだろうか。

一人当たり国民総生産(名目)は1990年前後から助走が始まり、2006年ころから急上昇し始める。91年にインドで選挙に勝利したコングレス党政権が経済改革政策を推進するが、第一次民主化を勝ち取ったネパールもそれに先立って1990年の第8次計画で経済自由化を原則としたアプローチへ転換した。悪名高い世銀、IMFの「構造改革」の強要もネパールでは一定の成果を見た。その後マオイスト内戦期を経て、新型コロナのパンデミック期を除いて安定した経済成長率を維持するようになったことが一人当たり国内生産を伸長させたものであると思われる。

 

(続く)

2024930日)

2024年8月31日土曜日

逍遥 センチメンタルジャーニー、そしてコロナ #177

 センチメンタルジャーニー、そしてコロナ

 

今回の出張で、期せずしてハイライトとなったのが「ルムジャタール行」である。1972-3年に農村調査と称して1年間住んだオカルドゥンガ郡の村である。8年前にはカトマンズから車で行けるようになったのだが、尋ねそびれていた。クリシュナ・タマン夫妻の孫のノーマン君に車で同行してもらった。シンズリ道路を行く。バクンデベシが大きなバザールに変貌している。飯屋のおやじに、道路建設チームのキャンプがあった場所をたずねる。2002年にマオイストの襲撃にあったところである。クルコットがこれまた大きなバザールになっている。遅い昼食を食べた飯屋の家族と建設当時の話をしていると、日本人技術者の名前が次々に出てくる。

なおもスンコシ沿いを走りグルミに至る。沢をさかのぼってマハバラート山脈を越してウダイプールのカタリバザールからジャナカプールに出た場所だと思い出がよみがえる。スンコシを渡り高度を稼ぎ、オカルドゥンガバザールが望まれる地点まで来ると、遠くの尾根筋に街ができている。古いバザールから上方にかけて郡や市の役所があり、そのまた上方にバザールが開けている。この地方にはまれなタマン族が経営するホテルに泊まる。ナムチェのホテルに勤務していたという活動的な人である。奥さんがとても愛想がいい。

翌朝は、目当てのハート市にいく。昔は土曜だけだったのが今では水曜日にも開かれる。場所は変わらないがコンクリートで舗装されている。近隣の農家が野菜をもって集まる。ライ族は子豚をもってきていた。少し離れた場所で取引しており、値段を聞けば9千ルピーだというが、隣では8千ルピーで手を打っていた。

次の目当てはキリスト教団体が運営するミッション病院で、バザールから2時間歩いたところ、今では車で行ける。何倍にも大きくなっている。古くからの守衛に案内してもらうが昔の面影はない。バザール出身の事務長と話し込む。当時は伊藤邦幸先生夫妻が駐在されており、日本語が恋しくなると村から4時間歩いて尋ねたものである。

いよいよルムジャタール村である。暑いさなか、村中を歩いて住んでいた家を探したが見つからない。村自体は道が広くなって、昔は一軒しかなかった商店が増えているが、全体的にはそれほど変わっていない。学校の位置が変わったのと、郡の病院と保健所の立派な建物ができている。80歳前後の年寄りのいる家を回るが要領を得ない。私が部屋を借りた大家の名前すら知らないという。地主階層であったこの家族は村人に知られていたはずなのに。だんだんこちらからの誘導尋問めいてきて、村の人の思い違いに翻弄される。当時一人しかいなかった外国人の私を覚えていないとはどういうことだとイライラする。

結局わからずじまいのまま村の新しいホテルに泊まる。女将は村のグルン族とわかるが亭主は顔つきが違う。ビラトナガールから36年前に村の郡病院に赴任したムスリムとわかる。村の人たちの入れ替わりが激しいのだそうだ。純粋なグルン族の村ではなくなっている。村の家々でモヒ(ヨーグルトドリンク)や紅茶、ロキシーをごちそうになって世間話に講じた。学生時代の昔、訪れた家々で温かく迎えられたのと変わりがない人々であった。

問題はそれからである。帰国して翌日、町の心配事相談室の相談員の仕事をした。その翌朝、下痢症状が出る。午前中は民生委員児童委員の月例会に出席した。午後なんとなく心配で体温を測ると36.8度の微熱であったが、念のため近くのクリニックで新型コロナの検査をする。案の定「陽性」だった。5日間の自宅監禁。その間、妻にも伝染してしまう。

潜伏期間からみて、カトマンズの最後の数日間、あるいは飛行機の中で感染したのだろう。出張中一度もマスクをしなかった。のどもと過ぎれば何とやら、まったくの油断であった。

 

2024年8月21日)

 

逍遥 ネパールの明日を創る子どもたちにエールを #175

 ネパールの明日をつくる子どもたちにエールを (1)

 

昨年11月から一月半ほどネパールに行った。カトマンズは一昨年に比べてコロナ禍の経済低迷からすっかり立ち直っているように見えた。新聞報道では消費者物価の上昇が伝えられていたが、数字だけ見るとこれまで何度もあったインフレの局面と大差ないように考えていた。だが、一年というタイムラグの故か感覚的に衝撃が大きかった。食料品、レストラン、タクシー料金などで実感した。

この度の訪問は、8月に立ち上げたNPO法人「ヒマラヤの星たち」の現地活動が目的であった。2017年から子どもの眼を守るプロジェクトのスポンサーであったヤマト福祉財団が主役の座をおりたが、現地の支援者たちの継続要望が絶え間なく届く状況に、NPOを立ち上げて事業を継続したものである。眼の事業に関連して学校の衛生設備である手洗い場やトイレの整備を付け加えた。また、貧困等の理由によって学校に通えない子どもの支援、障害児の自立支援、学校や村の防災事業の4本の柱を目的に設定した。

予算の制約から、対象の学校をカトマンズから近いゴルカ郡の2校とした。おなご先生スミットラ・ラナが勤務するパタンデヴィ校はプリトゥビナラヤン市から悪路を2時間走ったブリガンダキ沿いにある10年制で生徒数154人の中規模校だ。スミットラはラナ姓であるにもかかわらず、経歴書の宗教欄は仏教とある。聞けば母がグルン族であるよし。インターカースト結婚であった。彼女の出身校は川の上流のグルン族の村ピリムにある。

もう1校のイチャ校は8年制191人、ニシャ・グルンが勤務している。ニシャもピリムの学校出身で、スミットラ同様にポカラのさくら寮卒業生だ。この学校にはブリガンダキ沿いの道をドバンまで走る。2008年と11年に最上流のサマ村まで学校と寄宿舎建設のために歩いたときはアルガートから3日歩いた。サマ村まではさらに4日の行程である。今はここまで小型四駆車が走る。さくら寮の寮母を務めたマンジュ・ドジュが同行してくれる。

プリトゥビナラヤン市を出発する朝に多少下痢気味であったので一日中絶食する。しかし、その甲斐なく、トレッキング・ロッジでは朝までトイレ通いの羽目になった。学校は川から急な斜面を登ったフルチュク村にある。子どもたちは1時間で登るというが、4時間かかってしまった。チームのメンバーは2時間半で着いており、視力検査をしてくれていた。視力0.5以下の子どもを細隙灯顕微鏡で検査する。

パタンデヴィ校から1名、イチャ校から10名がカトマンズの再検査につれてくる。このうち、7歳の女の子は耳が聞こえず診療できない。耳鼻科に連れて行くが、耳垢が溜まっているとのことで除去するのに1週間かかるという。ゴルカの病院で再検査することにする。もう一人の14歳の女児は小児緑内障の疑いありと診断され、ティルガンガ眼科病院で再検査する。このあと2回も村と病院を行き来して緑内障の疑いから解放された。この子も含めて10人は眼鏡をつくって視力が回復して大喜びである。

衛生施設は、パタンデヴィ校のトイレに水が引かれておらず不衛生であったが、校長の要求は女生徒の生理時のトイレ施設の建設である。手洗い場がないので設置を勧めると、給食にはスプーンを使っているので問題ないとのこと。教師の意識改革の必要を痛感した次第。イチャ校は地震で全壊した校舎や衛生施設が内外のドナーによって新しくつくられており問題なさそうである。

就学困難児のアンケートには4人、3人とそれぞれ回答があったので、これから奨学金基金を学校ごとにつくるが、団体ごとの冠奨学基金(名称をドナーごとにつけることができる)を募集中である。わたしたちのNPO事業にご賛同いただき、皆様のご支援をお願いする次第である。

この地域は、2015年の震源地に近く、アルガートより上流が壊滅的被害を受けており、アルケットは大きなバザールに成長し、マチャコーラは長距離バスの発着点として集落の家屋数が5倍以上に大きくなっていた。ドバンも2件のロッジが新築して営業している。一方で、タトパニの3軒の家は地震から無縁のごとく以前のままの姿を維持していた。浴槽が新しくできたのは地震の後であろうか。

 

2024年7月5日)

 

2024年8月2日金曜日

逍遥 ネパールの明日を創る子どもたちにエールを2 #176

ネパールの明日をつくる子どもたちにエールを(2)

 

梅雨が明けて、二十四節季の大暑が過ぎ、セミの鳴き声が一段と大きくなった。あとひと月この暑さと付き合うことを考えるとうんざりする。なにせ、炎天下に10分もいるとめまいがしてくるほどの日ざしである。

5月から4週間ほどネパールに出張した。事務所の引っ越しと秋のプロジェクトの準備が目的であった。一番暑い時期になってしまったのは、某団体から依頼されていたネパールの障害者福祉に関する調査報告書の作成や、NPO法人の年度末の理事会、総会やら行政への報告書提出時期が重なってしまったためである。52年前に始めてカトマンズを訪れた日と一日違いであったのが時の流れを感じさせた。ジャカランダは変わりない華やかさで街を彩っている。

引っ越しは考えていたよりも早く4日で済んだが、日ごろ力仕事をしていない身にはこたえた。帰るまで疲労が抜けずじまいの始末である。新事務所は故宮原巍さんのトランスヒマラヤン・ツアー社の一室を娘のソニアさんのご厚意でお借りした。近くに格安のホテルがあり、定宿とする。

さて、NPO法人のあらましについては先に拙稿でお知らせしたが、今年は地固めの年として、協力者を含めて実施体制を一層強固にする。現地カウンターパートには旧知のクリシュナ・カティワダが代表するNGOを起用し、ティルガンガ眼科病院の小児眼科医スリジャナ・アディカリ女史に総合的に眼科医療部門を見てもらう。これまでも高度な診断、治療は最終的にはティルガンガにゆだねていたのであるが、これで一元化できる。女史の同僚医師を現場に派遣してもらって、学校教師対象の啓蒙活動も容易になった。

この秋にダディン郡2校でプロジェクトを実施するのに先立ち、打合せのため当該校を訪問した。おなご先生ニルマラ・ガイリピレが教えているサルバス校は8年制で113人の児童と10人の教師である。校長はこの集落はダディン郡の中でも貧困集落だという。ニルマラは隣村の出身だが、嫁いでこの村に移り、出稼ぎ中の夫の両親と暮らしている。

他の1校はプリトゥビ・ハイウエーの対岸にあるクリシュナの村アダムタールにあるサティヤワティ校、12年制で663人の児童と38人の先生がいる大規模校である。校舎も鉄筋コンクリート4階建てが3棟ある。近年生徒数が減少しているとかで、使っていない教室が目立つ。都市に近い公立校は子どもを私立学校にとられる傾向にある。教師の質や義務教育修了試験の合格率で私立校がまさっているのが大きな理由という。この学校にはキャンティーン(簡易食堂)があり、6年生以上の公費給食が出ない児童はここで食べるようだ。

この学校の児童数が急激に減少している理由は、少子化と私立学校に子供を通わせるほどに家計が改善していることにあると思われる。少子化はネパール全体の問題として人口ピラミッドを見るとよくわかる。家計の向上はここでもご多分に漏れず海外出稼ぎによる所得増がみられるが、純農村地帯である村の野菜栽培によるものが大きい。ネパール随一の交通量を誇る国道沿線に位置し、しかも大消費地であるカトマンズに近い。野菜の品質も次第に改善されてきている。

50年前のカトマンズの野菜の供給は、近郊のリングロードの外周の村やティミ、バクタプール等からのもので足りていた。朝早く天秤棒で売りに来る光景は季節の風物詩ともなっていた。90年ころからの人口の増加、家計の向上そして外食文化の流行が農産物の需要増を招き、また宅地の郊外への拡張に伴う農地の減少がともなって、供給地を近隣郡の村落からタライ地方まで広げた。

この結果、農家の現金収入はこれまで考えられないほど増えたが、流通が依然として整備されておらず、農家の取り分は不当に少ないものがある。アダムタールの近隣のマレクは国道が開通した70年代から川魚料理を売りに発展したバザールである。90年代初めの水害を機に新たなバザールを野菜の集積地として自然発生的な「道の駅」が形成された。農産物流通の一つのモデルであろう。農村の学校を活動の場としているところ、産地経済の課題も考えてみたい。

2024年7月24日)

 

2024年5月28日火曜日

逍遥 花嫁の越えた峠 #174

 

「花嫁の越えた峠」

2013年春に、東部山地のピケピークにトレッキングに行った。秋田県立大学二村教室の学生とは、2009年にマナスル山麓のサマ村の学校施設に太陽光発電を設置してもらって以来の付き合いである。今年は、オカルドゥンガ郡のグンバ(ラマ教僧院)に設置するとのことで、私も是非にと同行を申し出た。オカルドゥンガ郡東部は197273年に農村調査のため滞在したルムジャタール村がある。当時は、カトマンズから半日バスに揺られ、終点から徒歩で7日かかった。毎日高度差1,000メートルの峠を越える難路である。この山沿いの道はリク川までエベレスト登山隊のキャラバンルートで、カトマンズから徒歩で5日の行程であったが、今では車で6時間ほど走るとリク川に至る。72年に通過したキジパラテに泊まり、翌朝早くチュプル・バンジャン(峠)のゴンパ(ラマ教僧院)で先行の学生に合流する。

 

ゴンパはこのトレッキングチームのサーダーの実家である。同行している年上女房はここから4時間ほど下った村の出身で、シェルパ族居住地のほぼ南限である。サーダーは31歳の時チュプルンを離れ、登山隊やトレッキングの仕事をしてカトマンズで財を成したやり手だ。弟が僧院長を継いでいる。母親も健在だ。

ゴンパから急坂を3時間登りラムディン・ダンダを超えてキルクルディン・ゴンパに下る。北斜面は針葉樹やシャクナゲの密林で、足元にはプリムラが咲いている。ゴンパには200人の僧が暮らすそうだが、冬季はカトマンズやインドに避寒移住するので留守番の数人しかいない。廃村に来たような寂しさである。本堂に泊まる。

翌日は東側の道を上り返して広いダンダ(尾根)にでる。尾根をのんびり歩いて小さなゴンパと一軒の農家のあるキャンタールで昼食。なおも広くたおやかな尾根筋を歩きタクルンにテントを張る。茶店が一軒ある。この尾根の道はとても整備されて歩きやすいが、昔からソル・クンブ地方のシェルパ族がカトマンズに出るときに歩いた経路だという。乾季であれば、ここからスンコシ河に出て河原を歩いたほうが山沿いの峠をいくつも超えるよりはずっと楽である。

73年春にスンコシ川ルートを通ってみた。一人旅は、寝袋一つ持って、寝泊まりは家の軒下を借り、食事は道筋の茶屋で済ます。チャパティ(種なしパン)であったり、ご飯に豆スープ、ジャガイモのカレーのネパール定食であったりした。時にネパール人の家族が炊事道具一式をもって旅しているのに出会って、食事をごちそうになった。一人旅は危険だから一緒に行こうと親切にいってくれる人もいた。

ピケピークへは夜明け前に出発する。標高4,000メートルの上りは息が続かない。風も強く冷たい。頂上ではシェルパが持ってきたロキシー(ネパール焼酎)で体を温める。信心深いシェルパは祠にお供え物をして祈っている。クンブ・ヒマールに朝日が当たるがそれほど赤くならない。夕焼けのほうがきっといい色になるに違いない。

ゴール・ゴンパへの下りの道からは厚い針葉樹の木間越しにタシラプツァ峠(5,755m)を囲む山が見える。タマコシ川最上流ロールワリンの村々とクンブ地方を結ぶ古い道であり、両地方はシェルパ族の婚姻圏である。トレッキングロッジの女将さんに出身地を聞けば、何人かはこの峠を越えて嫁いできたという。里帰りするのも容易でない。

バンダールへの上り道で二組の花婿のグループに会う。これからデオラリ峠(3,105m)を越えて花嫁を迎えにいくという。新調の背広を着ている。東へ4時間歩いた村の人たちだ。翌日、峠で休んでいると、昨日の花婿が十代の花嫁を連れて引き返してきた。ネパールの結婚年齢は若い。親が決めた結婚で、前日初めて会ったそうだ。お祝いを述べると恥ずかしそうにうつむいてしまった。カトマンズのように華美な花嫁衣裳ではない。付き添いの親族や村人は朝から一杯やって上機嫌である。日本では過去形になってしまった峠も、ネパールでは日常の生活が息づいている。

シバラヤでは河原でロクタ(沈丁花)の皮をたたいて干していた。72年の当時も農家の庭先で紙をすいていたのはこの近辺の村ではなかったか。当時は地図が手に入らなかったので確認できなかったし、何よりもへとへとの毎日であったため、記憶があいまいなのである。その時のガイドはピケピークから1日下ったサレリ出身で、5月にエベレストに登頂したばかりのソナム・ギャルツェン・シェルパだった。

ラムディン・ダンダにはミツマタの可憐な花が咲いていた。

 

20151227日、2024520日改)

 

 

 

 

逍遥 人間到る処青山あり #173

「人間到る処青山あり」

 

5月12日に着いた。雨のカトマンズだった。52年前に初めてネパールの地を踏んだのは13日だった。その日は、頭がくらくらする陽射しにジャガランタの紫がシャワーのように降っていた。

Tさんは今では知らない人はいない名士であるが、カトマンズで日本料理店を始められたのは、私が会社を早期退職して、なんとも独りよがりな仕事を始めた時期と同じころであった。その風貌は“客商売”にはおよそにつかわしくない印象であった。うかがったところ、繊維業界で長いこと過ごされ、飲食店経営の夢をおもちだった。

繊維業界が日本の経済を支えた頂点の時代に始まり、日米繊維摩擦で袋叩きにあい、アジアの国々の繊維産業の追い上げで国内繊維産業が坂を転げ落ちるがごとく衰退した、そんな日本経済の構造的な変革をその真っただ中で経験された、と推量の域を出ないのは、ご本人から人生をお聞きする度量がわたしにはなかっただけである。

この稿の思いつきは、数日前のあるレストランでのよくある出来事であった。食事をしていると、あとから来た2人の客が大型スクリーンでクリケットを見始めた。しばらくして全電灯が消される。わたしとしたら、食事の最中に暗くなり不愉快極まりない。支払い時に、消灯した理由と問うと、経営者かマネジャーかの男が故障だという。見え透いたその場限りの嘘である。客をあからさまに選別する経営者の姿勢もこのレスウトラン限りではない。 50年前の経営者と少しも変わらぬビジネス・マインドに、少なからず失望した。

Tさんの日本料理ビジネスが今日の盛況をもたらしたのは何であろう。当地に新鮮な海産物を提供する本格的な和食がなかったことや、目の前で調理する鉄板焼きにカトマンズ上流階級が好んで集まったばかりではないと思われる。客になることがカトマンズのビジネス社会のステータスになったのはなぜだろうか。Tさんの商売の成功の大きな要因は、土地でのビジネスとその形態の着眼はさておいて、「場」の作り方が大きな要素であると思う。

サービス業は「時」と「場」の価値の提供といわれる。そして私だけの特別な。カトマンズにおける素材やネパール人の調理技術の劣位がTさんの念頭にあった。昔話の類になるが、1980年代に王宮通りの一等地に、ネパール人の親友が日本人の板前を招いて日本料理店を経営した。10年程は期待以上に繫栄したが長続きしなかった。何かが足りなかった。

Tさんの店ののれんをくぐるとすかさずに「いらっしゃい」の日本語が店内に響く。店主が率先しての発声である。日本料理店であってもネパール人経営ではこうはいかない。店の経営者あるいは運営を任されている人の意識は、「俺はえらい」のである。客より偉いのである。そこには、日ごろ同族社会や同質の地域社会で暮らしている人々が、一歩その外に出たとたんに他人との距離と上下関係を見切らざるを得ない意識構造が見て取れる。Tさんの店の客の多くは、日本のサービス業の心地よさを日本で体験している。周辺でいえばタイのバンコクでも味わえる。店に入れば自分だけの「場」が提供される。店主が率先すれば業員にも気持ちが伝わる。経営者が従業員を遇する心持が、無自覚ではあっても従業員の接客態度に反映されているように見える。上位カーストの人たちには理解しがたいと思われるが。

わたしにとって忘れられない出来事がある。日本人の小さな組織が機能不全になったまま数年が経過した。この組織の生みの親の一人である私にとって、なんともやりきれない寂しさの私情と、小規模ながらこの地で懸命にビジネスしている人たちにとって活動の制約条件になりやしないかとの懸念であった。人事を含めた提案をしたのであるが、思わぬ翻意の説得工作が水面下でなされた。成員個々のビジネスへの悪影響を懸念して根回しなしに協議に臨んだ。提案を望ましくないと考える人のメンツがる。私の議事進行は、自分でもイライラするほど歯切れの悪いものになった。出席者もその場のよどんだ空気の中で沈思した。Tさんの「成員の利益となる組織の刷新とさらなる団結」の明瞭な意見が出席者の心を動かした。

このとき、斜陽産業に身を置いて苦闘するTさんを見た気がした。生業の呻吟の中で夢を追い続ける姿である。日本料理店は繁盛して支店を出した。のちに本店を譲り渡す際に、有能な従業員を本店に残した。いずれの従業員も我が子のように育てたTさんの自信の表れとみえる。侠気のひとである。

2024518日)


2024年2月13日火曜日

逍遥 同じ穴の貉 #172

同じ穴の貉

 

今年の冬は暖かいのだろう。我が家の庭さきの梅は早くも満開である。町役場構内のあたみ桜もまた濃いピンクの大ぶりの花を枝いっぱいに咲かせている。

 

庭の陽だまりでタヌキがエアコン屋外機の風にあたっている。ガラス越しに眼があっても逃げない。全身の毛はずいぶん汚れている。左の脇腹に大きな傷がある。傷ついてそれほど時間がたっていないように見える。

 

山に住んでいたのだろうが、どうやって我が家にたどり着いたのだろう。我が家はJRの駅から400mほどの距離の住宅地にある。駅の裏は住宅地だがすぐに急斜面の畑や雑木林になる。反対の西方は県境の川からまで300mで、その先は山に連なる雑木林である。この辺りが彼らの住処なのだろう。昼間に交通量のある道路を経てきたとは考えにくいので、夜間に来て近くにかくれていたのかもしれない。

 

サルはたまに出没する。夏には子連れで来ることが多い。開け放した窓から侵入して仏壇のお供え物を奪っていく。秋にはたわわに実ったカキの実が目当てである。警察署に通報するとお巡りさんがオットリガタナで駆けつけてくる。数年前までは真剣に追いかけまわしていたが、最近では“またですか?”と面倒くさそうだ。町役場の農林水産課では爆竹を配布しているが、敵もサルものですっかり慣れっこになって驚かない。彼らと共存しているカトマンズとは住民の心持が違う。

 

わが町のゆるキャラは「ゆがわら戦隊ゆたぽんファイブ」である。狸の子ども5人組が悪の組織が現れると戦士に変身するというストーリーだそうだが、イマイチわからない。感性が鈍いといわれれば納得なのであるが、これまでこの町のPR戦略には借り物が多いような気がしている。以前「相模の小京都」をキャッチフレーズにしたことがある。海岸の玉石をかつて京都御所の造園に献上したというのが根拠だそうだが、街並みが似ているわけでもなし、歴史的ないわれもない。とってつけたような感が否めない。

 

湯河原には優れた文化遺産がある。万葉集巻十四東歌の相聞歌十二首のうちの一つとして収録されている。

足柄(あしがり)土肥(とい)河内(こうち)()づる湯のよにもたよらに子ろが言わなくに

足柄の河口近辺に出る湯河原温泉の湯、世にも絶えないその湯のように愛情が絶えることはないとあの子は言ってくれない。解釈は諸説ある。

 

古くは源頼朝の鎌倉幕府旗揚げに土地の豪族土肥次郎實平が重責を担ったことから、「平家物語」、「源平盛衰記」、「吾妻鑑」に登場する。明治期以降多くの文人が湯治に訪れており文学作品や絵画を残している。国木田独歩の紀行文「湯河原ゆき」の最後に “我々が門川で下りて、更に人力車に乗りかえ、湯河原の渓谷に向かった時、さながら雲深く分け入る思ひがあった” と書いており、明治期の田舎然としたたたずまいがしのばれる。作家の山本有三宅には近くに住んでいたこともあって子どもの頃にお邪魔した記憶がある。

 

これも観光用のストーリー臭いが、湯河原温泉はタヌキが傷をいやすために河原の湯に浸かっているのを住民が発見したのが始まりという。JRの駅にも湯桶を抱えた陶製のペア狸が鎮座している。さて、我が家の訪問者は猫用の餌を毎日平らげて3日ほど床下に暮らしたが、外出してやりそこなったのを機にいなくなった。傷が癒えて体力が回復したのか、あるいはよそにもっとおいしい食べものがあったのか、はたまた同居人と“同じ穴のムジナ”にはなりたくなかったのか。

 

202422日)