2016年12月30日金曜日

みなさま良いお年を(しばし本邦休暇中)

12月21日:早朝羽田空港着。短時間ながら熟睡。今日は冬至。車窓の相模湾は光り輝き春の景色。午後、奥歯を抜く。晩酌は富山黒部の「幻の瀧」。
12月22日:朝は一転して曇って寒い。庭の桜、モミジ、カキはすっかり落葉。モクレンはすでに新しい芽が息吹いている。夏ミカンは黄色く色づく。新潟県糸魚川市の大火災、夜になっても衰えず。午後は雨ながら南風で肌に不快の温かさ。耳鼻科で鼻炎の治療とインフルエンザの予防注射。
12月23日:天皇誕生日。雲一つない快晴。陽がとても暖かいが、山は冬の支度を始めている。大安。正月用のしめ飾りを買いに行く。とび職の専門店がなくなりホームセンターで。
12月24日:「箱根路を我が越え来れば伊豆の海や 沖の小島に波のよる見ゆ」源実朝の詠んだ初島へ家族と。昨日は波が高く欠航の船も今日は穏やかな海。海鳥の群れが船を追いかける。活イカの刺身で冷酒。
12月25日:全国高校駅伝をテレビ観戦。最終走者が競技場まで来て足がけいれんし、途中倒れながらもゴール。チームプレーの責任感。熱くなる。純真。
12月26日:会社時代の同僚が遠路来訪。奥さんを亡くしたばかり。自身で家事をこなす話に、自分ではできないだろう。相模湾のぶりの照り焼き、箱根芦ノ湖のワカサギの空揚げ、いずれもこの時期ならではの味覚。
12月27日:午後雨が上がって薄暮に山の端が鮮やか。義母から電話で訪問予定の家内が来ないと。 立ち寄った後、福祉事務所に行っているのをすっかり忘れている。夕食は娘と二人、「越の景虎」で海鮮鍋。

(スガジイ)

2016年12月23日金曜日

空のヒマラヤ案内人

ポカラの空をいくつもの超軽量飛行機が飛んでいるのを見たことがありますか。

元ロシアのミグ戦闘機のパイロットであったアレクサンダー・マシモフさんもAvia Club で外国人観光客をマチャプチャレやアンナプルナの間近まで遊覧飛行していましたが、残念なことに先月事故で亡くなりました。彼の名前を一躍知らしめたのは、2012522日に飛行中、アンナプルナIV峰の斜面の大崩落でセティ川に洪水が発生したのを発見して空港の管制塔や警察等に通報、洪水被害を最小限にとどめた功績です。

ネパールの航空機事故は決して少なくありません。今年2月には立て続けに2件の墜落事故が起きています。20141件、20122件、20112件、20102件発生しています。このほかにヘリコプターの事故があります。Flight Safety Foundationによるとこれまで34件の墜落事故で727人がなくなっているとのことです。

1970年代にとても楽しいスイス人パイロットがいました。キャプテン・ウイックといえば思い出す人もいるでしょう。

当時の山間部は道路網が未発達でもっぱら飛行機輸送に頼っていましたが、滑走路は短く、単発機ピラタス・ポーターが活躍していました。赤ら顔の彼はいつもジョークを飛ばして村の人たちの人気者でした。

山間部を飛行中、「ここでエンジンが止まったらどうする」、意地悪な質問に、


「なーに、あそこの田んぼに着陸するさ、機体の3倍の長さで止めてやるよ」。


氷河の上空すれすれに限界高度まで飛んでくれたのも忘れ難い思い出です。


(スガジイ)

2016年12月16日金曜日

血脈

日本に40日間帰りました。

こんなに長く滞在したのは12年ぶりです。小学校や高校のクラス会、大学のOB会と旧交をかわしました。日本はどこに行っても街がきれいで静かなのです。雑然としたカトマンズを懐かしみながら、それでも心地よいのです。

羽田からバンコクまでの航空便は東アジア・東南アジア系の人が多く乗っています。乗り換えでカトマンズ行き搭乗待合室に行くと、異なる皮膚感覚を覚えるのは私ばかりではないでしょう。かつて、華僑はアラカン山脈を越えてインド文化圏には進出できないとされていました。華僑もこれより西との交易にも積極的だったのですが、やはり主役の印僑の世界はアラビア海をまたいだ東アフリカ、中東との大交易圏でした。

瀬川拓郎著『アイヌと縄文―もう一つの日本の歴史』(ちくま新書)では、アイヌが日本人の祖である縄文人であり、オホーツク海交易で活躍し、西日本に半島から大挙して渡来した弥生人と交わらず、近世まで縄文文化を守り続けてきた海漂民が、広大な海のネットワークを組織して、朝鮮半島南部や中国の華南地方にまで進出していた、といっています。

陳舜臣の小説『風よ雲よ』『琉球の風』にも、近世の九州や沖縄の人たちが南の海で活躍するさまが描かれています。私たちに縄文人の血が脈々と受け継がれているのでしょうか。

(スガジイ)

2016年12月9日金曜日

自主製作映画「March」に感動!!

福島の小中学生マーチングバンド「Seeds+」がカトマンズに《元気》を届けてくれました。
ツノダヒロカズさんプロデュースのドキュメンタリー映画「MARCH」です。

2011年3月11日東日本大震災時の福島第一原子力発電所の事故によって、福島県南相馬市原町第一小学校のマーチングバンドは活動中止を余儀なくされます。避難解除ののち再結集したマーチングバンドの活動を追いかけたものです。

このドキュメンタリーはとても抑えた表現で貫かれています。

震災報道は、事故の悲惨さと被害にあった人々の望みを失った姿に焦点が当てられがちです。予期せぬ災害に何もかも失った悲惨さがある中で、人々が前を向いて毎日を生きていることを、子供たちの飛躍を目指して活動する姿を通して感じさせる手法には胸を打つものがあります。

プロデュ―サーのツノダさんは今年5月の八木原圀明さんの講話サロンにゲスト出演されたサッカー応援団ちょんまげ隊長・ツンさんで、ご存知の方も多いと思います。東北や熊本の地震被災地支援のほか、ネパールではシンドゥパルチョク郡ラムチェ村の地震復興を支援されています。


この映画は自主上映制度をとっており、企業、各種団体に一週間3万円で貸し出され、その資金を「Seeds+」の活動に充てるものです。

ご照会やお申し込みはhttp:/seedsplus.main.jp/までお願いします。

また、福島と熊本支援の物産を来る忘年会会場で販売しますので合わせてご支援のほどお願いします

(スガジイ)

2016年12月2日金曜日

日本語と日本文化の日に想う

1126日、日本語教師協会(JALTAN)主催の「日本語カラオケコンテスト」が開催されました。語学学校でない一般の中学生7人のコーラスがとても印象に残りました。澄んだ声で清らかに歌った「牧場の朝」に心を打たれました。歌唱力も抜群でした。


このコンテストは数ある日本語学校の対抗試合のようです。切磋琢磨による成長を嫌い足を引っ張り合う風潮の中で、このようなフェアな形で競争心をはぐくむことを企図できるのは、日本語の普及を指導しているリーダーの皆さんの軸のぶれない指導方針によるものと感動しました。


一方、同じ日に日ネ国交樹立60周年の「日本フェスティバル」が日本人会と日本在住ネパール人協会の共催、日本国大使館の後援で開催されました。盆踊り、武道、書道、食等の文化紹介で盛り上がりました。1万人の多くの人にご参集いただきました。日本に渡航するネパール人が増えていると聞きます。互いの文化を理解することが互いの国で気持ちよく暮らすことができる端緒となるのではないかと思われます。


これら行事を準備運営してくださった方々、ご参加いただいた方々、熱烈なご支援ありがとうございました。
   

(スガジイ)

2016年11月25日金曜日

計画「給電」と改めよ

埼玉県で地下送電線の火災がありました。点検口のマンホールから火柱と黒煙が勢いよく噴き出しています。都内の58万戸が一時停電となりました。日本の政治・行政の中枢である永田町や霞が関でも供給が止まりました。この送電線は35年前に建設されて、60万キロワットの電力を都心に供給しているのだそうです。ネパールのすべての発電所を合わせたものに近い規模です。


驚いたのは停電が短時間のうちに解消したことです。別の系統を使って送電したのです。要因は異なりますが、2003年のニューヨーク大停電では送電システムの脆弱性が指摘されました。ネパールの内戦時の心配事の一つは、送電線の破壊とカトマンズへの電力供給の停止でした。幸いにして、良識をもって?行動されたようです。(農村の小規模発電施設は何ヶ所か破壊されたのですが)それほど電気は現代社会になくてはならないと認識されており、また要求されているのでしょう。


ネパール電力庁はかつて電力需要の伸びとそれに見合った発電所建設計画を年次報告書で発表していました。発表されなくなって久しいのですが、理由は計画しても建設が実行されないからとのことです。何か他人事みたいな話ですね。計画のとおり実施されているのは停電のみです。ケーガルネ!(どうしようもない!)


(スガジイ)

2016年11月18日金曜日

ヒトのあじ

かつての国営電話会社から電話がありました。光通信の勧誘です。

代理店から詳細の連絡がありました。詐欺電話かとも疑いながら話を聞くと、そうでもなさそうです。申し込みが多数あるので工事は一か月後になるといいます。早くできないかと交渉するうちに、代理店氏は「こっちから頼んでいるのではない」とブチ切れてしましました。

家の近くにおいしいラーメン屋があります。

日本にいると一度は行くのですが、今回何か違和感がありました。曰く「これより先立ち入り禁止」、「水のポットは所定の位置より移動しないこと」。門切り型の張り紙のせいかもしれません。表現力の貧困なのでしょうか、あるいは傲慢なのでしょうか。

芥川賞受賞作の『コンビニ人間』を塩野七生さんが文芸春秋11月号の巻頭エッセイでこのように評していました。

《マニュアル化された事柄だけをやっているだけでよいという心地良い安心感と、それと裏表にある、「個」が存在しない世界の索漠さ。》

またこのようにも述べています。

《責任感とは感受性の問題であり、感受性とは相手の立場に立って考えることでもあるから、想像力の問題でもある。つまり、究極の人間的な「味付け」だ。》

ひょっとして、自分や自分の世代の話ではないよねと一瞬立ち止まりましたが、これってすでにマニュアル人間的発想かと思いを致した次第です。

(スガジイ)



2016年11月11日金曜日

老嬢二マと城山に

   
ツワブキの鮮やかな黄色い花が庭のそこここに咲き始めました。10月下旬です。この花の時季は長いのです。カキの実も木の高いところは野鳥のために残しておいて取り終わり、葉も片隅から色づき始めています。夏ミカンのまだ青々としていますが、少しずつ大きくなっているのがわかります。

近くの城山にミニチュアダックスフンドの老嬢ニマを連れてハイキングをしました。家から2時間ほどで頂上に着きます。ニマは短い脚でよく歩きます。道々ドングリを拾い集めます。盆栽に仕立てるのです。アケビは皮を残して散らばっています。野猿が食い散らかしたのかもしれません。イノシシを捕獲する罠も設けてあります。この辺りは春にタケノコを取りに来る山中です。かつての特産だったミカンの畑も耕作放棄地が増しています。

私の家はJRの駅から500mしか離れていませんが、55年程前までは一面の田んぼで、新幹線建設時にトンネル掘削の残土で区画整理した商業地であり住宅地です。子供のころに田植えや稲刈りを手伝い、昼に炊き込みご飯のおにぎりをほおばったところです。数次にわたる全国総合開発計画が実施された高度成長時代でした。


(スガジイ)

2016年11月4日金曜日

日ネマッチング好例

羽田空港の物流拠点《クロノゲート》を見学しました。国道に面して石畳に円形の建物や庭園を配し都会とは思えない植栽の豊富さです。まるで美術館を思わせる雰囲気を醸し出しています。倉庫棟はこの後ろにあり、トラックの出入りも目立たないレイアウトです。

主ベルトコンベアは秒速2.7メートルの走行スピードです。ここから行き先別に枝コンベアに分別されるのですが、大きな段ボール包装から書類封筒まで様々なサイズの荷物が誤りなく流れるのです。国内向けは地域のゲートウエー拠点に配送され、アジア向けは羽田からANAカーゴのハブ空港である那覇に空輸され、ここから各国に送られて翌日には各戸に配達されるとのことです。海外の和食ブームの中、野菜や魚介類の生鮮食品も運ばれます。

目を見張ったのは、この施設で280人のネパール人が働いていることでした。代表の男女2人と会いました。語学学校に通いながら、週28時間の法定限度で働いています。トラックへの貨物の積み下ろしは重労働のようですが、二人とも就業環境に満足しており、正社員への登用を希望していました。企業側もネパール人の一生懸命さを評価していました。労使マッチングの好例なのでしょう。

(スガジイ)

2016年10月28日金曜日

追悼 田部井淳子さん

登山家の田部井淳子さんがお亡くなりになりました。

がんと闘いながらも、登山活動を続けられていらしたし、この春にお会いした時も少しも衰えたご様子ではなかったので、信じられない悲しみで一杯です。


田部井さんに初めてお会いしたのは、1975年にエベレスト女子登山隊で女性として初登頂されたのち、カトマンズで日本大使主催の祝勝会をしたときでした。祝勝会の司会を務めたのは私でした。20年後に私が勤務していた会社に講演にいらした時に再会したのですが、田部井さんはこのことを忘れていました。

植村直己さんからも同じ印象を受けましたが、田部井さんもとても世界一の高峰に登られた冒険家とは思えない誇張のない自然体の人でした。


著書『山を楽しむ』(岩波新書)にこんな記述があります。

「ポツンと遠くに人の影が見えた時、無性にうれしく、早く出会いたいとさえ思えてくる。雑踏の中で行き交う人とのぶつかりをいまいましく思ったりした自分が、今人恋しさのあまり歩調が早くなっている。山の道は人をやさしくさせてくれる所なのだ。」


合掌



(スガジイ)


2016年10月21日金曜日

我が友・ランジャン

《インド人もびっくり》とういう昭和30年代のカレールーのTVコマーシャルを知っている方はかなりの年配でしょう。このインド人こそ我がポン友中のポン友ランジャン・バッタチャリアです。なんだネパール人ではないかと思われる方、さにあらず。

彼のおじいさんが、カルカッタからシャハ王朝に招かれたヒンズー教の司祭なのです。ダヌシャ郡に王宮から膨大な土地を与えられました。成人してカトマンズに出てくるのに道路はなく、村からジャナカプールまでネパール唯一の鉄道に乗ったのだそうです。

日本の篤志家に招かれて愛知県の大学に学びました。このとき地元の会社の目に留まってCMに出たのでしょう。カトマンズに初めて本格的な和食レストランを開業したのも彼です。多くの日本の登山隊を世話していました。残念なことに1990年に若くして亡くなります。映像には出てきませんが、往時のCMソングがここで聞けます。http://www.oriental-curry.co.jp/more/index.html


(スガジイ)


2016年10月14日金曜日

日本の秋


9月下旬に日本に帰国しました。庭の金木犀(もくせい)の花が散り際で、地面は金のじゅうたん。芳香が体を包みます。カキの実はまだ薄緑です。夜は虫の音が涼やかに奏でます。東京の9月のこの日までの日照時間はわずか6時間なのだそうです。東北、北海道が台風の甚大な被害を受けました。

翌日は彼岸のお中日です。菩提寺に墓参りに行きました。春と秋のお彼岸は、寺になんとなくなく華やぎを感じます。この日も大勢の方が家族でお参りに訪れていました。花のお供えのない墓にはわびしさがあります。家族が町を離れたり、葬儀の簡素化等で、墓の維持や寺の経営が厳しくなりつつあると聞きます。

帰りに近くのファミレスで昼食をとりました。休日で満員なのですが、家族連れは一組しか見当たりません。私の年代の年配者ばかりです。増田寛也編「地方消滅」によると、わが町の2040年の出産年齢女性は半減するとの予測です。いきなり現実を見せつけられた感があります。

翌週は高校のクラス会と大学のOB会、翌々週は小学校のクラス会とネパール会が予定されています。元気なのはジジババ世代のようです。

(スガジイ)


2016年10月7日金曜日

ゴンパ百彩

不動産屋の新聞広告にチベット仏教のゴンパ(僧院)用地というのがあり驚きました。それほど需要が多いということなのでしょう。この10年の間に、カトマンズ盆地の周辺農村部には多くのゴンパが建てられています。いずれもお城みたいな立派な建物です。


アジア各国、欧米の仏教徒やチベット支援者の寄付によるものだそうです。ゴンパの主は、古くから移住して辺境の村にいたラマ僧に加えて、中国のチベット侵攻後にネパールに逃れてきたラマ僧です。私の知己のラマ僧は頻繁に外国に招待されて留守にしています。スクーターに乗り始めたと思ったら、昨今は自家用車を運転しています。


マナスル登山のベースキャンプのあるサマ村からプンゲン氷河に沿って登ると、氷河の押し出した台地の奥にささやかなゴンパがあります。標高4,000ḿを超えています。マナスル峰とP29峰にいだかれた谷間の草原です。

訪れた日は釈迦降臨の行事が行われていて、多くの村人が供物を持って参拝しています。私は風の音のみが聞こえる草原に寝転んでいるうちに、おのれの存在が溶け込まれるようなこんな自然の中で人生の最後を迎えられたら素晴らしいだろうと、そんな思いがふと頭をよぎりました。




(スガジイ)

2016年9月30日金曜日

そして取り締まり>バンダ・・・嗚呼ネパール!

タクシーは最近全く料金メーターを使わないようになりました。燃料の価格が一時高騰した時に、メーター料金では採算が取れないこともありました。一方で、利用者がメーターを信用していないこともあります。確かに、タクシーによって同じ距離で何割もの違いが出ることがあります。ガソリンスタンドのメーターの不正設定が指摘されています。そのうえ、メーターを素早くゼロに戻して過大請求することもあります。車のタンク容量以上に。
 
国内航空の運賃が自国民と外国人では2倍以上も違います。動物園や観光施設の入場料も同様です。このような料金設定は南アジアの国々ではごく一般的に行われています。
   
価格決定において相対取引は通常行われていることですが、《ごまかし》はいけません。《だましてなんぼ》の商売は早晩改めるべきでしょう。だまされるほうが悪い?そういう社会であってほしくないものです。同種同質のサービス価格の違いも不自然です。「取れるところから取ってやれ」より、《サービスの質》、《こころ》を提供するのがサービス産業成長への近道ではないでしょうか。
   

(スガジイ)

2016年9月23日金曜日

カレーざんまい

皆さんカレー料理は好きですか。カトマンズでは各地のカレーを楽しめます。ネパールはもちろん、インド各地の料理、タイやベトナム、シンガポールのカレーもいいものです。


タメルに行くとロータスの昔懐かしい日本カレー、サンセットビューの蕎麦屋のカレー、マロニエのカレーも絶品です。それぞれが日本人の作り出したカレー料理で、舶来ものを和風にアレンジして楽しむ日本人の《好奇心》と《やわらか頭》を感じます。私はこの3軒のカレー後援会長を自任しています。


母の作ってくれたカレーは辛くなく、また、あまり香辛料の香りのない黄色味の強いもので、私の育った田舎町の食堂も同様でした。ところが、小学校に上がる前、東京の知人の家でごちそうになったカレーは、とてもこれまでのものと同じカレーとは思えないほど胃袋と脳みそを刺激したものです。まさに都会の味であり、今でいう欧風カレーだったのでしょう。私のカレー探訪の原点です。


(スガジイ)

2016年9月16日金曜日

Mass Rejection

先日、事務所の玄関先に傘の修理屋が来ていました。私の子供のころは、日本でも当たり前の風景でした。鍋の穴の修理もしてくれました。今では死語になりましたが、鋳掛屋(いかけや)と呼んでいました。


デジカメが壊れたので、修理のため日本に送りました。見積もりが来てびっくり。なんと新品価格より高いのです。マスプロダクションで如何にコストを下げるべく効率化を図っているかが実感されました。


40年前には、カトマンズの路上でウイスキーの空き瓶を売っている露天商があちこちにいました。今ではプラスティックのボトルの大量消費時代となり、ごみの廃棄に頭を悩ましています。首都の中央を流れるバガマティ川の両岸はゴミだらけです。清掃キャンペーンを続けていますが、一世を風靡した「臭いにおいは元から断たなきゃダメ」というTVコマーシャルを思い出しました。


(スガジイ)


2016年9月9日金曜日

サマ村でひと仕事

 
中部ネパールのマナスル峰(8,163m)は、1956年に第三次日本隊によって初登頂されました。52年の偵察隊は、麓のサマ村に流行していた腸チフスの治療により村人に感謝されましたが、54年の第二次隊は、雪崩被害や天然痘の流行を、聖なる山を汚したからだとして、村の指導者ヘッド・ラマによって入域が拒否されました。

NPO法人「ピークエイド」(野口健理事長)の資金で、2010年に村の学校の教室と寄宿舎を建設しました。親が子供を学校に通わせないので、寄宿舎に生活させて勉強させようとの村の若き指導者たちの発想からでした。その結果、30人だった生徒が100人に増え、企画は成功しました。
   
この村の耕地では一年の食料需要の4ヶ月分しか自給できません。学校の給食も量的に満たすのみで、栄養の配慮まで至りません。野菜と豆類によるビタミンの補填とたんぱく質の摂取を目指して、来年の春から野菜栽培を指導する「児童栄養向上プロジェクト」を立ち上げる予定で、父の跡を継いだ若きヘッド・ラマや校長と計画作りをしています。
   
(スガジイ)
   

2016年9月2日金曜日

祭り


盆踊りを楽しんでいただけたでしょうか。今年は久しぶりに櫓(やぐら)が復活して、日本の雰囲気を一層味わうことができました。縁日のように出店も多く、童心に帰りました。《日本の夏》です、《まつり》です。

ネパールの方々にも参加していただきました。日本語を学ぶ若い皆さんには法被や浴衣を着ていただき、踊りを盛り上げていただきました。爆発するエネルギーを感じました。若いっていいな。日本留学生同窓会、JICA研修者同窓会、AOTS同窓会の皆様も多数お越しになり楽しんでいただきました。国交60周年を機に、これからもこの方たちと交流を続けていけたら、日本ネパール友好の輪がもっと広がっていくことでしょう。

参加者の皆さんありがとうございます。寄付をいただいた皆さんありがとうございます。出店の皆さんありがとうございます。そして、準備、運営してくださった皆さんありがとうございます。

会員の皆さん、今年はまだまだ祭りが続きます。奮ってご参加ください。ネパール生活を楽しみましょう。

(スガジイ)
   

2016年8月26日金曜日

いつやる?今でしょ!

吉村昭著「関東大震災」を読みました。大正12年の政情不安定な時期の出来事です。東京、横浜は火災にも見舞われ、死者20万人の大惨事となりました。91日は防災の日として防災訓練が恒例です。


関東大震災の被災地では発災後、余震の続く中、流言が飛び交い、社会現象として悲惨な事態が起こったようです。昨年のゴルカ地震の際にも不自然な風説が広まりましたが、地震の翌日取引先官庁に行ったところ、職員は全員外にいます。「インド政府が3時に余震が来ると言っているので避難している」との理由からでした。人間は恐怖に勝てないものです。


識者は地震エネルギーが一部放出されていないとしています。《備えあれば憂いなし》来たる災害への備えをしておきましょう。《災害は忘れたころにやってくる》寺田寅彦の箴言です。



(スガジイ)


2016年8月19日金曜日

道ある土地は冨み、道なき土地は病む

7月初旬、極西部バジャン郡からの帰り、ナラヤンガト・ムグリン間の道路が土砂崩れで不通となり、ヘタウダ、クレカニダム経由でカトマンズに帰りました。この道が旅客ジープで混雑しているのです。


カトマンズから外に出る道がシン・バンジャン経由しかなかった頃、雨期には必ず1か月以上も通行止めが続きました。90年代にはムグリン道路がクリシュナビルの大地滑りで頻繁に遮断され、燃料はじめ生活物資の流通が止まり、カトマンズは陸の孤島となりましたが、昨今ほどの大騒ぎはなかったように記憶しています。


一方、チベットへ抜けるアラニコ道路は、ボテコシの洪水で再建に数年かかるほどの被害を受けました。ラスワ経由の道路は斜面の防護対策が不十分で、雨期に通行するのははなはだ危険と思われます。日本の技術で建設したシンズリ道路の信頼性が物流の拠り所となることでしょう。



(スガジイ)

2016年8月12日金曜日

オレオレ"シュ"ギ

皆さんは、ネパールの好きなところや嫌いなところをお持ちですよね。私も「どこが好きで長年この国に暮らしているのか」聞かれることがあります。ミッションもあるのですが、好きでなければ長年暮らせません。


好きなところは何といっても《ゆるゆるの社会》でしょうか。あるいは《いい加減さ》。あってないような《ネパリ時間》、《フンチャ・フンチャ》で何もしない社交辞令。ずぼらな私にとってこんな心地よいことはないのです。


ところが、最近気付いたのですが、都市に住むこの国の人たちは、想像もできないほどストレスを感じているようです。ネワールの友人に聞いたのですが、家庭で親は子供に「一歩家の外に出たら他人に負けるな」と競争心を教え込むのだそうです。自己主張にしのぎを削る《オレオレ主義》では世の中ギスギスしないでしょうか。


(スガジイ)

2016年8月5日金曜日

国土の持病(?)とその対策

ボテコシの洪水でバラビセから国境の町タトパニまでの道路が侵食され通行止めになっています。上流のチベットで起きた地滑りが天然ダムを形成して、それが決壊したようです。先の地震でも被害を受けた災害常襲地帯です。氷河湖が決壊して、ネパール側に大きな被害が出たこともあります。


私は、災害の起こりやすい地域の学校を訪問して、防災教育を続けています。映像や教材を通じて、災害から身を守る方法を教えます。生徒には作文や絵をかいてもらって、優秀作品を冊子に掲載して表彰します。


去年、ミャグディ郡の地滑りでカリガンダキ川に天然ダムができて川をせき止めた時、前年にプログラムを実施した下流のバグルン郡の学校の子供が教えた通り避難をしてくれ、プログラムの効果が確認されてうれしく思いました。


(スガジイ)

2016年7月29日金曜日

カンチャ

開発指数で75郡中3番目に貧しいバジャン郡の小水力発電所建設現場に行く途中、ラリグラスの花を持った10歳くらいの少年が道端に立っていました。聾唖者のようでコミュニケーションが取れません。感情の動きも感じられません。目はとても澄んでいました。

20数年前のフムラ郡での経験です。見知らぬ村人から、突然、身寄りのないこの子をカトマンズに連れて行って養ってほしいと乞われました。ことわりはしたものの、人身売買でインドに売られはしないか、ずっと気がかりでした。当時の子供は8千ルピーが相場でした。

カトマンズ等都市部の中流家庭では、農村部から子供を連れてきて家事を手伝わせながら学校に通わせています。一種のステータスシンボルであって、農村家庭にとっては口減らしなのでしょう。たくましい子供たちです。



(スガジイ)

2016年7月22日金曜日

転嫁一品?!

道路を横断していた時オートバイにはねられてひっくり返りました。それを見ていた歩行者が、駆け付けた警察官に私をさして「この人からぶつかっていった」というのです。これって《ナショナリズム》かと唖然としました。あるいは、自動車優位文化なのでしょうか。そういえば、以前は、運転手をダイバー・サーブ(旦那)と呼び、昨今はグル(先生)と敬称しています。


ある日、事務所の家主夫妻が、家主のカンチャ(末の息子)使用人が私の事務所から腕時計や事務用品を持ち出していると言ってきました。家主夫人いわく「盗みが癖になって我々の所有物を持ち出すことになるので、事務所の管理をしっかりしてほしい」というものでした。悪いのはひょっとして私?《鍵社会》の理屈なのでしょうか。


20年もこの国に暮らして、なお日々新たな経験です。《カルチャー・ショック》《老いるショック》などとボケてはいられません。



(スガジイ)


2016年7月15日金曜日

バブル?スパイス?

カトマンズの株式市場は日々取引高を更新しています。マクロ経済のファンダメンタルは決していい状態とは言えません。好景気の要因は以前述べたように魅力ある投資先の不在です。

こんな中、ブローカーが暗躍しています。儲け話を持ち掛けて投資を募ります。一回二回は配当を出してさらなる投資を誘いますが、いつの間にかドロンする詐欺の手口です。金欲の心理をうまくついています。

80年代の日本も株に浮かれました。経済のパイが大きくならない限り、株だけ膨らむのは不自然だと学習しました。とはいっても、少々の欲は人生の調味料ではないでしょうか。


(スガジイ)

2016年7月8日金曜日

旬 ~アルタマと筍(たけのこ)~

今、旬な食べ物は、何といってもアルタマでしょう。少し酸味のあるスープと細竹の歯ごたえが絶妙です。ちょっと夏バテした胃袋を元気にします。

我が家の菩提寺に土肥次郎實平一族の墓があります。源頼朝が伊豆で旗揚げして、緒戦の石橋山から敗走し、再起を期した時の七騎衆の一人です。寺の七騎堂に祀られています。

この武将の功績をたたえる「土肥祭」が5月に執り行われます。今では観光行事として武者行列が町内を練り歩きますが、私が子供のころは檀家のささやかな集まりでした。この席で出されるタケノコの炊き込みご飯が何ともおいしくて、父に連れられて参加したものです。


(スガジイ)

2016年7月1日金曜日

エデンとジョッチェンのころ

1970年代のカトマンズは静かな街でした。夜も8時になると人通りが途絶えます。街路樹もずっと多く、空気も信じられないほど澄んでいました。


ラジンパットには日本の若い言語学、民族学や宗教学の研究者がたむろし、その近くにあったカルカッタ華僑の流れをくむワンさんの中華料理屋が、ネパール料理に飽きた《味覚》の憩いの場でした。


タメルも今の賑わいはありません。

《ヒッピー》は死語になりつつありますが、外国人安旅行者はむしろバサンタプールを好みました。ヨーロッパ・カトマンズ間の大陸横断バスが頻繁に行き来していました。アフガニスタンが平和だった時代のことです。


(スガジイ)

2016年6月24日金曜日

アメアメフレフレ

5月からずっとぐずついた天気が続いています。あたかもプレモンスーンがこのまま本格的なモンスーンに突入するかのようです。猛暑がなかった分体力の消耗が避けられました。


ネパールでど田舎をさして《フムラ・ジュムラ》と言われます。20数年前、この地域を歩きました。食料を現地調達の計画でしたが、フムラ郡、ムグ郡では分けてもらえませんでした。自分たちの分で精いっぱいとの理由です。


乾季の雨量が少なかったため、もともと生産力の低いカルナリやセティの山地の農業は壊滅的な打撃を受けました。今日もまた、ヤギの背に赤米の袋を振り分けにして、南から北へキャラバンが続いていることでしょう。


(スガジイ)

2016年6月17日金曜日

届いたもの、届かないもの ~ドラカ・ラドゥックVDC2~

地震による壊滅状態のラドゥックVDCの仮設住居用トタン板は、NGOの支援によるものだそうです。集落までトラクターが入ることができるので、地震の後いち早く支援が届いたようです。


バザール周辺には、製材所、木工所のほか砕石プラントも新設され、新しいビジネスが始まっています。復興需要を見込んでのことですが、村民集会の様子では、村の住民に政府の無償資金支援では十分でなく、低利の貸し付けが速やかにいきわたる必要があると感じました。


村では石材が不足しているとのことです。生活用水がパイプの破損等で不自由していると聞きました。地震による水脈の枯渇や降雨量の減少の影響もあるとのことでした。


(スガジイ)

2016年6月10日金曜日

手にし得ぬ復興資金 ~ドラカ・ラドゥックVDC~

昨年512日に起きた地震の復興の進展を視察しに、ドラカ郡ラドゥックVDCに行ってきました。従来構造の家屋のほとんど全ては倒壊しており、村民はトタン板囲いの仮設住居に暮らしています。
ラドゥックVDCは住宅資金の無償支援20万ルピー配布のモデル村として、政府に委嘱された銀行がシンガティバザールで第一回資金5万ルピーを供与したと報道されています。家屋損壊評価を終え、証明書も発行されているのですが、村民のほとんどが資金を受けていないようです。
私も仮設住居に泊めてもらい、村民の集会を傍聴し、地方の政治家、ジャーナリストや村のリーダーたちと、夜遅くまでロキシーを酌み交わしながら村の再興の話を聞かせてもらいました。

(スガジイ)

2016年6月3日金曜日

夢よ、再び!翔(と)べるか、ネパール!?

G7伊勢志摩サミットが開かれ、米合衆国大統領の広島訪問がありました。国際政治において我が国のプレゼンスを高めたと思います。
私は終戦後22年の生まれで、いわゆる《ベビーブーマー》の先頭ランナーです。《戦争を知らない子供たち》でもあります。学生時代から社会人になってのちも、高度成長時代を振り向くことなくひたすら前に進みました。
私の祖父母の家に水道はなく井戸で、トイレも別棟でした。ネパールの山村の生活のようです。貧しい時代を生き抜いた人たちでした。ネパールも遠くない将来に飛躍的な成長を遂げるのでしょうか。予算教書が議会に上程された今週でした。

(スガジイ)

2016年5月27日金曜日

ナワルパラシのヒ素汚染水

緒方JICA専門家に誘われてナワルパラシ郡の飲料水ヒ素汚染の実態を視察しました。WHOやネパール政府の定めた基準値を大きく上回る井戸水を常用しています。

いくつかの支援団体が、ヒ素除去装置を供与し、啓蒙活動に取り組んでいます。残念なことに住民の危機意識はそれほど高くないと感じました。長年の習慣がそうさせているのかもしれません。

ヒ素中毒に抵抗力をつけるために野菜や肉を取るようにとのアドバイスに、罹病者のあきらめに似た悲しそうな目の色がとても印象に残りました。貧困が現実を支配しているのでしょう。新しいプロジェクトを立ち上げるモティベーションが芽生え始めました。

(スガジイ)

2016年5月20日金曜日

ネパール手元資金の使い道は?

200708年に連鎖的に発生した世界金融危機、リーマン・ショックの時、当地経済学者にネパールの経済への影響を尋ねましたが、世界経済から隔絶しているから何も起こらないと、こともなげに言われました。その通りの結果でした。

2016年当初より、カトマンズの株式市況は、世界的に株価が下がっている中で、独自の動きをしています。銀行の投資先のない過剰な手持ち資金が株式市場に流れているようです。

近頃発表された経済政策では、プロジェクトが総花的に列挙されています。夢を売るのも政治家の使命なのでしょうが、整合性の取れた達成感のある政策が望まれるところです。

(すがじい)

2016年5月13日金曜日

八木原圀明さんのお話しにふれて

八木原さんの講演に皆さんから好評をいただきました。

多くの犠牲を払ってまでして、より困難なルートをたどって登頂を達成する登山家の姿勢に共感を覚えたものと思われます。

日本山岳協会会長の職を目指していたのかとの私の愚かな問いに、専務理事まではなりたかったとのことでした。頂点には彼の人望が押し上げたに違いありません。会社の帰りに居酒屋で上司の悪口を肴に酒を飲んで過ごしたサラリーマン時代の私でした。

八木原さんのスケールの大きさや鋭い感性を、彼の温かさが包み隠していると感じることしきりです。


(すがじい)

2016年5月6日金曜日

辟易(へきえき)

久しぶりにヒマラヤを見たくてナガルコットに行ってきました。残念ながら全く見えませんでした。この季節は、インドのラジャスタン砂漠の微粒砂が到来することをすっかり忘れていました。

数年前から乾季のカトマンズの空にピーカンの青さがなくなったのを気にかけていました。新聞報道によると、世界第3位の大気汚染都市とのことです。川の汚れと悪臭にもへきえきとします。わが国もそういう時期がありました。環境改善のノウハウを供与したらいかがでしょうか。

私の日本での花粉症は当地でついに慢性的な鼻炎になってしまいました。


(スガジイ)

2016年4月29日金曜日

ジャガランタパープルに想う

カトマンズの町にジャガランタが咲き始めました。あでやかな紫の花を見ると、始めてカトマンズに着いた若い日のことが思い起こされます。掘っ立て小屋の空港ターミナルビル、ディリバザールの強烈な匂いの街角、油がギトギトした食事はのどを通りませんでした。まさにカルチャーショックです。
あれから44年、日本にいてはできない多くの経験をしました。食材、日用品は比べられないくらい豊富になりました。この街は着実に発展しています。その陰で失うものも見逃せません。「人情紙のごとし」とは、わが国ばかりではないようです。

(スガジイ)

2016年4月20日水曜日

地震


昨年のゴルカ地震から早1年がたとうとしています。

政府の被災者支援は遅々として進みません。そんな中で政府もNGOの活動を評価するようになりましたが、なお管理を強化しています。「民」にできることは「民」に任せるべきでしょう。

一方、わが国の熊本地震の惨状も私たちに多くの課題を突き付けています。被災者の皆様にお見舞い申し上げるとともに、政府の速やかなる被災者支援を期待するものです。


私は、当地で毎年学校を訪問して、生徒や教師に災害から身を守る啓蒙活動をしています。今年はスポンサーがつかず活動をあきらめていましたが、何とか継続したいと強く思うこの頃です。


スガジイ​​


2016年4月13日水曜日

菜園にも春の恵みがきました

私の菜園はカトマンズ盆地を東に出て最初のナラ村にあります。
典型的なネワール族 の村です。

すっかり初夏の暑さになった菜園では、春キャベツの収穫が終わり、 
新玉ねぎの第一 弾が食べごろになりました。

日本の改良品種なので、甘くてスライスオニオンやサラ ダの生食に向いています。
春の季節のみの贅沢です。

ネパール料理に欠かせない3種の野菜をご存知ですか。
玉ねぎ、ジャガイモ、カリフ ラワーです。玉ねぎはピリ辛でなくてはいけません。最近多くがインドや中国からの輸入に頼っています。ネパールの農家がんばれ!

すがジイ

2016年4月9日土曜日

カトマンズ補習校 入学式

9日、日本人補習授業校の入学式始業式に出席しました。

幼稚部5名、小学部8名、中学部1名の入学です。

どの子供たちも目が輝いていました。30年、40年先に、日本やネパールの国を背負って立つ人材になるんだということをひしひしと感じさせます。あるいは国境を越えて活躍しているかもしれません。父兄の方々にお祝い申し上げます。健やかに育つことをお祈りします。

私も、両親が制服やランドセルや文房具をいかにもうれしげに整えてくれたころを懐かしく思い出しました。

すがぬま