2020年3月13日金曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #137


災害とリーダーシップ

10回目の3.11が来た。発生時にはカトマンズにいた。NHKニュースは津波の光景を繰り返す。2011311日の1446分のことである。岩手県から茨木県沖まで南北500㎞、東西200㎞を震源域とするM9.0の巨大地震がおこった。死者15,899人、行方不明者2,529人のほとんどが津波にのまれたものという。全身が凍りつくようであった。平静に見られない光景であった。

のちに知ることになった石巻市大川小学校の惨事は、108人の生徒のうち21人が遺体で見つかり56人が安否不明、教師も13人のうち無事であったのは1名のみという報道があった。行政や教師の判断の誤りが原因といわれる。

福島で原発が対処を誤れば旧ソ連のチェルノブイリ原発事故に匹敵する事態になっていたとは想像もつかなかった。東京を逃げ出した外国人も多かったとのことで、在留ネパール人への対応を放棄して大阪に避難した在京大使もネパール主要紙で批判を浴びていた。民主党の菅政権の迷走ぶりを聞いて事態の深刻さがうかがい知れた。

共同通信原発事故取材班による「全電源喪失の記憶、証言・福島第1原発、日本の命運をかけた5日間」(新潮社)を読んで、現地の原発スタッフがいかに命をとして最悪の事態を乗り越えたか、その献身ぶりには称賛を通り越した驚きと尊崇の念を胸に刻んだ。英知と勇気と忍耐による何物でもないことを学んだ。

今年の117日は阪神大震災から25年である。淡路島北部を震源とするM7.3の直下型地震だ。死者は6,434人に上った。明け方の546分であった。

《妻が叫んだ。「タンスにはさまれ動かれへん」夫が駆け寄る。「火が来とるで!」妻が押し返すように言う。「お父ちゃん、もういいから行って」「かんにんやで、かんにんやで」。74歳の夫は近所の人に羽交い締めされながら、燃えさかる家を見つめた》(117日付読売新聞編集手帳)

この時私はインドネシアのジャカルタに勤務していた。午前11時ころ取引先から「日本で何か重大なことが起こっているらしい」との連絡を受け、東京本社に電話をしてみたが、現地との通信が途絶しており地震がおこったことよりほかわからないという。大阪支店に電話を試みると、なんとつながった。所員一人と連絡が取れないという。ここでも詳しいことがわからない。

この時期日本の政局は自民党の長期政権が野に下り不安定な短期の連立政権が続いていた。発生時は自さ社の村山政権であった。手をこまねいていたわけではないのだろうが、街を嘗め尽くす炎になすすべがなかった。政府の無力が恨めしかった。

20154251156分におきたゴルカ郡を震源とする地震(M7.8)は震源域が東西150㎞、南北120㎞にわたったという。死者は8,460人に上った。この時私はカトマンズの事務所の机におり、わきの書架が倒れてきて下敷きになったが幸いけがもなく外に逃れた。知人からの電話はすぐに大使館に避難しろという。毎年実施している緊急時の避難訓練では自宅の地域は避難先が大使館であった。十日後に大使館から電話で「(大使館の対応に)何か問題あったか?」と詰問される。私の言動に何か癇に障ったことでもあったのだろうか。

事務所職員のシンドゥパルチョーク郡にある実家に寝具、衣類、食料品を届けたついでにチョウタラまで行ってみる。尾根筋のバザールは軒並み家が傾いている。丘の上の学校は跡形もなく崩れてがれき状態である。土曜日の休校日でよかった。放心した教師が一人がれきの間に教科書を探している。

カブレの友人宅にガソリンやプロパン、食料などを届けて慰問した二日後の512日には最大の余震(M7.3)があった。シンドゥパルチョーク郡が震源であった。この時はシンガダルバールのエネルギー省に着いた時であった。次官補とは玄関先で協議する。翌日電力庁に行くと多くの幹部が庁舎の外にいる。わけを聞くと「1215分に再度大きな地震が発生するとインドの預言者が発表した」という。

この時の首相はネパリコングレス党のスシル・コイララであった。2008年にマオイストが政権を握り、その後統一共産党(UML)と目まぐるしく政権が代わり、スシルの前一年は選挙管理内閣を置かざるを得ない不安定な時期であった。そのような状況で、スシルは震災の社会混乱に有効な施策を講じえずに10月には辞任を余儀なくされている。

時代は今しも新型コロナウイルスがパンデミックの様相を呈している。非常時の社会の安定にはタイムリーで的確な施策を講じることができるリーダーシップが期待されるが、我々世界市民の冷静な行動もまた不可欠であるといえよう。

2020311日)