2017年3月17日金曜日

御礼

315日、日本人会総会が開催されました。ご多忙にもかかわらず多くの会員にご参集いただきました。ありがとうございます。

去年の4月に会長に推挙いただいてからもう一年たったのかというのが意外に思える感慨です。盆踊りや運動会と楽しい思い出ばかりです。この間、多くの会員や理事の方々に助けていただきながら無事運営できたことに素直に喜んでいます。

実際、それぞれの行事における理事やご支援いただいた会員のご苦労は大変なものでした。まさにこの方々の獅子奮迅の活躍によって日本人会が運営されてきました。

さて、年間を通して会員が一堂に会する機会はあまり多くありません。総会後の懇親会は普段お会いできない方とお会いする絶好に機会で、あちこちで団欒の輪ができ盛り上がっていました。

講話サロンもこのような会員の交流を活発にする機会と考えています。「サロン」と名付けるゆえんです。今期も講師諸賢の興味の尽きないお話を拝聴して、そのあとで講師を囲んで、また参加者の温かい交流の場を持てたものと思います。

最後に、小生のつたない会の運営を温かく支えてくださった会員、理事の皆様に改めてお礼申し上げます。そして来期も変わらぬご厚情を賜りますようお願い申し上げます。

(スガジイ)

2017年3月10日金曜日

Himalayan Black Snow

菊池法純さんの論文『藤井日達上人のネパール開教と王制崩壊』に主題とは離れてもう一人興味ある人が登場します。マヘンドラ国王の秘書として信頼の厚かったロク・ダルシャン・バジュラチャルヤ氏です。国王の命により憲法制度の研究のため日本に派遣されます。

ラナ専制から王権を取り戻し、父王の後を継いだマヘンドラ国王は、議会制民主主義を試みますが、未成熟の政党間の混乱を理由にクーデターによって政党なき議会政治を確立しました。ロク・ダルシャン氏の派遣はこのころのことです。マヘンドラ国王は、このころすでに、象徴天皇をいただいた日本や英国のような立憲君主制国家の構想をお持ちだったのでしょうか。国王亡き後の王室内の統治形態の路線をめぐる争いがあったといわれますが、民主化後20年来の政治の混迷を思うとき、歴史のアイロニーを感ぜざるを得ません。
そして、今また国の統合の象徴としての国王待望論が出てきたのは、単なる国民のノスタルジーばかりではなさそうです。

ロク・ダルシャン氏はその後マヘンドラ国王に遠ざけられたものの引き続き宮務についており、引退後も最近まで日本大使公邸の天皇誕生日レセプションでお会いしていました。

氏の隠れた一面は、日本の登山界の面倒を見られたことです。当時は、《一季一山一隊許可》の原則があり、ヒマラヤ登山を志す人は日本山岳協会の推薦を得て、日本大使館経由でネパール外務省に許可申請をしていました。人気のある山の許可をとることが難しい時代でした。「ヒマラヤの雪は黒い」などと言われたのもこのころのことです。

(スガジイ)

2017年3月3日金曜日

特務機関とパゴダ ~戦争と平和~

ポカラのフェワタールの丘の上にある世界平和パゴダをご覧になったことがあると思います。藤井日達上人が起こした日本山妙法寺が建立したものです。

外務省OBで在ネパール大使館にも再三勤務された菊池法純さんが「藤井日達上人のネパール開教と王制崩壊」という氏の論文を送ってくださいました。上人は1974年ビレンドラ国王に謁見し、ルンビニとカトマンズでの宝塔等の建設許可を得たのですが、まもなく取り消されました。上人一行はポカラの有力者と仏塔を建設することとし、仏像奉安直前まで至ったところで警察によって破壊され、逮捕ののち国外退去の処分を受けました。王宮前に整列しうちわ太鼓で法名を唱えて抗議する等の行動をとっていました。

同じころ、太平洋戦争中F機関と称する旧日本軍特務機関を指揮し、自衛隊創設にも加わった藤原岩市氏が妙法寺の僧侶とともにカトマンズを訪れています。私は両氏とお会いする機会を得ました。日達上人には、開祖日蓮上人のアグレッシブな教えを伝道すべく、何事にも動じない謹厳なお顔そのもののご性格を感じました。一方の藤原氏は、シンガポールやビルマ戦線で縦横に活躍された軍人とは思えぬ好々爺然とした方で、特務機関とはかくなるものかという思いがしました。

菊池さんは妙法寺とF機関の結びつきに思いをされますが、なぞとしています。

日達上人の1930年代からのインドでの布教活動と、F機関のインド人指導者ボースとのつながりとその任務を考えれば、両者の間に何もなかったはずがありません。そして1979年代のネパール会議派と両氏の企図していたのは何か、興味の尽きないところです。

この辺りの事情をご存知の方がいらしたら、ご教授いただければ幸いです。


(スガジイ)​​