2016年7月29日金曜日

カンチャ

開発指数で75郡中3番目に貧しいバジャン郡の小水力発電所建設現場に行く途中、ラリグラスの花を持った10歳くらいの少年が道端に立っていました。聾唖者のようでコミュニケーションが取れません。感情の動きも感じられません。目はとても澄んでいました。

20数年前のフムラ郡での経験です。見知らぬ村人から、突然、身寄りのないこの子をカトマンズに連れて行って養ってほしいと乞われました。ことわりはしたものの、人身売買でインドに売られはしないか、ずっと気がかりでした。当時の子供は8千ルピーが相場でした。

カトマンズ等都市部の中流家庭では、農村部から子供を連れてきて家事を手伝わせながら学校に通わせています。一種のステータスシンボルであって、農村家庭にとっては口減らしなのでしょう。たくましい子供たちです。



(スガジイ)

2016年7月22日金曜日

転嫁一品?!

道路を横断していた時オートバイにはねられてひっくり返りました。それを見ていた歩行者が、駆け付けた警察官に私をさして「この人からぶつかっていった」というのです。これって《ナショナリズム》かと唖然としました。あるいは、自動車優位文化なのでしょうか。そういえば、以前は、運転手をダイバー・サーブ(旦那)と呼び、昨今はグル(先生)と敬称しています。


ある日、事務所の家主夫妻が、家主のカンチャ(末の息子)使用人が私の事務所から腕時計や事務用品を持ち出していると言ってきました。家主夫人いわく「盗みが癖になって我々の所有物を持ち出すことになるので、事務所の管理をしっかりしてほしい」というものでした。悪いのはひょっとして私?《鍵社会》の理屈なのでしょうか。


20年もこの国に暮らして、なお日々新たな経験です。《カルチャー・ショック》《老いるショック》などとボケてはいられません。



(スガジイ)


2016年7月15日金曜日

バブル?スパイス?

カトマンズの株式市場は日々取引高を更新しています。マクロ経済のファンダメンタルは決していい状態とは言えません。好景気の要因は以前述べたように魅力ある投資先の不在です。

こんな中、ブローカーが暗躍しています。儲け話を持ち掛けて投資を募ります。一回二回は配当を出してさらなる投資を誘いますが、いつの間にかドロンする詐欺の手口です。金欲の心理をうまくついています。

80年代の日本も株に浮かれました。経済のパイが大きくならない限り、株だけ膨らむのは不自然だと学習しました。とはいっても、少々の欲は人生の調味料ではないでしょうか。


(スガジイ)

2016年7月8日金曜日

旬 ~アルタマと筍(たけのこ)~

今、旬な食べ物は、何といってもアルタマでしょう。少し酸味のあるスープと細竹の歯ごたえが絶妙です。ちょっと夏バテした胃袋を元気にします。

我が家の菩提寺に土肥次郎實平一族の墓があります。源頼朝が伊豆で旗揚げして、緒戦の石橋山から敗走し、再起を期した時の七騎衆の一人です。寺の七騎堂に祀られています。

この武将の功績をたたえる「土肥祭」が5月に執り行われます。今では観光行事として武者行列が町内を練り歩きますが、私が子供のころは檀家のささやかな集まりでした。この席で出されるタケノコの炊き込みご飯が何ともおいしくて、父に連れられて参加したものです。


(スガジイ)

2016年7月1日金曜日

エデンとジョッチェンのころ

1970年代のカトマンズは静かな街でした。夜も8時になると人通りが途絶えます。街路樹もずっと多く、空気も信じられないほど澄んでいました。


ラジンパットには日本の若い言語学、民族学や宗教学の研究者がたむろし、その近くにあったカルカッタ華僑の流れをくむワンさんの中華料理屋が、ネパール料理に飽きた《味覚》の憩いの場でした。


タメルも今の賑わいはありません。

《ヒッピー》は死語になりつつありますが、外国人安旅行者はむしろバサンタプールを好みました。ヨーロッパ・カトマンズ間の大陸横断バスが頻繁に行き来していました。アフガニスタンが平和だった時代のことです。


(スガジイ)