2023年2月26日日曜日

逍遥 うんちく《ネパール》(中)#167

 

うんちく《ネパール》(中)

 

このエッセイを寄稿した2000年はどんな時代であっただろうか。 米国では共和党のジョージブッシュが大統領選に勝ち、ソ連崩壊から10年がたったロシアでは今では世界の悪役を一身に担っているプーチンが大統領となった。 ユーゴスラヴィアが東欧で最後に非社会主義独裁国となったのもこの年である。

 

ネパールではマオイストの戦線が東部に広がる中、ギリジャ・コイララ内閣が発足したが、何年にもわたって首相が毎年変わるという不安定な政局が続いた。カトマンズではマオイストが脅迫によって民間企業や個人から資金を調達するようになり、市民は恐怖におびえた。翌2001年には王宮惨殺事件が起きた。シャハ王朝の終わりの始まりの年であった。

 

では引き続きうんちく《ネパール》をご笑読ください。

 

チベットのカルマパ17世がネパール経由でインドに亡命しました。中央ヒマラヤに古代から開かれているインド・チベット交易路(18か所の峠道)のどれかをたどったものと思われます。カトマンズは最大の中継交易都市として栄えました。冬はヒマラヤの峠が雪で閉ざされ、夏の雨季にはインド国境のジャングルが通行不能となるため、中継デポットの役割を果たしたわけです。ポカラもその一つです。皆さんのトレッキング・ルートの一部もこの交易路です。ポカラからアンナプルナとダウラギリのはざまを流れるカリガンダキ河に出て、川沿いにムスタンに上がり、峠を越えてチベットに入ります。ひょっとしたら鈴を響かせたラバやヤギの隊商と出会うかもしれません。チベットからは羊毛や岩塩を輸入し、インド・ネパールからは穀類や香辛料が輸出されます。

 

この商権を握っているのがタカリー族です。日本人にそっくりで、チベット・ビルマ語系のタカリー語を話す民族ですが、せいぜい5万人くらいしかいません。本拠はカリガンダキ河上流のツクチェという小さな村です。富山県の利賀村と蕎麦が縁の姉妹村です。タカリーのスッバ(族長=徴税吏)だった故インドラ・マン・セルチャン氏から、河口慧海がチベットに潜入する前に彼の家で勉強したこと、大蔵経全巻を所有していることなどの自慢話を伺ったことがあります。商才に長け、教育熱心な民族です。

 

ネパールには100を超える言語があるといわれています。言語学者はこれらの言語の記録と、未知の言語の発見に力を注いでいます。ラジオや教育の普及とともに、民族固有の言語が忘れられているからです。ポカラや周辺にはグルン族という民族がいます。30年近く前、小生が農村調査で住んでいたグルン族の村がありますが、彼らは一言のグルン語も知りません。東部山地にグルン族の村があること自体が不思議ですが、プリトゥビ王のカトマンズ遠征の際、勢い余って東部のライ族の一派ルムダリライの土侯を滅ぼして定着したものです。200年余りで言語を忘れてしまった事例です。カトマンズから徒歩で7日かかります。

 

民族の話はつきないのですが、民謡の一つを紹介しておきましょう。『美人といえば、カトマンズのネワール娘、ルムジャタールのグルン娘、シンドゥーパルチョクのタマン娘、タコーラのタカリー娘、そしてテライのタルー娘といわれているよね、だけどこれら5つの村を訪ねてみたけど、一人の美人にも出会わなかったよ』本当はいるのです。これら4つの民族はチベット・ビルマ語のモンゴル系です。子どものお尻に蒙古斑もあれば、顔も日本人によく似ています。タルー族はちょっと違いますが。ご自分がどの民族に似ているか確かめてください。きっとソックリさんが見つかるはずです。素朴でお人好しであるのもよく似ているのでは。“ムク・エウテイチャ(顔がそっくりだ)”といってみてください。

 

ネパール語はインド・アーリア語系に属します。モンゴル系の民族が古い時代に北から南に移動したのに対し、比較的新しい時代に西から東に移動した民族がもたらしたものです。インドのヒンズー語やパキスタンのウルドゥ―語と兄弟語です。挨拶の“ナマステ”とありがとうの“ダンニャバード”、ご機嫌いかが“カストチャ”、元気です“ラムロチャ”、そして1から10の数くらいは覚えておいてください。エク、デュイ、ティン、チャール、パンツ……。

 

彼らはまたヒンズー教も持ち込みました。もともと土着信仰やラマ仏教を信仰していたモンゴル系民族もかなりヒンドゥー化しています。 二重三重の多重信仰をもっている民族も少なくありません。結婚式を神社で上げ、葬式をお寺で出す私たちには容易に理解できる信仰構造です。カトマンズのスワヤンブーナートとボードナートは見ものです。ヒンドゥー教の聖地パシュパティナートはインドからの多くの巡礼者でにぎわっています。(2000331日)

 

202326日)

2023年2月16日木曜日

逍遥 うんちく《ネパール》(上)#166

 うんちく《ネパール》(上)

 

今日は立春である。湯河原の我が家の陽だまりは眠気をもようすほど暖かい。昨日は節分で今どきはやりの「恵方巻」を食べた。この歳になってまだ「運気」を求めるほどあさましい自分がいる。

 

20005月に学生時代の仲間がゴラパニにトレッキングに行った。山登りはお手の物である彼らは、毎日の行程が短く体力を持て余して、持って行った酒が3日ともたなかった由である。いくつになっても若い時のままの不良中年であった。

 

彼らの山行企画書に寄稿したネパールのいろはをここに紹介する。20年前のネパールはこんなものであったと思いだす人がいてもよし、そんな時代だったのかと思いをはせる人がいることを期待しつつ。

 

世に「ネパキチ」と呼ばれる種族がいます。ネパールに魅了され、ほとんど中毒症状を呈している人たちです。今から「ネパキチ」候補生の皆さんに、ネパールの魅力を断片的ながらお教えします。ジグソーパズルをつくるように、旅行中に全体像を結んでください。

 

5月初旬のカトマンズです。強い日差しの中に紫の花をいっぱいに咲かせたジャガランタの大木が、街の通りに心地よい日陰をおとしています。大通りからアサントールに足を踏み入れましょう。ここからハヌマンドカ旧王宮まで今でも庶民経済の中心である中世の街並みをぶらぶらと歩いてみてください。買い物をしながら。“カティ・パイサ(いくら)”“マンゴチャ(高いじゃないか)”、“サスト・ガルノス(やすくしてよ)”で十分。

 

カトマンズ盆地には紀元前から多くの王朝の勃興がありました。今ご覧になった街は14世紀末期から18世紀に栄えたマラ王朝時代につくられたものです。この王朝は15世紀半ばに兄弟の相続争いで3つに分割されます。カトマンズ、パタン(ラリトプール)そしてバドガオン(バクタプール)です。ヴァスコダ・ガマがインドに達したのはこれより50年後のことです。

高台のパタン王宮の背景はゴサインクンドやランタンヒマールです。バドガオンは街全体が遺跡保存ではなく生活の場として体温が感じられます。ナガ―ルコットのニバニワロッジへの道筋ですので、皮膚感覚で味わってください。この頃の王朝の統治はまだカトマンズ盆地の外には及んでいませんでした。ムスタン王国を除くネパール全土を統一したのは、次のシャハ王朝(現王朝)の19世紀初頭です。地方の人たちは、いまだにカトマンズをさしてネパールといっています。

 

興味ある逸話をご紹介しましょう。シャハ王朝はカトマンズとポカラの中間に位置するゴルカの土侯でした。カトマンズまでの道のりは約100㎞です。カトマンズを征服したプリトゥビナラヤン王は、最初のカトマンズ侵攻で手痛い敗北を喫しました。ボロボロになって自国に引き上げる王に、茶店の老婆がタール(お盆上の皿)に満たした熱い粥をご馳走しました。空腹の王はいきなり粥に手を入れ、あまりの熱さに悲鳴を上げます。それを見ていた老婆が大笑いして、「粥はまわりからかき混ぜながら食べるもんだよ」、王は「カトマンズもいきなり攻めては落とせない」気が付きます。周辺の土侯を制圧し、カトマンズを制圧し遷都したのは王47歳の時でした。 (2000331日)

 

                           (202324日)