2022年4月23日土曜日

逍遥  神原達さん  #158

 

神原達さん

 

庭のシダレザクラが5分咲きとなり、モクレンは満開である。春に三日の晴れなしとはよくいったもので、20度を越したと思えばコートを羽織る日が繰り返されるが、お彼岸ともになると一日が長く感じられて冬の気鬱が晴れる。

 

ちょうど50年前の514日、私は初めてネパールの地を踏んだ。タイ国際航空のDC8機はその先が崖の滑走路ぎりぎりで止まる。トリブバン空港の掘立小屋然としたターミナルビルにここは首都ではあるまいと疑ったものである。同じ便に乗っていらした農林省からアジア開発銀行に出向されている中原さんにディリバザールのゲストハウス「ラリグラス」まで送っていいただく。ゲストハウスのオーナーはタカリ族の重鎮インドラ・マン・シェルチャン氏である。受付では高校生のラマ・ジョシが初々しい笑顔で迎える。のちに日本大使館の職員になり定年まで勤めた。その晩は同宿の日本人に連れられてバグバザールで食事をしたが、油のにおいが鼻について半分も食べることができなかった。

 

ネパールでの目的は農村調査である。UMNの岩村昇医師やジャクプール農業開発プロジェクト島田輝男専門家の助言を得て調査地をオカルドゥンガ郡ルムジャタール村に決める。紹介状を持って国家計画委員会のハルカ・グルン副委員長に面会して長期ビザや種々の便宜を依頼する。196829歳でこの職に就かれた。シンガダルバール正面のビルの3階、とてつもなく大きな執務室である。田舎のオヤジ風の風貌に多少緊張がほぐれる。紹介状を書いてくださったのは神原達さんである。

 

神原さんは口の重い方で、何度もお会いしながらご本人のことはほとんどお話にならなかった。一方で奥様の直子さんはあけっぴろげな方で旦那様を補って余りある。ある時ホテルヒマラヤのレセプションでスタッフが不在のところ、奥様が大声で「エー、マンチェ(おーい、だれか)」と呼んでいる。古いネパール語の会話教科書には人を呼ぶときの表現としてあったが、今日このような呼び方をするだろうか。とにかく古い時代にカトマンズで過ごしたお二人である。 

 

山岳部員であった高校時代にネパールにのめりこむ。ちょうどマナスル登山で盛り上がっていた時期である(第一回調査隊1952年、第三次登山隊登頂成功1956年)。入学した早稲田大学ではネパール研究を思うようにできず、東洋学者のメッカである駒込の東京文庫に入りびたって卒業まで7年かけた。4年生の時ネパールに行って一年余り滞在したときに英文のネパール文献目録を作成する(のちに日本ネパール協会編集の「ネパール研究ガイド…解説と文献目録」の基礎となる)。この労作がネパールの元老カイゼル・シャムシェル・JB・ラナ元帥に認められて門外不出のカイゼル図書館(ナラヤンヒティ王宮西門の向い)に入館を許される。私は入ったことはないが、神原さんいわくことネパールに関する蔵書は世界に類を見ない。会うたびに最後の仕事としてカイゼル図書館の蔵書整理をしたいとおっしゃていた。

 

卒業後は外務省研究生として1962年から65年まで3年間ご夫婦でカトマンズに滞在する。                                                                                                                                   日本との国交樹立は1956であるがまだ大使館のない時代で、ほかには国連の正垣さんという方がいらしたようである。1960年~63年に私が勤めていた日本工営が国連の委託でカルナリ河のチサパニハイダム水力発電計画の調査をしている。

 

1960年のネパールの人口が1千万人強であった。70年の首都圏の人口が60万人程であったので、当時もその程度であろう。のどかな町であった。地方ではカトマンズをネパールと呼んでいた。ネパール語が国語として普及し始めるのがラジオの短波放送の始まったこの時代という。山道ではトランジスタラジオのボリュームを大にして歩く人たちがいた。地方のほとんどの村が電化されていなかった。明かりは菜種油に綿の芯でともしたものや樹脂の強い松の幹を削ったものだった。

 

宮原巍さんと三人で会ったときに昔話で「1966年にネパール工業省家内工業局に赴任するとき自転車でビルガンジからシンバンジャンを越えてきたんだ」、私「まさか、あの道を?なんでまた?」宮原さん「神原さんがカトマンズでは自転車が必須だというから」神原さんは自慢の口ひげをぴくぴくさせながらも素知らぬ顔である。

 

20202月の宮原さんのお別れの会にでは神原さんがあいさつされた。私はカトマンズに出張中で出席できなかったが、妻が車いすの神原さんとお会いした。今年は賀状が届かないので心配していると、奥様からご逝去の知らせがあった。また一人古き良きネパールを知る人がいなくなった。 合掌

 

2022323日)

2022年4月13日水曜日

 逍遥 田舎町のワクチン接種事情(1)#157

 

田舎町のワクチン接種事情(1

 

 

ネパールの新型コロナ感染は急速に収束に向かっているようだ。何が要因であろうか。疫学的原因究明が他の国の参考になると思われる。

 

昨年5月の連休明けから始まった町の新型コロナワクチン接種会場の手伝いに通っている。

わが町でも政府の方針に従ってまず医療従事者から接種をはじめ、その後65歳以上の高齢者に並行して接種を始めた。町の人口は昨年末で23,454人である。高齢者の割合はせいぜい3割程度であろうと推測していたが、なんと15百人もいるという。高齢者率45%である。老人養護施設が温泉を売りに増えているし、退職者が都市部から移住しているが、そればかりではないであろう。わが団塊世代のトップランナーは今年「後期高齢者」入りする。

 

外の入場整理の係りをかってでた。外のフレッシュな空気が望ましいのとコロナ禍の巣ごもりで増えた体重を落とす意図があった。ゼッケンには「誘導」の文字。民間の感覚なら案内係とするのであろう。マニュアルができている。だがこの種の事業は初めてなのでやってみなければわからないことが多いはずだ。走りながら適正行動に修正するしかない。国からのお仕着せなのだろうが、今では修正を重ねて第7版となっている。

 

第一日目から直面したのが強烈なクレームであった。接種は予約制であるが、とにかく予約が取れないのである。第一クールは電話予約である。私も9時の時報とともにダイヤルする。その後10回試みたが受付のコールセンターにつながらない。第二クールの予約からは電話に加えてインターネットも可能になった。インターネット予約も2-3分でうまったようだ。私は第三クールにインターネットで予約が取れた。この間、町役場で接種を主管する保健センターへの攻撃はすさまじかったようだが、集団接種会場の前線にいる私もあたかも苦情受付係になった。隣町は対象者に日時指定の予約券を送ったようである。人口はわが町の三分の一なのだが順位の正当化には苦心したと思われる。

 

こうした苦情が多いということはワクチン接種希望者が多いということであって、欧米のようにワクチン忌避者が少ないともいえる。新宿駅の広場ではワクチン陰謀論を奉ずるグループが連日キャンペーンを張っているが、田舎町にではそのような行動は見られない。とはいえワクチンを危険視する人はいるもので、わが妻もそのような友人の影響を受けて自分で予約をとろうとしなかった。

 

会場では高齢化社会のあり様やそれぞれの家庭の事情を垣間見る思いがある。老夫婦そろって来る人、いたわりあう姿や妻に叱咤されながらゆったり歩く夫。一人暮らしの老人、急病や緊急事態にはどうするのか心配になる。付き添いも高齢者の老々介護、他人ごとではなく妻の実家も96歳の老母と私と同級生の長男の2人暮らしである。嫁に邪険にされながらもしたがうばかりの老人、このような嫁を「鬼嫁」というのだそうだ。実の娘や優しい嫁に面倒を見てもらっている老人を見ると心が和む。

 

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