2020年1月24日金曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #134


もうじき春なのに

明け方の雨が上がって庭の苔のみどりが鮮やかに映えている。1月中旬にしては温かな日差しがうれしい。今年はジャガランタの葉が付いたままなので平年より暖かなのだろう。

たわわになった夏みかんの実はいつの間にか成熟の色を増している。キンカンも少し黄色くなる。庭木をひとつずつ確かめてみた。しだれ梅はつぼみを紅くしている。早咲きの河津桜ももうすぐですよとばかりにつぼみをつけている。シダレザクラとソメイヨシノはまだ固い。カキやモクレンも準備を整えたようだ。秋におかしな葉の落ち方をした山椒を心配したが小さな芽が出ていて一安心する。

スイセンは二輪、三輪とつぼみをつけ始める。花屋の店先には寒さに強い花が咲き乱れているが、これらを買い求めれば鉢植えも路地ものも我が家に彩を添える。むしろ夏場よりも華やかな気がする。

このところ家に閉じこもることが多かったが、久しぶりに妻と買い物の外出をした。暮れに風邪をひいて寝込んでしまったが、いつまでも体がシャキッとしない。10月から12月にかけて2か月間ネパールで少し無理を重ねたのが体力を消耗したと思われる。

カトマンズに居を構えていた時と違って、12か月の出張を繰り返しているわけだが、短期出張ではどうしても行動予定を最大限に効率よくしようと無理を重ねる。もう若くはないのだからと自ら戒めるのだが、こころのすみにまだまだやれるとの意識が働く。最近の国内登山の事故を起こす年齢層は60歳以上が多いのだそうだが、若い時の記憶を引っ張っていて現在の体力以上のことをしてしまうのだそうだ。

自覚症状はある。ひとつには、歩行時の体のバランスが不安定になった。酒に酔った時のように感じる時がある。近所のおばさんが妻に「お宅の旦那がひょこひょこ歩いていた」とご注進に及んだが、自分はこのような歩き方をしているのかと自信を失う。これを修正する運動をご存知の方は是非教えてほしい。ふるい友人に訪ねたら、「ない」とにべもなく言われた。

ところで、最近家の体重計を変え変えたのだが、〈体組成計〉というそうで体重のほかにもいろいろな健康指標が表示される。今日の数値は次のとおりである。体重76.1㎏(理想体重67㎏)、BMI(体重/身長の二乗)24.2(普通)、体脂肪率19.1(-標準)、筋肉量58.4(標準)、内臓脂肪レベル15.0(過剰)、基礎代謝量1686(多い)、体内年齢57歳。まあまあ歳相応というところか。

我が家の愛犬ニマは15歳である。ある時体調をこわして動物クリニックに連れていき血液検査やエコー撮影をした。肝機能と腎機能が低下しているとのことである。薬と食餌療法で3ヵ月後にはすっかり改善される。以降3か月ごとに血液検査をするのであるが、人間より治癒能力は高いのかもしれない。耳は遠くなったが至ってはつらつとしている。
 
2020119日)

2020年1月17日金曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #133



1128日 ムグリンで「〈おなご先生〉さくら寮」マネジャーのマンジュと落ち合い、カピルバストゥ郡でスジャータの学校に立ち寄ってコハルプールへ。
1129日 バルディア郡の〈おなご先生〉ジャヤンティの学校で教職員にプロジェクト説明。48人の生徒の視力検査と面接。カトマンズ検診組、隣接郡のネパールガンジ検診組に分ける。テライの農村部だが、家のつくりもしっかりしていて豊かな感じがする。スルケット郡ビレンドラナガールに移動し〈おなご先生〉アンビカと合流。
1130日 ダイレク郡ラカムでアンビカの実家に立ち寄り昼食をごちそうになる。〈おなご先生〉チャヤと帰途の検診の打ち合わせ。カリコット郡マンマ泊。カリコット郡も西の山地特有の急斜面に耕地がへばりついている生産力が低い土地柄である。
121日  ジュムラ方面へ40分車で行き、対岸のシェラ村を徒歩で目指す。標高差400m下って登り返す。〈おなご先生〉アムリタの学校はさらに30分上方だが下の学校ジャナジャグリ校で14人の子どもの視力検査と面接。出身の村を聞くと2人はなんと9時間かけて昨日の晩に着いたとのこと。携帯電話が普及したおかげで情報の伝達が早くなった。アムリタの家で昼ご飯をごちそうになる。西の山地でみられる赤米である。ダヒ(ヨーグルト)がおいしい。マンジュは村人同士のネパール語が理解できないという。帰りは村人が1時間であることころを4時間かかる。
122日  ダイレク郡ラカムで〈おなご先生〉チャヤとアニタが患者を集めて待っている。アニタは故郷のカリコット郡で教師だったが、結婚を機にバザールで雑貨店を営んでおり、その店先で面接。視力検査が珍しくて大勢集まる。バザールの人ごみの中での啓もう活動となる。チャヤの家で昼食。目の前を流れるカルナリ川の魚アサラのカレー炒めがおいしい。チャヤもアンビカもジャーティ(カースト)はマジで漁師カーストである。カルナリ地方の民謡に「魚を釣ったよ、ディディ(姉さん)赤い魚籠に何が入っているか見てくれ」という求愛歌がある。
      学校で校長に会うが眼のプロジェクトに関心を示さず。隣接の市役所の前の道端では村の名士たちが日向ぼっこ。女性の副市長が興味を示す。公選制になってから地方の首長は住民目線を持つようになった。以前のように地位に胡坐をかいていられないということだろう。
      スルケット郡ビレンドラナガールに戻る。〈おなご先生〉ミナが患者を連れてくる。同じホテルに某マオ系の大臣が泊まる。100人を超すお付と警備。威厳を示す大名行列なのかそれともこれほどの重警護が必要なほど治安に不安があるのか。行く先々でなんと経費のかかることか。どんな行事でも食事のおもてなしが不可欠なのがこの国の長年の慣習である。レストランは彼らで占領される。シェラ村でマンジュが子供たちに鉛筆を配ったところ、「子どもは鉛筆より食べ物を喜ぶ」との親の弁であった。カトマンズでもいまだに日常のあいさつが「カナカヨ(ご飯食べた)?」、80年代の中国のあいさつが「ツーファンラ(ご飯食べた)?」であった。西の村の男たちは昔からインドへの出稼ぎで家計を支えている。
123日  バンケ郡ネパールガンジに向かい、〈おなご先生〉プージャの教えるラストリヤ校で視力検査と面接。旧いバザールの雑踏の中の隠れた場所にある。校長によるとこの学校の生徒は経済的に底辺層の子女が多いとのこと。国境の町だけあって、初めて聞くジャーティ名が多い。ルパンデヒ郡ブトワルまで走る。
124日  シャンジャ郡に立ち寄りJOCV隊員赴任校プンニャシラ校で11月にカトマンズで診察を受けたディクシャに斜視矯正用の眼鏡を渡す。メガネの使い方を教える。3か月後に再検診することを校長に承知してもらう。JICAネパール事務所長の理解を得てJOCV隊員にも活躍いただいている。ゴルカ郡にも支援者がいて頼もしい。マンジュをポカラで落としてカトマンズに急ぐ。
126日  ルクム郡の患者二人は3回目のカトマンズである。4年前に日本のODAで完成した小水力発電所はカトマンズから車で2日半かかるが、彼らの村はそこからさらに奥へ山を越したところという。二人とも将来はカトマンズで上級学校に行きたい希望がある。カトマンズに出てきて世間が広くなったのはこのプロジェクトの副次効果なのかもしれない。いずれも片目を失明し、義眼を入れる手術である。
      サリヤンの少年も角膜を損傷して回復不能であり、義眼着装を勧めるも手術を回避した。ニム・バハドゥルは眼窩周辺の血腫で4回目の治療にやってきた。だいぶ回復しており、今回は斜視矯正用の眼鏡をつくった。3ヵ月後に再び治療の必要がある。
1210日 ダイレク郡のほとんど視力のないナイナ・カタヤット(12歳)の盲学校への入学につき、キルティプールのラボラトリー校を訪ねる。資金を集めて入学させたい。失明を事前に防ぐ目的のプロジェクトであるが、これからは不幸にして失明してしまった子どもの教育や職業訓練を考えなければいけない。

202014日)

2020年1月8日水曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #132




1117日 コハルプールへの途中カピルバストゥ郡の〈おなご先生〉スジャータの学校による。スジャータは高圧電流に触れて失明の危機にあった生徒をバイラワの病院に連れていき助けた実績がある。
1118日 ベリ川沿いの道をルクム郡チョウジャハリに向かう。6年前より沿道のバザールの規模が大きくなる。途中道からそれてサリヤン郡の小さな学校ベリ校で生徒の患者一人と面接。視力が弱い。カトマンズに呼ぶことにする。小さな村で学校を見つけるのに右往左往。いつものことだが、運転手は村人に訪ねようとせずに思い込みで走らせる。
チョウジャハリで〈おなご先生〉ギタと合流、以前の赴任校で生徒の視力検査。続いて近隣のシタル校で校長立会いのもと弱視のシカに単眼鏡とルーペを提供して使い方を教える。これで黒板の文字も教科書も読めるようになる。United Mission to Nepalの病院を訪問し院長にプロジェクト説明。眼科が併設されている。医療助手が受け持っており、基本的な設備は整っている。
1119日 今日はドティ郡までの道筋で患者が待っている。サリヤン郡に入りサノピパルで乳幼児2人と面接。シャンティバザールには村から2時間かけてニムが来ている。これまで3回カトマンズで治療し、だいぶ回復している。来月の再検診を勧める。さらにダルマバザールでは片目を角膜損傷したニシャンが待ってる。村から3時間かけてきたとのこと。ランティでは〈おなご先生〉コウシラが乳幼児患者を連れて待っている。各所で親からスンタラ(みかん)、ラッカセイ、コードー(稗)の粉、山椒の実等々のお土産をいただく。
チョウジャハリから一緒に連れてきた5人の生徒は初めての都会に興奮状態。ホテルの部屋で騒いでいる。食事を一緒にする。
1120日 5人の患者をトゥルシプールのラプティ眼科病院で診察。幸い重傷者はなし。一人に眼鏡をつくる。スーラクシミ院長はじめスタッフ一同が患者を連れていくたびに理解の篤い対応をしていくれる。地方の拠点病院としての役割が定着した。
無理をしてカトマンズまで車をとばす。運転手至極不機嫌そうだが、夜中の11時着。
1122日 アイキャンプで見つかった患者のうち2人とJOCV隊員の学校の生徒5人の診察をカトマンズ医科大学教育病院(KMC)で行う。弱視と斜視であり、矯正用眼鏡とパッチングで3か月暫定治療をする。
1123日 午前、宮原さんを病院に見舞う。夜中に危篤の報、続いて逝去の悲報が届く。
1124日 患者のうち一人をシャキャ助教授が再検診。矯正用メガネのレンズが病院になく外注。カトマンズにもなくインドに発注したのが一つあった。この程度の在庫は何とかならないものか。いつの時代になっても「チャイナ(ない)」、だから「ケガルネ(しようがない)」であっていいものではあるまい。ずぼらな私にとっては「カリ・クラ・マットレ(口ばっかし)」の人たちとのお付き合いも気楽でいいのだが。


20191231日)