2020年12月9日水曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #152

 キャプテン ウイック

 

ぐずついていた天気が立冬を境に秋らしくなってきた。妻、娘、ニマと山梨へ小旅行した。勝沼のぶどうの丘の楡の大木は見事に紅葉していたし、河口湖では湖畔の楓の並木がおりしも赤く染まって紅葉祭の最中であった。本栖湖の周回道路はまさに色づいた木々のシャワーを浴びているようだ。

 

我が家の庭のつわぶきの花が盛りだ。柿の収穫が始まる。夏の少雨で出来具合を心配したが形も良く甘みも強い。家の門において通りがかりの人に持って行ってもらう。山から下りてきた野鳥は熟した実をつつく。

 

ネパール在住の皆さんは今年のティハール祭をどのように過ごされただろうか。街はイルミネーションで華やいだだろうか。バイティカには兄弟姉妹が集まっただろうか。地方出身者がダサインにしても今年は帰省をためらったと聞くと、いつもの年のようではないさみしさに沈んでいないか心配になる。お祭り好きのネパール人はコロナ禍もこの時ばかりは忘れていつもの振る舞いに戻ったような気がしないでもないが。

 

日本ではお祭りが相次いで自粛中止されている。当然ながら人々のフラストレーションが高まる。景気浮揚対策の「Go to トラベル」には多くの人が久しぶりの気が晴れる旅行を楽しんだことだろう。観光地はどこもにぎやかである。

 

とはいっても田舎に住んでいる私はコロナ感染の衰えない都会に出るのは気が進まない。近場のドライブやゴルフを楽しむ程度がせいぜいである。街で一軒だけになった本屋が近所にある。中古本も扱っており、時々興味を惹かれるものが出ている。加藤寛一郎「生還への飛行」(講談社1989年)を手にとった。

 

著者がスイスのピラタス社にテストパイロットのエミール・ウイックを訪ねた時の話だ。本社での肩書はプロダクション・テスト・パイロット。ネパールで仕事を始めたのは1960年のスイス・オーストリア隊のダウラギリ登頂支援の時からである。ネパールでは道路より飛行場建設の方が先に始まった。今では自動車道路が各地にできたため、山地部では捨てられた滑走路や定期便の飛んでいないものが多くなったが、196090年には単発機のピラタス・ポーターや双発のツインオッターが活躍している。

 

私が19723年にかけて農村調査をしていたオカルドゥンガ郡ルムジャタール村に滑走路があり週に一便ピラタス・ポーターが飛んできた。パイロットはウイックとあと一人若い西洋人がいた。普段は滑走路が牛やヤギの放牧場であり、飛行機は滑走路を低空飛行して、まず牛たちを追い払う。航空母艦のタッチアンドゴー訓練のようである。飛行機の爆音で村人が滑走路に集まってくる。着陸して停止すると飛行機を取り囲む。パイロットにお茶が運ばれる。便宜を図ってもらうためにご機嫌を取るのである。若いパイロットは集まる村人を怒鳴りつけて飛行機から離れさせるが、ウイックは冗談を言いながらご機嫌でお茶を飲む。村人はもちろんウイックびいき。カトマンズの知り合いに小包や手紙を託すのである。

 

著者は単発のエンジンが止まったらどうするのか質問する。一度あるそうだ。インドのガヤ上空でエンジンが停止。「エンジンはかからなかった。視界は悪かった。しかし、かろうじて着陸できる、小さなクリーク(小川)を見つけた」「ものすごいサーマル(上昇気流)だった」「吹き上げられた、高―く。……。そしたら遠くに細いストリップ(滑走路)が見えた。……。行きついたよ、ガハハハハ……」

私も副操縦士席に座ったとき彼に聞いた。「今エンジンが止まったらどうする?」「あの下の田んぼに降りるよ、ガハハハハ」 山地の狭い棚田である。もちろん冗談だ。

 

「結局あなたは生き延びた。何故ですか」「絶対にあきらめなかったからだ」「と言うと?」「私は6000メートルの氷河に42回着陸した」「それで」「43回目にクラッシュした」 1960年のダウラギリ遠征隊の時である。私はランタンの氷河の遊覧飛行で乗せてもらった。一杯ひっかけているのではないかと疑るほどの赤ら顔である。とにかく陽気な男である。よくしゃべる。氷河にさしかかると「みんな酸素を吸ってくれ、もちろん俺も吸うよ、キャプテンが目を回したらシャレにならないからな」

 

1978年の写真が掲載されている。お茶を飲みながら誰かと話している。冗談話に違いない。

 

20201128日)

2020年10月30日金曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #151

 

秋です

 

山鳥が里に下りてきたようだ。姿は見せないが鋭い鳴き声が聞こえる。カキが色づいてきた。8月に雨が少なかったせいか実が小さめだ。少しずつとっては味わっている。甘味は例年より増しているような気がする。取り残す木の高いところは鳥たちが楽しめばいい。

 

ひと月前に甥っ子から猫を預かった。サイベリアという品種で高級感がある。ネパールにつれていった社長猫の「ニャン太」に似ている。年齢は一歳半でオス、名前はシャロン。問題は愛犬「ニマ」との相性である。ニマは16歳でメス。足腰が弱くなっているかと思うと、近所の猫の侵入に怒って脱兎のごとく追い散らす。

 

はじめは縁側にケージを置いて閉じ込めておいた。ケージから出ると座敷との間の障子の下段を破って抜け出す。ニマは怒り心頭に吠えて威嚇する。ただし生来の臆病な性格がもうひとつ追い込むことができずに腰が引けている。それも3週間ほど過ぎるとだんだんと無関心を装うようになる。家人に仕切りに甘えだす。愛情を失う予感があるのだろうか。この原稿を書いているわきで二匹は2メートルの距離でお互いをけん制している。三密を避けるかのように。

                                                                   

シャロンを庭に出す。次第に慣れてくる。今まではマンション暮らしで外の世界を知らない。小枝を見つけてきてはじゃれている。虫を見るのも初めてなのだろう。チョウを見ても初めは興味を示さない。そのうちに追いかけるようになるがすぐに飽きてしまう。やはりネパールに連れて行ったアンやランは野良猫だっただけあってネズミや小動物を捕まえてきては得意げに見せに来たものであるが、ブリーダーが作った動物は野性味を失っているのだろうか。

 

さて、今日はマハ・アシュタミ、ダサインの8日目だ。月は真二つに割ったような半月である。コロナ渦中のダサインを皆さんはいかに迎えられただろうか。アサントールの古い商店街やショッピングモール、スーパーマーケットの賑わいは例年と変わらないのであろうか。市役所からは例年通りの家族、親戚の集まりを自粛しろとのお達しがあるようだ。

 

感染の勢いが止まらない首都圏ではこのような措置も致し方ないのかもしれない。一方で多くの地方出の人は帰省する。スドゥ―ルパスチム州ではカトマンズ帰りの感染者が多数見つかっている。医療施設まで一日二日と歩かなければならない村で感染が広がることを想像するとやるせない気持ちになる。

 

政府はPCRテストや感染者の治療を有料にすることにした。PCR2,000ルピーだそうである。村の人にとっては高額であり、症状がよほど重くなければ病院に行かないであろう。幸いにして、バグマティ、ガンダキ、ルンビニ、スドゥ―ルパスチムの4つの州政府は無償で医療サービスを提供することを決めた。

 

保健人口省は今後4か月の感染者数予測を発表した。最悪のケースで320,000人、中程度で148,000人という。新聞報道の限りでは深刻にはみえないが、医療崩壊がすでに始まっているのではないだろうか。とりわけ地方の医療施設の人工呼吸器台数をみると、とても満足な対応ができているとは考えにくい。

 

20201024日)

2020年10月8日木曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #150

 

金木犀の香

 

秋の彼岸入りに菩提寺成願寺の墓に詣でた。大施食会で多くの檀家が集まる。本家の従兄弟に久し振りで会う。檀家総代をしている。

 

墓洗ふ(なれ)のとなりは父の座ぞ   角川源義

 

この寺には源頼朝の鎌倉幕府旗揚げを支えた地元の豪族土肥次郎實平(のちに中国地方に領地を授けられて小早川と称す)一族の墓所があることはすでに紹介したが、三十三観音があることを現下のコロナ禍で知った。安政5年(1858)に全国に蔓延したコレラによって多数の村人が亡くなったのを弔うために建立された。村人の浄財によるものだという。観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという教えから、33の霊場を巡拝すればすべての罪が洗われ極楽浄土できるという信仰である。詳しくは寺のHPをご覧いただきたい。https://jyouganji.jp/ 

 

9月も半ばを過ぎると風がひんやりと涼しい。玄関を出るとわきの金木犀が芳香を漂わせる。わたしはネパールの西部地域を対象に子どもの失明対策プロジェクトを進めているが、これまでとは違う世界であるためか視覚障碍者の心情に寄り添おうと思っても何か自分自身が心もとない。そんな思いを抱きながら新宿の本屋で松永信也『風になってください――視覚障がい者からのメッセージ』を手にとった。エッセーの一つ「キンモクセイ」の一部を紹介する。

 

今度キンモクセイの香りに出会ったら、そっと目を閉じてみてください。

きっと、とっても幸せな感覚になれます。

嗅覚以外はちょっとお休みさせて、

たまには鼻を主人公にしてやるのもいいことです。

香りが貴方をとても優しい人にしてくれることに気付くはずです。

 

三十年も前になるだろうか。渥見さんという女性がカトマンズの視覚障碍者施設でボランティアをしていた。当時私は開発コンサルタント会社の駐在員であったが、福祉事業には門外漢でありまた興味も持たなかった。 一時帰国の折トリブバン空港で渥見さんにお会いすると、この子を東京まで連れて行ってくれないかという。わきに白杖を持った若い女性がいた。私はこれまで視覚障碍者と接したことがない。戸惑う。どうお世話していいのか見当がつかない。ぎこちない道連れとなった。

 

機内でキャビンアテンダントに事情を話し案内を頼むと隣の席を譲ってくれた。空港ではラウンジに入れてくれる。彼女はJICA本部で働いており、カトマンズ出張は研修目的とのことである。腕を出してつかまってもらって一緒に歩くことはバンコクの空港で同じようなカップルを見て覚えた。なんとも頼りない同伴者である。東京駅まで来るとここからは自分一人で行動できるという。信じられない私は中央線に乗るまでお付き合いしたが無用なことであった。

 

渥見さんはそれから十年しないうちに亡くなった。存命であればプロジェクトのアドバイスをいただけたろうに。ネパールの社会福祉にとっても惜しい人を亡くした。

 

2020925日)

 

2020年9月18日金曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #149

 

無信不立(信なくば立たず)

 

9月も十日過ぎるとだいぶ涼しくなった。寝室の窓を開けて寝ると明け方寒さを感じるほどである。セミの声が秋の虫の音にとって代わる。

 

台風10号はこれまでにない超大型であるとの予報が出され、通り道の南西諸島、九州の人々は早めの避難に怠りなかった。直前の9号が海水を撹拌して海水温が下がったため、10号は接近前にいくらか弱くなって想定より被害が少なかった。予告警報以下の被害であったことを非難する声が例によってSNS上にあふれる。匿名性をいいことに言いたい放題である。

 

16日に新内閣が発足した。菅首相は「役所の縦割り、既得権益、悪しき前例主義を打倒し、規制改革を進める」との持論を強調している。新型コロナウイルス感染が拡大していく中で指揮をとってきた政治家の霞が関の行政執行の「めづまり」と対峙してきた苦労が外目にもよくわかる。

 

この国のエリートたちは平時対応能力には秀でているが、非常時にはこの程度なであろう。考えてみれば現下の事態は太平洋戦争以来の非常事態なのかもしれない。軍事組織(自衛隊)は非常時を想定したシミュレーションを欠かさないのであろうが、役所にとっては地域に限定された自然災害対策は別としても想定外の事態に違いない。私も戦後生まれである。若いころの高度成長時代を含めてこれまで平穏な時代を生きてきたのだと思う。時世の変化において「ゆでガエル」に気が付かないだけかもしれない。

 

もう一つの目玉政策が「デジタル化で成長戦略促進」である。日本のデジタル化投資はGDPの3%程度で先進国の中で低いわけではないそうである。コロナで明らかになった一つに、地域の保健所から上部機関への毎日の報告書がなんとファックス通信であった。受け取り手はこれをデータ化するのに手入力である。これにはアナログ世代の私も唖然とした。もっとも民間企業でテレワークでありながら、会社にハンコをつきに行かなければ済まない笑い話もあった。

 

10万円の特別給付金の処理もしかりである。2か月以上かかった自治体もある。田舎町の役所のデジタル化を信用していない私は郵送申告した。翌週に振り込まれた。マイナンバーカードなどくその役にも立たない。導入時反対意見の一つであったプライバシー侵害など心配することがないほど「身分証明書」化している。税務署だけはしっかりと捕捉しているが。

 

では、首都圏やインド国境主要都市で拡大している感染の対処でネパール政府は機能しているであろうか?新聞報道でみる限り疑わしい。共産党政権は党内人事に忙しい。カトマンズ市長は感染治癒後どこにいるかわからないという。今日から国内航空便や長距離バスの運行を再開するという。ダサイン大祭に向けて国民の期待に配慮するのはわからないでもない。昨日の首都圏3郡の感染者数は737人、カトマンズの直近1週間では3,127人である。カトマンズへのヒト、モノの流れの主要経路であるパルサ、マクワンプール、チトワンあるいはルパンデヒ、ナワルプール各郡の感染増加も衰えていいない。先のマチェンドラ祭の政府と民衆の対立があったが、事態を冷静に見て対処してもらいたいものである。

 

ネパールのデジタル化はいかがであろうか。パスポートはよし、空港のイミグレーションも一部スマート化した。財務省の歳入局は納税実績を電子化開示している。運転免許証を電子化したがどのように使っているのだろうか。受け取ったのは申請してから1年半たってからである。ありがたいのはスマホの普及である。FBのメッセンジャーで山奥にいるプロジェクトの協力者とも連絡が取れる。インタ-ネット通信網は中間山地でも郡庁所在地までは何とかなる。そういう私はガラケーを使っている。

 

政治家が好んで用いる『無信不立』。子貢が、孔子に政治の要点についてたずねた。孔子 「軍備を十分にし、食料を十分にし、人民に信義を守らせるようにすること、これが政治の要点である」。政治を志したことはないが、私の好きな箴言である。『至誠無息(至誠やむことなし)』とともに。己にないものを求めている。

 

2020917日)


2020年9月4日金曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #148

 

コロナ禍の中で (9)

 

8月に入って3週間以上も雨がなかった。カキの実は小さいまま熟れてしまい、また青いまま落ちる。暑さ寒さに強いツワブキの葉もげんなりしている。一方で6-7月の長雨で野菜が不出来でレタスやキャベツは値段が高騰する。天候はままならないものだ。

 

やっとの雨に一時の朝の涼しい風を感じる。キンカンの花がかんきつ香をとどける。ムラサキシキブの小さな実が色づき始めた。萩の花も咲く。コケも生気を取り戻したようだ。だがこの暑さは9月中旬まで続くという。

 

先日ズームを介して実施された在ネ大使館主催のビジネスセミナーの冒頭西郷大使のご挨拶があった。カトマンズ首都圏で新型コロナウイルス感染が急増している折ご多忙と思われるが、お元気そうで安堵した。首都圏の感染者数はこの一か月で倍増して4万人に迫る勢いである。

 

621日にロックダウンを緩和してから中部、東部テライの都市ビルガンジ、ジャナクプール、ビラトナガール等で感染者がみるみるうちに増えた。工業地帯にインド人労働者数千人が流入したという。インドで感染者が100万人を超えたのが716日であった。それから40日もたたないうちに300万人になった。830日には一日で78,761人を記録している。

 

インドの状況を見れば安易に緩和するべきではなかった。カトマンズへのヒトとモノの流れはインドのビハール州からビルガンジ、ヘタウダ、バラトプール経由の大動脈である。これらの町で時を経ずして増加してきた。手をこまねいているうちに手が付けられなくなる。首都圏市長会を代表するカトマンズ市長(本人も感染)は首都圏に5千人収容の隔離施設を建設するという。ネパールの政治家に往々にして見られるその場限りの軽い発言でなければいいが。

 

規制緩和は経済への影響を忖度したのであろう。38日から72日までにインドへの出稼ぎから帰国した人が50万人に上る。また中東産油国から現在も続々帰国しているが、8月中旬までに帰国した人は51,441人である。多くが農村部に帰っているが新たな収入源があろうはずがない。

 

労働省は28日出稼ぎ先国のリエントリービザや就労許可証が有効な人には9月以降の国際線再開後に渡航を認めると発表した。そもそも仕事がないので帰ってきたわけなのに対象国で労働需要が復活したというのだろうか。30日には国内線と長距離バスの運航禁止の916日までの延長を命じた。

 

私たちはこんな政府の定見のなさにイライラするのであるが、ネパールの人たちは「あっそう、いつものこと」とあまり気にしない。しかしコロナ禍と外出規制で不満が爆発しそうであるに違いない。在留邦人の皆さんもストレスが溜まっていると思われる。無理に自分を抑制せずに過ごしたらいかがだろうか。それには友人との情報交換を密にすることが有効であろう。カトマンズは口コミ社会で多種雑多な情報が飛び交うのが常である。貪欲に情報収集に努め、かつ情報に翻弄されないようにすることが肝要と思われる。家時間が長くなるので普段手にしなかった本を読むのもいいと思う。そして何より「こうすべき」というような硬直した考えを捨て、また他人に強要しない柔らか頭を持つことをお勧めしたい。心にゆとりがなくなったときはメンタルヘルスの専門家に相談するのもいいのではないだろうか。

 

ロルパ郡のバム・クマリから村のティージ祭(女子の祭り)の集まりの写真が送られてきた。マガール族の村である。幸いロルパは感染者数が少ないので皆さん楽しそうに踊っている。一人としてマスクをしていない。新聞で見るカトマンズ市内では多くの人がマスクをしているのだが、村では無頓着のようである。早速FBメッセンジャーで注意喚起したが、村でマスクは手に入るのだろうか。

 

2020830日)

2020年8月17日月曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #147 

 コロナ禍の中で (8

 

梅雨が明けてカンカン照りの毎日である。35度以上の猛暑日が続き10分と炎天下にいられない。5月のテライにいるようだ。元気なのはセミばかりのようである。朝から晩までやむことなく鳴いている。今日は盆の入りである。仏壇にお盆のお供え物をしつらえ、夜は迎え火を焚く。両親と息子、弟の霊である。

 

昨日は菩提寺の城願寺に墓の掃除とお寺さんへお布施を納めに行った。墓所用の花を同級生の花屋に求める。花屋だけに冠婚葬祭情報が早い。昨夜街に住む同級生の一人が亡くなったという。近年は毎年のごとく寂しい知らせが届く。

 

カトマンズの感染拡大が急である。ロックダウンを緩和したせいだろうか。テライの国境都市における増加も再び始まっている。インドでの増加の勢いが止まらない中、オープンボーダーの出入国管理の難しさはあるが、締めるべきは締めなければ取り返しがつかなくなる。市やコミュニティの封鎖では限界がある。10日の再規制政府決定は当然であろう。「言うだけ番長」に終わらずに有効に実施に移してもらいたい。

 

昨日の保健大臣の記者会見は、インドでの感染終息がなければネパール一国ではどうにもならないとこぼす「ケガルネ大臣」であった。ネパールの「三無主義」である①状況の評価から目をそらす、②対処能力を発揮できない、③誰かがやってくれるだろうとのネグリジェンス。平時にはとてもおおらかで住みやすいが、非常時にはちょっと待てよとなってしまう。

 

タメルでは家賃負担に耐えられずに廃業したホテルがあると聞く。一部ホテルは海外出稼ぎ帰還者の一時収容所として糊口をしのいでいる。土産物店やレストランの300軒以上が事業継続をあきらめたという。知人のレストラン経営者から支援の要請があった。

 

露天商やバス、テンプーの運転手、リキシャ夫など日銭で暮らしている人たちは困窮しているようだ。小さな小売業者も家賃が払えなくて店を閉めざるを得ない。個人でささやかな食品加工をして自転車で配達している人たちも同様である。

 

先週インドのケララ州コジコデ空港で中東からの出稼ぎ帰還者を乗せた政府チャーター機が着陸に失敗して多くの死傷者を出した。 コジコデは旧称カリカットである。大航海時代以前から中東との貿易拠点として栄えた港町である。州の人口の10%に当たる200万人が湾岸諸国で働いている。インド全体では850万人といわれる。また海外労働者からの送金は州のGDP35%にあたり、銀行預金の39%を占めているという。(ニューズウイーク日本語版2020.8.11

 

ネパールでも同様に出稼ぎ者が湾岸諸国から続々と帰国している。近年は渡航者が減少傾向にあるものの、昨年度の海外送金は78億ドルでここ数年のGDB対比では25-30%で推移しており、貿易収支の赤字を補っている。帰国後一定期間カトマンズの収容施設にとどまることになるが、迎えがあれば村に帰っているようだ。ロルパ郡で私のプロジェクトを手伝ってくれている元教師の亭主がカタールから帰ってきた。メッセンジャーの連絡では詳しくはわからないが、彼女の実家は田畑があるので食べるのに困らないであろう。

 

インドへの出稼ぎ者は3月中旬から順次帰ってきた。プロジェクトのフィールドであるスドゥ―ルパスチム州で157,000人、カルナリ州で49,000人という。多くが季節労働者である。この地域の感染が6月に急激に増えた。地場産業が育っていない。農地は食べるほどない人たちである。そもそも生産力が低く毎年食糧援助を受けている地域だ。

 

首相イニシアティブの雇用促進政策を出した。ス州政府は15億ルピー、カ州では20億ルピーの事業スタートアップのための無担保貸付制度の予算を確保しているという。どのような使途を考えているのだろうか。農村部で需要を創生するのは容易ではない。現に、出稼ぎ帰国者は村の生活がバーター経済の昔に戻ったようだといっている。

 

私が1972-73年に農村調査のために過ごしたオカルドゥンガの農村での生活を思い出す。毎土曜日に開かれるハートバザールでは一日がかりで集まった人たちの現金を介さない取引も多かった。そんな昔に戻ったのだろうか。当時のように自動車道路も電気もない時代ではない。村の疲弊が心配される。

 

2020813日)

2020年8月7日金曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #146 

 

長崎の鐘

 

7月も終わりになろうというのにまだ梅雨が明けない。それどころか毎日各地で大雨警報が出される。梅雨前線がもたらす大雨災害は日本ばかりでなく中国、韓国にも及んでいる。わが町にも

強い雨はあるが大事に至っていない。セミの声がだんだんと喧しさを増している。

 

山梨の知人から桃が届いた。香りを楽しみながらいただいている。また、追うように沖縄の甥からはマンゴーが送られてきた。今頃はネパールのマンゴーも食べごろであろう。去年に続いて食べそこなうのだろう。

 

新型コロナの流行は秋を待たずして第2波が以前にもまして猛威を振るい始めた。都市部のみならず離島にまで伝播した。日ごとに増加記録を更新している。家庭に持って帰り高齢者や年少者に移してしまうのが痛ましい。45月の緊張感が緩んでしまったのであろう。

 

NHKの朝の連続ドラマは「エール」だが、コロナのため撮影ができなくて再放送している。作曲家古関裕而の物語である。数ある古関の名曲の中でも「長崎の鐘」は日本を代表する歌曲といっていいと思う。

 

学園祭「ソフィア祭」の最終日の晩は隣接の運動場でファイアーストーム(キャンプファイアー)を催すのが恒例であった。地下鉄丸ノ内線四谷見附駅のホームから見える江戸城の外堀「真田掘」を埋め立てたところである。四谷見附門と喰違門の間で、大学の対岸には迎賓館がある。この行事の準備、進行に入学以来毎年かかわった。

 

佳境になると決まって現れる教授がいた。スペイン人のソペーニア神父である。何年も前からそうしているのであろう。ファイアーマスターも心得ていてすかさず紹介する。「長崎の鐘」を歌い始める。声量のある伸びやかなテノール。誰も唱和することなくただ息をのんで聞く。涙を浮かべる人もいる。

 

こよなく晴れた 青空を

悲しと思う せつなさよ

うねりの波の 人の世に

はかなく生きる 野の花よ

なぐさめ はげまし 長崎の

ああ 長崎の鐘が鳴る    

 (サトウハチロー作詞、藤山一郎歌唱)

 

この歌は長崎大学の永井隆医師による原爆体験記『長崎の鐘』がもとになっていることを知らなかった。 

《原爆が投下された当時、爆心地近くにいた永井医師は、被爆したうえ、飛び散ったガラスの破片で頭部の動脈を切る、という大怪我をした。応急処置を済ませた永井医師は、生き残った同僚と負傷者の救護に奔走した。自宅に帰ったのは原爆投下から3日後のことだったという。自宅に戻ると妻はいなかった。台所の隅の方に、黒い塊がふたつあった。妻の焼けた骨盤と腰椎だった。傍らには、妻がいつも身につけていたロザリオがあった。》(藤原正彦、詩歌の品格、サライ8月号)

 

「なぐさめはげまし……」明るい転調が希望を求める最終節を歌い上げると、ソペーニア神父は静かに去っていく。私が4年生の時は大学紛争のため学園祭は取りやめになった。そして、その後は消防署のファイアー開催許可が下りなくなったという。神父のうたは「祈り」であったのではないか。

 

広島出身のミドリさんは毎年原爆忌にあわせてカトマンズで原爆写真展を開いている。コロナ感染下の今年はできるのだろうか。昨日、政府の支援を受けられないでいた被爆者の訴え「黒い雨訴訟」が広島地裁で勝訴した。行政の冷然さ。戦後はいまだ終わらないようだ。もうすぐ8月、広島と長崎に祈りの日が来る。

 

 (2020730日)

 

2020年7月22日水曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #145 

コロナ禍の中で (7

 

雨の合間の庭の地面にぼつぼつ穴が開いてきた。もうセミの季節なのだ。妻はセミのなくのを聞いたという。木の枝に抜け殻を見つけた。梅雨はまだ明けそうにない。

 

近所の知人から夏野菜をいただく。実家が農家で、自身もたくさんの野菜を育てている。モロッコインゲンは柔らかだがしっかりしていて、毎日調理を変えておいしくいただいている。キュウリも市販のものとは歯ごたえが違うほど新鮮である。

 

梅雨前線の大雨が続く。九州、岐阜、長野、島根では想定以上の水害が発生し多くの人が犠牲になった。毎日雨が続く。熊本県の球磨川は急流が知られているが、過去400年に100回以上の水害があったという。狭い谷間に集落がある。山がちの我が国ではごく当たり前の立地であるのが恨めしい。

 

ネパールの山地も急峻な地形で毎年モンスーン期には災害が起きる。ただし谷間の流れに沿って集落を形成しない。1960年代にマラリヤが撲滅されるまで河川沿いの低地に住めないことも理由だが、荒れ川添いの危険を知っていた。一番安全な尾根筋(ダンダ)や段丘(タール)にバザールを形成した。交通(徒歩)の要所には川沿いにもバザールが形成されたが防災の配慮はなされていた。

 

近年は人口増加圧力が加わって低所得層が川に面した低地に集落を形成している。カーストの低い階層が危険を承知で移り住むことがある。砂利の採取や生活廃棄物処理などの職業についている人たちである。私はかつて災害の起こりやすい地方の学校の生徒や教師を対象に防災教育をした。ミャグディ郡ベニのカリガンダキ上流で地滑りによる天然ダムが形成され、下流のバグルンの川沿いの集落に鉄砲水の恐れが発生した。その前年に学校で防災教育をしたので生徒や先生は対策行動を覚えていてくれて早目に安全な場所に避難したという。

 

さて、今年のモンスーン期もネパールの各所で地滑り等災害が発生しているが、新型コロナ情報に目が奪われがちである。ネパールの感染者数は74日あたりから減少傾向にある。6月初旬からの中・西部山地地域の感染激増はインド出稼ぎ帰国者が持ち込んだものと思われるが、このところ小康状態となった。6月末からカトマンズで感染者が毎日に微増している。ガルフ諸国からの帰国者が続いているが関連があるのだろうか。

 

先日ネパールの知人から街かど情報があった。街の噂を頭から否定する人もいるが、私はカトマンズの噂話を情報として重宝している。要は受け取り手の情報価値の取捨選択であろう。その中の一つを紹介すると…。「タメルのホテルが湾岸帰国者の一時隔離所となっており、75日にクウェートから帰国した3人の感染が確認された。帰国10日目である。にもかかわらずホテルは封鎖せずに新たな客を入れている。あと2人出たが詳細は不明。」、「帰国者は一時隔離所に24時間だけ収容し、その後は村に行くバスが出るまでホテル等で待っている。」

 

地方のPCR検査陽性者の扱いはどうなのだろうか。治癒した人の数を郡別にみると、濃淡はあるが全く少ない郡がある。陰性になるのを確認しないで帰宅させているのではないかと心配になる。PCR検査ができる機関まで村から何日か歩かなければならないだろう。死者数が少ないことから重篤になる人も少ないのではないかと思われるが、感染はますます広がる。

 

隣国ブータンでは感染はあまり深刻化していないようだが、南部インド国境のゲレワ地域では4月からマラリヤが、7月に入るとデング熱が広がっているようだ。前号で中国のネパール国境侵犯を書いた。2017年にブータン西部のドクラム地域で中印両軍が70日間にらみ合った。新聞報道によると中国が6月以降ブータン東部の領有権を主張したとのことである(714日付読売)。以前にも北部2地域の領有権を主張した。ネパールにしろブータンにしろヒマラヤの小国が覇権国家の脅威にさらされているわけだが、指導者には目先の利益にとらわれず毅然とした姿勢を堅持してほしいものである。

 

2020717日)


2020年7月9日木曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #144 

コロナ禍の中で (6

 

先日隣町の熱海に行った。海岸通りの渚親水公園沿いの歩道にはジャカランダの花が咲いている。熱海市ではこの通りを新しい観光名所にしたようだ。食事をしたレストランは歩道テラスにテーブルを出し地元の食材を使ったイタ飯であった。かつての温泉繁華街で昔風のなんとなくいかがわしさがあった界隈が、すっかりコンセプトを変えて生まれ変わった。

 

翌日からわが町では雨と風が断続的に台風並みの強さで、庭の満開のアガパンサスがすっかり散ってしまい華やかさが失せる。ムラサキシキブは薄桃色の細かい花を嵐に耐えてけなげに咲かせている。

 

74日に梅雨前線が活発化して九州球磨川流域に災害をもたらした。流域の午後3時まで24時間の降雨量は400㎜を越した。カトマンズの一番降雨量の多い月が7月で300㎜である。その後連日九州に水害を、8日は岐阜県と長野県に大雨災害を発生させた。

 

ネパールのモンスーンはどうであろうか。新型コロナ感染が拡大する中、雨による災害と村の衛生環境が懸念される。モンスーンの趨勢は主産業である農業生産高を左右する。今年は何十年かの頻度のサバクトビバッタの襲来もある。隣国インドの感染者は70万人を超えて勢いが衰えない。インドの専門家によるとピークは11月頃という。

 

インドではこの窮状に加えて、カシミールの国境の係争地で55日に中国軍とにらみ合いが始まり、615日両軍が衝突してインド軍兵士20人が死亡した。インドではこの事態を、中国が自国の景気の後退と国内の政治問題から民衆の眼をそらすためであり、インド洋での海軍勢力の劣勢を北の国境で帳消しにしようとしているとの見方がある。(Dr. Subash Kapila, South Asia Analysis Group

 

ネパールも極西部でインドとの国境問題が発生している。いつの間にか地図が塗り替えられていたのである。最近憲法を改正してこの問題に対処したが、インドとは交渉がなされていないようである。中部国境のガンダキ堰修復の問題にも背を向けている。インド嫌いの首相をインド側はアンチインドの超ナショナリストと呼ぶ向きがある。インド政府のイライラが伝わってくる。

 

しかしインドにばかり気を取られて北の国境を無視するわけにはいかない事態になってきたようだ。ネパリコングレスは624日に議会に中国の国境侵犯事案注意喚起を上程した。ドラカ、フムラ、シンドゥパルチョウク、サンクワサバ郡で64ヘクタールのネパール領に中国が道路建設等で侵略しているというものである。

 

このような国難ともいえる時期に恒例のネパール共産党内の権力抗争である。そこに駐ネパール中国大使の動向が報道されている。これに不快感を表明する向きがあるのは当然のこととはいえ、能動的解決意思があるのか問いたくなる。新型コロナのPCR試験キットの質の問題といい国境侵犯問題といいまさに国家主権が問われているのではなかろうか。大国に挟まれた〈自然薯芋〉などといつまで甘えたことを言っていても始まらないのではないだろうか。

 

ネパールのことばかり言ってはいられない。我が国をめぐる問題も同様である。尖閣諸島では領海侵犯が常態化している。宮古海峡には空母部隊、潜水艦、戦闘機が行き来している。香港の自治権は踏みにじられ、台湾には軍事圧力が増している。〈独善的平和主義〉の我が国の立ち位置が怪しくなっている。

 

202078日)


2020年6月22日月曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #143

コロナ禍の中で (5

 

611日関東地方に梅雨入り宣言があった。湿気が肌に感じるようになる。部屋の窓も開け放している。庭のアジサイの満開の花が鮮やかだ。クチナシの甘い芳香が漂う。隣のサンゴジュは伸び放題に伸びて白い花を木いっぱいに咲かせている。庭の片隅の萩の花が咲いているが秋のものとの先入観がある。

 

カトマンズはモンスーンに入っただろうか。テライのモンスーン前の暑さは尋常でない。この時期熱射病で多くの人がなくなる。ましてや新型コロナ感染拡大の最中である。私の小児眼科プロジェクトの地方の協力者たちと連絡を取る。バンケは早い時期に拡大したので気になる。先に本稿で書いたがプージャ・カルキにメッセンジャーで連絡を取った。郡別でロウタハット郡に次いで感染者の多いカピルバストゥ郡のスジャータ・アチャーリヤは彼女の学校がインド出稼ぎ者の帰還時の一時収容所となっているという。国境の入国管理所には3千人以上の帰国希望者が一時待機しているようだ。

 

山地のダイレク郡の感染拡大がすさまじい。61日から2週間で416人の感染者が報告されている。医療施設が十分でないところでいかに過ごしているか心配である。ミナ・アチャリヤからは周囲は無事である旨連絡が来た。アータビス市のバザールにはチャヤ・マジ、アニタ・クマリ・マッラ、アンビカ・マジがいる。バンケからスルケットからカリコット、ジュムラ、ムグ、アッチャム郡に抜ける街道筋であるところ、まさにウイルスの通り道といってよい。このバザールにはプロジェクトで手術をした子もいる。母の胎内での発育過程に起因して視力が弱く一人では行動できない子もいる。ミナには手洗いの励行とマスクの着用をアドバイスすると、すでに励行しているという。彼女は沈着冷静な性格なのでこのような事態にも子供たちを無事に導いてくれることだろう。

 

ネパールで感染者第一号が認められたのは123日である。9日に武漢から帰った31歳の学生ということだ。インドの第一号は130日である。ネパールのケースは南アジアで最初の感染者だ。二人目の感染者は327日にカイラリ郡で見つかっている。三人目がバグルン郡である。その後ビルガンジを含む隣接三郡で、またネパールガンジを中心に確認されている。5月初旬にはテライのすべての郡で感染が広がった。

 

510日ごろから感染者が急激に増加する。6月に入ると710日間で倍増のペースになる。インドで職を失った出稼ぎ者の帰還がウイルスを持ち込むのだろう。インドはむしろ南部の諸州で感染が拡大している。マハラシュトラ、タミルナドゥ、グジャラート、デリーの四州で全国の7割弱を占めるが、インド政府が都市封鎖を緩和し、鉄道を再開したことも移動を容易にしたと思われる。 

 

五月下旬までの感染者を性別、年齢別でみると、1545歳が圧倒的に多く、しかも男性である。これらからインド出稼ぎ帰還者とみるかは確かではないが、45歳以上で男女の比率がほぼ同数であることから類推は可能と思われる。地域的に見ても西部のテライでの感染のスピード、出稼ぎ者の多い山地部の地域的に偏った増加を見るとこれを裏付けているかと思われる。西部ではじわじわと山地に感染が広がっているのが不気味である。

 

さて、ネパールのロックダウンが緩和されたとはいえ日本人会の皆様におかれては日常の不自由な生活の中で会の運営に腐心されていられることとご苦労に思う。そのうえで64日付のニュース臨時号の「チャーター便の運航見通しについて」に私の感じたところを述べたい。私の会社員時代の仕事のフィールドは一貫して途上国であった。会社の教えるところは〈自分の身は自分で守れ〉である。多くの国で政治が不安定な時代にあって、「常在戦場」の心構えを求められた。

 

定期のニュースの一日前である。取り急ぎ会員に決断を促したものと理解できる。会員には組織から有期で派遣された人もいれば、拠点をネパールに置いている人もいる。できれば日本で災難をやり過ごすほうが望ましいと思うが、離れることが困難な事情のある人もいるに違いない。自助で対処ができない事態に備えて、国の公助を求める前に日本人会として準備している共助があると思われる。早めに公表したらいかがだろうか。ニュースについて複数の在留邦人から不安の声が寄せられた。

 

ネパール政府には首都圏への感染拡大を全力で阻止していただきたい。一極集中の政治経済が混乱をきたせば国の統治は困難になる。平時ではない、 これまでのように支援の手を差し伸べる余裕のある国は少ない。

 

2020615日)


2020年6月12日金曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #142 

コロナ禍の中で (4

 

夏ミカンの花が散って山椒粒ほどの青い小さな身をつけている。淘汰するように小さいまま落ちるものがある。その木の下には今年もサルビアの一叢が花をつけ始める。毎年待ちかねていた気品ある濃い紫の花だ。

山本周五郎の『赤ひげ診療譚』を読んだ。昭和45年(1972)発行の本なので、古本屋で買って長いこと本棚に眠っていたものと思われる。江戸の奉行所経営の医療所の医者と市井の底辺に住む人々の物語である。長屋の人たちは互いに助け合って格差社会をたくましく生きる。貧困に負ける人たちもいる。

当今のコロナ感染下で我が国の経済格差も浮き彫りになった。真っ先に影響を受けたのは非正規雇用者で解雇あるいは雇止めされる。雇止めとは、契約期限到来時に契約延長しないことである。中には就労時から住居を持たずにネットカフェで寝泊まりしている人が報道された。自粛要請で一時閉店になり、行き場を失う。3月の生活保護申請件数は速報値で前年同月比7.4%、4月は全国政令都市20と東京23区で31%の増とのことである。

一時閉店や事業継続が困難になる中で蓄えもなく職を失う人がでてくる。私もあとさきを考えずに結婚したもので、若いころは給与だけでは生活できずに妻もアルバイトに出ていた。預金などなかった。当時はまだ高度成長の末期とはいえバブル経済真っ盛りであったのだが、世が世であれば同じ境遇にあったにちがいない。今は幸いにして年金で何とかしのいでいる。

外出自粛要請により「巣ごもり」状態でテレビを見ることが多くなる。タレントの言葉遣いに違和感を覚える。「だいじょうぶ」やら「やばい」が頻繁に登場する。スーパーで買い物をすると、レジで袋は「だいじょうぶ」ですか?ああそうか「不要ですか」と聞かれているのだと気が付く。「やばい」はそれこそ会話の文脈をとらえなければ何のことかわからない。路上の街頭インタビューで若者がやたらと使っている。こちとら老人にとってはいい頭の体操になる。

金田一秀穂さんが月刊誌「サライ」で「巷のにほん語」を連載しているが6月号のテーマは「不要不急」である。政府、自治体、マスメディアから毎日のように発信されている当節の「はやり言葉」である。以下一部を引用する。

『「不要不急の外出を自粛してほしい」という要請があるが、そもそも「自粛」を「要請」できるのか。自粛は、自分の判断ですることであって、他人から要請されてすることではなかろう。しかし、日本文化は、そのようなあいまいな依頼か命令かわからないようなものによって秩序が保たれてきたという伝統がある。空気である。お上が空気を醸し出す。それに世間が同調する。未曽有の事態でも日本人根性は不変である。』 なるほど、この日本文化を理解できない諸外国メディアが日本のコロナ感染の少なさを〈ミステリー〉とみて日本人異質論が喧伝されるのだろう。

また、テレビのワイドショウのコメンテーターが「不要不急」とは何ぞや、定義を出せとのたまうのには次のようにおっしゃる。『いつから日本人はこんなに愚かになってしまったのだろう。自分の行為が不要不急であるかどうか、自分で決められなくてどうする。教育の目的は、自分で考え、自分で判断し、自分で表現できるような人になることであったはずだ。』

納得である。ワイドショーのコメンテーターは専門外のことをよく勉強していると思いきや的外れなコメントをすることがままあるらしい。 テレビは見栄えのいい画面を作ることに腐心しているのであろう。あとでほかの情報と突き合わせると事実と相違することがある。餅は餅屋を起用して真実を報道することがテレビ屋の使命なのではあるまいか。

私に不要不急な用件ははなからない。火ではないがスーパーに食料品を買いに行くことくらいは許されるだろうか。

 

202063日)


2020年5月27日水曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #141 


コロナ禍の中で (3

6時に野鳥のえさ場に餌を配るのが日課になった。満開の夏ミカンの花が濃い芳香を放っている。ほとんどの野鳥は山に帰ってしまい、スズメとヤマバトがせっせと通ってくる。ヤマバトは近づいても逃げなくなるほどになる。

新型コロナビールス感染拡大の折、ロックダウン中のカトマンズにお住まいの皆さんはいかがお過ごしでしょうか。漏れ聞くところでは食料品等日用の品は手に入るとか。子どもたちは学校に行くことができずに退屈していることでしょう。食事の世話や遊び相手とお母さんは大変なのではないだろうか。日本でも学校閉鎖が決まると、真っ先にこの苦情が母親世代から上がった。

わが町湯河原では緊急宣言が出されて外出自粛が続いており、商店街も閉めている店がある。町役場の発表では感染者が7人出たようだがあまり話題にはあがらない。自宅勤務が奨励されており大手企業ではテレワーク、子どもたちは学校にいけないことからオンライン授業と、家にいることが多くなり「巣ごもり」という言葉がマスメディアでつかわれている。

私のような高齢者をテレビも気遣ってくれており、老人向け体操を考案して流している。体を動かさないと筋肉が衰えるばかりでなく、思考力も低下するという。そして意欲減退に陥り、ますます動かなくなって悪い循環に陥るとのことである。そういわれてみると自分にも当てはまるような気がする。毎度の食事が楽しみの一つになった。幸いわが女房は料理が大好きであり、プロの板前の娘がアメリカから一時帰国して私の楽しみを満たしてくれる。

カトマンズの知人から送られてきた写真では町中を車が走っている。とすると人も結構出歩いているのであろうか。カトマンズ市内のPM2.5の値も下がっていない。外出パスが交付されているようで、これならコネとカネがものをいう。緩いところがなんとも居心地よさそうだ。

私の「子どもの失明対策プロジェクト」の拠点学校で活躍してくれている〈おなご先生〉の村の様子が心配である。彼女たちとはスマホのface bookが通信手段として有効なので連絡を試みる。先日ネパールガンジのプージャ・カルキと連絡が取れた。元気で自宅待機しているという。インドが感染の爆発的拡大様相を呈してきているので、テライの主要都市であり人口稠密な街の様子が気にかかる。プージャの学校はバザールの密集地帯にあり、生徒は低所得層の子どもが多い。

インドの一日の感染者が18日に累積で10万人をこえたが、ネパールの感染者はいまだ375人にとどまっている。ネ印は両国民にとっては国境がないのに等しい。パスポートは不要だし、両国を行き来するのに妨げるものもない。住民にとっては隣村感覚なのである。ヒトやモノが頻繁に動いている。コロナウイルス肺炎に多少なりとも対処できる病院は、カトマンズ以外ではせいぜい15都市程度であろう。治療薬もままならないのではなかろうか。医療設備も充実していない。

ましてや農村部では医療を期待できない。衛生環境も決してよくない。マスクもない、消毒液もない。石鹸をつけて手洗いすることも頻繁ではない。食器洗いも洗剤を使わない。手づかみの食事である。政府は予防の広報をしているであろうか。農村の人たちは病気を恐れはするが予防の意識は希薄である。などなど考え始めると際限なく心配になる。

ネパールへの渡航もままならずもどかしいものがあるが、今できることから始めていこう。

2020519日)

2020年5月19日火曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #140


コロナ禍の中で (2

外に出ると夜の闇に隣家のジャスミンの香りがする。大きな木のてっぺんまで蔓が伸びて白い花をいっぱいに咲かせている。カトマンズの夜の路地でも甘い香りを漂わせていることだろう。もっと濃厚な気がする。

わが国ではコロナ感染の広がりを受けて緊急事態宣言が全都道府県に出された。テレビニュースでは毎日個人商店の売り上げ減の窮状と、閉店要請に従わないパチンコ店の様子が繰り返されている。要請に従わない店を公表するとそこに人がどっと集まる。パチンコ愛好家というよりギャンブル依存症だという。80万人いるようだ。

48日、武漢で123日以来の都市封鎖が解除された。午前0時封鎖解除を記念して長江沿いの高層建築が一斉にライトアップされ花火が打ち上げられた。ピーク時には一日2000人近くの感染者が出た。厳しく外出が制限された。人々の恐怖と不満は最高潮に達していたのだろう。我が国の緩い規制下でもストレスを感じているくらいなので、武漢1,100万人の気持ちもわからないではない。

だが待てよ。現下の感染症は武漢ウイルスによるものとされているように、発生はかの地ではないのだろうか。我が国、欧米諸国をはじめ全世界でいまだ感染者が増え続けている窮状にある。中国人は儒教の「五常:仁・義・礼・智・信」の五つの徳目を重んじていることが知られている。このうち「仁」とは思いやりの心である。自分たちの喜びもこの時期控えめにするのがその心であろう。

これに加えて中国政府のプロパガンダが在京大使の新聞への寄稿(425日付読売新聞)という形をとってで出された。前段は、中国での感染拡大を外部への流出を防ぐため全力を尽くしたとし、「世界各国が感染に立ち向かうための貴重な時間を稼いだ」と主張する。中段では、「WHOや関係諸国と予防・抑制と治療の経験を共有した」としている。しかしこの間大量の中国人感染者が各国を旅行してウイルスをまき散らしていたのは紛れもない事実である。

後段では、中国が感染拡大した国に援助の手を差し伸べているとして、「中国に対するデマや偏見は感染拡大の防止に資するどころか、世界の感染予防・抑制の妨げになる」と述べる。そして中国での感染拡大期の日本の支援に感謝しつつ、その後の日本への支援をちゃっかり述べているのである。日本国民がこの手の話に騙されると思っているのだろうか。中国にシンパシーを持つ政治家や財界人ばかりではないと明言しておこう。他の国でも同様のことを試みているのに違いない。

問題はかの国ばかりではない。34日の参院予算委員会のことである。野党第一党の幹事長の発言は「総理、いやでしょうが桜を見る会について質問します。時間が余れば、コロナ対策もやります」。1月下旬に感染者が出て33日には330人を超えている。ついでの質疑でよしとする問題ではない。中国大使の言は褒められたものではないが国益を死守しようとしている。この日本の政治家は何を守ろうとしているのだろうか。児戯とすら思える。この政党の支持率は4月の各種世論調査によると軒並み4%前後下落して3.75%である。国民はバカではない。

もう一人困った人がいる。「森友」問題の新たな展開に首相の辞任を求めた元総理である。国難ともいえる局面にリーダーを挿げ替えることが国益といえるであろうか。優先順位が政治のリアリティではなかろうか。品格すら疑いたくなる。

医療関係者の家族への嫌がらせのニュースがある。感染のリスクも顧みず懸命に現場で踏ん張っている人たちをおもんぱかることがないのだろうか。荷物を届けに来た宅配便の配達員の顔に消毒液のスプレーをかけた人がいるという。自粛ポリスと揶揄される御仁は「正義の味方ヅラ」して鬱憤のはけ口としている。誰しもが外出自粛でストレスが溜まっていることは確かである。強制措置のとられていない日本で国民はよく自制していると思う。危難の時ほど人として矜持を示すべきではなかろうか。これまで幾多の自然災害にも耐えて復興してきたのだから。

202054日)


2020年5月2日土曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #139 


コロナ禍の中で (1

この季節気温の変化が大きい。10度近く変わる日がある。カトマンズで季節ごとの決まりきった気候に慣れた体にはいささかつらいところがある。

しかしながら、わが町の山々は新緑に燃えて生き生きとしている。木々の緑にびみょうな色彩の濃淡があって、キャンバスに描かれた風である。もう少したつと緑にあまり差がなくなる。今だけの感性である。華やぐ季節ではあるが世界中新型コロナウイルス感染症が広がっている。

ネパールへの渡航がかなわない。プロジェクトも気になるがネパールの都市封鎖の現下では動きようがない。日本はといえば緊急事態宣言が出され、外出も控えざるを得ない。カトマンズのチベッタンクリニックで処方してもらっている血圧を抑える生薬がなくなってしまった。10数年飲み続けておりとても相性がいい。先日気になって血圧を測ってみるとなんと200を超えている。のどの痛みや胃の不調もあるのでかかりつけのクリニックに行った。

血圧、体温の測定と看護師の問診から始まる。その後廊下の一番隅で待つように指示される。私がネパールと行き来をしているのを知っているのでコロナ感染の対応をしたのであろう。医師が廊下で診察をする。2メートル離れての問診である。医師もいつになく重装備だ。次回から風邪の症状がある場合は自分の車の中で待って、医師が車に出向いて診察するという。大中規模の病院から院内感染とみられるクラスターが発生しているのを見れば、個人経営の開業医が自分のところから感染者を出すわけにはいかない。

神奈川県は今まで保健福祉事務所所在地の地域ごとに感染者数を発表していたが、市町村ごとの集計に改めた。それによると神奈川県の場合はほとんど都市部に集中しており、小規模町村では軒並み発生していない。むろん人口23千人のわが湯河原町は老人施設の感染者2人である。医師からはコロナでないといわれたが、無症状感染者が多数いるところから一抹の不安が消えない。

先週末の主要な鉄道駅における人出についての調査がある。緊急事態宣言発出前の週末との比較であるが、大阪梅田駅、東京駅、横浜駅等の第一弾の発出都府県については80%前後の減であった。地方都市は2030%減にとどまっている。感染の広がりによる深刻度あるいは認識度の違いが表れているのだろう。東京でも商店街の人ではかえって多いくらいだという。

わが町は温泉観光地である。鎌倉、江ノ島等の観光地は人出が多く車の渋滞が起こっている。首都圏からの行楽客の多さに県では駐車場を閉鎖した。町の国道の交通情報掲示板には「神奈川に来ないで」との表示がある。地元は他県からの移動に不安を感じている。町の状況はあまり外出していないので詳しくわからないが、国道沿いの大型スーパー店の駐車場にはいつもより地元以外の車が多くみられるという。

数日おきに買い物に行く近所のスーパー店の買い物客もいつものとおりである。地元で感染患者が出れば人の行動は変わるのかもしれないが、今のところ特段の変化はみられない。都知事は混雑する都内のスーパー店の入場人数規制や買い物頻度を減らすよう要請した。もっともの措置と思われる。政府は換気の悪い密閉空間、多数の人が集まる密集場所、間近で会話する密接場面の「三密」の回避を呼び掛けている。これをもじった「集・近・閉」のダジャレも出ている。

先日親しい会社時代の同僚が亡くなったが、高血圧もあって首都圏での葬儀参列を遠慮した。一月前に病院に見舞ったので許してもらう。ネパールのように完璧に都市封鎖をしていないわが国では、国民のウイルスへの正しい認識と善意を期待した抑制策しか取れないというのは何とももどかしい。

2020430日)



2020年4月23日木曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #138


独りよがりの罪

3月中旬の土曜日寒い朝だった。わが町と箱根の境界の山々には雪が降っている。翌日の朝はあられがふった。そんな中で庭のシダレザクラが花をつけはじめた。冷たさに目が覚めたものと思われる。

去年の夏に、このシダレザクラとソメイヨシノそしてモクレンの大枝を払ってもらった。隣近所から落ち葉の苦情が来たためである。そのため今年の花はなにかさびしい。モクレンといえばここ数年花をつけていなかったが、選定したためか今年は4輪の花をつけた。樹下にはハナニラの白が敷き詰められる。素朴だが力強さがある。

朝空が白むころになると餌場の周りの高い木の梢には野鳥が集まってきて催促する。メジロ、ツグミやシジュウカラだが、暖かになれば山に帰っていく。ドバトは一年中つがいで通ってくる。

翌月曜日に神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で20167月に起こった19人を殺害し、26人に重軽傷を負わせた事件の第一審判決があった。被告は以前この施設に勤めていた。当時は「介護職を天職である」と語っていたという。

犯行の動機を判決の要旨(17日付の読売新聞)から転載すると「職員が…利用者を人として扱っていないように感じたことなどから、重度障碍者は不幸であり、その家族や周囲も不幸にする不要な存在であると考えるようになった。自分が重度障害者を殺害することによって不幸が減り、重度障害者が不要であるという自分の考えに賛同が得られ、重度障害者を『安楽死』させる社会を実現し、重度障害者に使われていた金を他に使えるようになるなどして世界平和につながり、このような考えを示した自分は先駆者になることができる」と認めている。判決は死刑であった。

「意思疎通のとれない重度障害者は人間でない」との思いがどのように形成されていったのか、裁判で解明されなかった多くのことを知ることはできないのだろうか。ネパールで視覚障害児の福祉に取り組んでいる私にとってネパール社会に対応するうえで重大な関心事である。

「快点起来説謝謝中国」(さっさと起きて、中国よありがとうと言いなさい)中国新華社通信の記事のタイトルだそうだ。中国が感染源とは確認されていない、中国は一番の被害者だ、世界を救うために多くの犠牲を払ったといいたいのだという。(ニューズウイーク日本版324日号)

今朝は米国務長官と中国の外交責任者が電話会談で互いを非難したとの報道があった。中国の報道は米軍が武漢にウイルスを持ち込んだとしている。国家主席も感染源がどこか不明であると公言している。世間では武漢で発生した新型コロナウイルス肺炎を地元と中央の官僚の硬直化と指導者の鈍感さがもたらした事態の隠ぺいと対処の遅れによって拡大したとの見方が一般的である。

少し古い話だが、私は1985年から天安門事件(1989年)まで中国の広い国土をプロジェクトや営業で歩いた。交渉事ではしばしば不愉快な思いをした。相手に勝つことが至上命令なのであろう、明らかに「嘘」だと思われることを強弁するのである。一度や二度ではないことからこれが中国式論理であり交渉術なのであろうと割り切るのだが後味の悪さだけが残った。

障害者殺傷事件と同列に論ずることは適当ではないかもしれないが、独善的な思考回路は共通するところがあるように思われる。

2020318日)

2020年3月13日金曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #137


災害とリーダーシップ

10回目の3.11が来た。発生時にはカトマンズにいた。NHKニュースは津波の光景を繰り返す。2011311日の1446分のことである。岩手県から茨木県沖まで南北500㎞、東西200㎞を震源域とするM9.0の巨大地震がおこった。死者15,899人、行方不明者2,529人のほとんどが津波にのまれたものという。全身が凍りつくようであった。平静に見られない光景であった。

のちに知ることになった石巻市大川小学校の惨事は、108人の生徒のうち21人が遺体で見つかり56人が安否不明、教師も13人のうち無事であったのは1名のみという報道があった。行政や教師の判断の誤りが原因といわれる。

福島で原発が対処を誤れば旧ソ連のチェルノブイリ原発事故に匹敵する事態になっていたとは想像もつかなかった。東京を逃げ出した外国人も多かったとのことで、在留ネパール人への対応を放棄して大阪に避難した在京大使もネパール主要紙で批判を浴びていた。民主党の菅政権の迷走ぶりを聞いて事態の深刻さがうかがい知れた。

共同通信原発事故取材班による「全電源喪失の記憶、証言・福島第1原発、日本の命運をかけた5日間」(新潮社)を読んで、現地の原発スタッフがいかに命をとして最悪の事態を乗り越えたか、その献身ぶりには称賛を通り越した驚きと尊崇の念を胸に刻んだ。英知と勇気と忍耐による何物でもないことを学んだ。

今年の117日は阪神大震災から25年である。淡路島北部を震源とするM7.3の直下型地震だ。死者は6,434人に上った。明け方の546分であった。

《妻が叫んだ。「タンスにはさまれ動かれへん」夫が駆け寄る。「火が来とるで!」妻が押し返すように言う。「お父ちゃん、もういいから行って」「かんにんやで、かんにんやで」。74歳の夫は近所の人に羽交い締めされながら、燃えさかる家を見つめた》(117日付読売新聞編集手帳)

この時私はインドネシアのジャカルタに勤務していた。午前11時ころ取引先から「日本で何か重大なことが起こっているらしい」との連絡を受け、東京本社に電話をしてみたが、現地との通信が途絶しており地震がおこったことよりほかわからないという。大阪支店に電話を試みると、なんとつながった。所員一人と連絡が取れないという。ここでも詳しいことがわからない。

この時期日本の政局は自民党の長期政権が野に下り不安定な短期の連立政権が続いていた。発生時は自さ社の村山政権であった。手をこまねいていたわけではないのだろうが、街を嘗め尽くす炎になすすべがなかった。政府の無力が恨めしかった。

20154251156分におきたゴルカ郡を震源とする地震(M7.8)は震源域が東西150㎞、南北120㎞にわたったという。死者は8,460人に上った。この時私はカトマンズの事務所の机におり、わきの書架が倒れてきて下敷きになったが幸いけがもなく外に逃れた。知人からの電話はすぐに大使館に避難しろという。毎年実施している緊急時の避難訓練では自宅の地域は避難先が大使館であった。十日後に大使館から電話で「(大使館の対応に)何か問題あったか?」と詰問される。私の言動に何か癇に障ったことでもあったのだろうか。

事務所職員のシンドゥパルチョーク郡にある実家に寝具、衣類、食料品を届けたついでにチョウタラまで行ってみる。尾根筋のバザールは軒並み家が傾いている。丘の上の学校は跡形もなく崩れてがれき状態である。土曜日の休校日でよかった。放心した教師が一人がれきの間に教科書を探している。

カブレの友人宅にガソリンやプロパン、食料などを届けて慰問した二日後の512日には最大の余震(M7.3)があった。シンドゥパルチョーク郡が震源であった。この時はシンガダルバールのエネルギー省に着いた時であった。次官補とは玄関先で協議する。翌日電力庁に行くと多くの幹部が庁舎の外にいる。わけを聞くと「1215分に再度大きな地震が発生するとインドの預言者が発表した」という。

この時の首相はネパリコングレス党のスシル・コイララであった。2008年にマオイストが政権を握り、その後統一共産党(UML)と目まぐるしく政権が代わり、スシルの前一年は選挙管理内閣を置かざるを得ない不安定な時期であった。そのような状況で、スシルは震災の社会混乱に有効な施策を講じえずに10月には辞任を余儀なくされている。

時代は今しも新型コロナウイルスがパンデミックの様相を呈している。非常時の社会の安定にはタイムリーで的確な施策を講じることができるリーダーシップが期待されるが、我々世界市民の冷静な行動もまた不可欠であるといえよう。

2020311日)

2020年2月27日木曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #136


ベンダラとレカ

訓練士の穏やかな語り口の入所の勧めが続く。ベンダラは何も言わずに涙を流し始めた。ロカンタリにあるBP財団運営の小児耳鼻咽喉科リハビリテーション科病院(CHEERS)の障碍児用のホステルわきの陽だまりである。ここでは約20人の視覚障碍、ろうあ、知的障碍の子どもが社会適応の訓練を受けている。ちなみにこのホステルは日本政府の草の根技術協力事業で建てられた。

ベンダラにあったのは一年前にジュムラに行く途中のダイレク郡アータビス・ナガルパリカ(市)ラカムバザールの〈おなご先生〉アニタの店先だった。チャヤが先生をしている学校がある。卒業後は郷里の村で、今はスルケットの学校で教えているミナの母親が連れてきた。徒歩で二時間かかる山の上の集落という。それから間もなくしてカトマンズに来て診察したが、なおる見込みがないとのことだった。今年は予定していなかったが、ミナがあきらめきれずにつれてきた。

カトマンズ医科大学(KMC)付属病院の眼科で私のカウンターパートであるサビナ教授に見てもらったが、角膜が損傷して回復不能とのことであった。セカンドオピニオンを求めてCHEERSにいった。ここでの診断は、妊娠時の障害であり、手術をせずに今のかすかな視力の維持に努めたほうがいいとのアドバイスがあった。本人が受け入れたらリハビリ科で訓練することも考えて生徒たちの中に連れて行ったのだが、都会の施設での生活が不安なのだろう、村に帰りたいとのことである。

レカがCHEERSのリハビリ科に入所したのが去年の11月初めである。全盲だが、医者の診察を強固に拒むので治療のめどは立たない。家族にしか心を開かない精神障害を負っている。カンティ小児病院の精神科で二人の精神科医の診断を受けた。一人は自閉症といい、他は自閉症ではないが知的発達が4歳程度であるといい両親に今後の家庭での教育の仕方を教える。ベンダラと同じ12歳である。

一月の終わりに一か月ぶりに様子を見に行った。昼食時であった。入所してから2か月ほどはいつもうつむき加減で他者を寄せ付けないかたくなな姿勢が感じられたが、この日は姿勢を正して食事を楽しんでいる風である。他者との付き合う心が少しずつ芽生えてきたのだろう。食事の後洗い場で自分の食器をきれいに洗って、自分の口もゆすぐようになった。訓練士の日々の努力が目に見えて形になっている。

さて、ベンダラを連れて行った日のレカは以前のように子供たちのかたまりから離れて片隅にうずくまっている。入所以前は私が名前を呼んでもびくっとして身構えるのが常であった。そんなことから入所後は声をかけるのを控えていたのだが、この日は何となく名前を呼んでいた。「レカ」、「ハジュール(はい)」とはっきりした返事があった。人を怖がらなくなっている。この施設に入所してよかった。だが、入所期限はあと三か月である。そのあと何ができるだろうか。

2020223日)

2020年2月14日金曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #135

コロナウイルス対策とお国柄

129日のタイ国際航空バンコク-カトマンズ319便機内は一種異様な雰囲気であった。客室乗務員は全員マスクと医療用ゴム手袋の重装備である。羽田‐バンコク間の機内はマスクすらしていなかった。バンコクのスバルナブミ空港は旅行者がかなり少ない印象を受けた。

ネパールで新型コロナウイルス肺炎の患者が出たとのニュースは出発前に日本で聞いた。やはりカトマンズでは感染が拡大する兆候があるのかと心配になったが、トリブバン空港の検疫デスクには係官がいない。体温探知機らしきものは置いてあるが、果たしてどこでモニターしているのだろうか。

このころ、日本では中国湖北省武漢滞在の邦人救出のチャーター機派遣の表明が26日になされ、29日から一機ずつ4便を飛ばして多くの邦人が帰国できた。中国政府との調整に時間がかかったとのことだが、まあまあのスピード感といっていいだろう。問題は、第一便帰国者のうち二人が検疫収容を拒否して自宅に帰ったことである。人権を無視せざるを得なかったとのことであるが、もし二人が感染者であったらそこから拡大する被害が大きいことを想定すべきであり、二人の人権以上に公共の福祉が脅かされることを考慮しなければならなかったのではないだろうか。

もっとも、帰国者の経過観察機関の宿泊施設の当てがなかったとの報道もあった。政府が対策本部を設置したのが中国の国家主席が封じ込め宣言をして10日もたってからであり、30日の時点で中国全土に感染者が7711人、死者170が確認されているにもかかわらず、入国を制限したのは武漢滞在者のみであった。米国等は中国全土を対象とした。

いち早く中国との国境を閉鎖したのは北朝鮮であった。この国の指導者のキャラクターがよく表れていて興味深い。ネパール政府は30日にラスワガリの国境を閉鎖した。空港の監視体制に比べると迅速な措置である。そして政府は武漢滞在の自国人180人(ほとんどが留学生)救出のためのチャーター機をとばすと発表した。するとすかさずに保健省官僚から「収容施設がない」との反論が出た。さすがに〈ケーガルネ(どうしようもない)〉の常とう句は出なかったが。在北京ネパール大使館はチャーター機搭乗の希望者を募る際、土曜日に発表して翌日曜日の午前9時に申し込みを受付終了した。それでも多くの申し込みがあったということだが、この措置を見てネパール政府の本気度を疑った。周囲に押されていかにもやるかのごとく発表しても何もしないことがよくあるこの国の政治であり行政であることをこれまで多く見てきたせいなのであろうか。いかに政府の実行力を日ごろから冷めた目で見ていても、武漢滞在者のフラストレーションは募るばかりであろう。

小児眼科プロジェクトのカウンターパートである大学病院の眼科の医師は一人としてマスクをしていない。空港の検疫体制を伝えても、今のところカトマンズに感染の状況にはないと意に介さない。先のことを見るのがあまり得意でないこの国の人たちだが、専門家の様子に安心していいのか心配すべきか混乱する。

さて、発生源の中国だが、初動の遅れが指摘されている。12月初めには感染が確認されていたという。注意喚起した医師はデマを流布した理由で拘束された。政府の発表がその時から一か月もなされていない。権威主義的統治を維持せんがために隠ぺいを図ったとの見方が多い。のちに初動の遅れを認めるが、党の求心力が弱まったに違いない。国家のエリートが立場の保全を図ってうそを重ねた結果、真実から疎外されていた人たちに明らかになった時には国力が毀損していたことは、わが日本は苦い経験をしている。

カンボジアの首相はいち早く北京詣でして、中国の立場を取り繕った。WHO事務総長は中国から経済支援を受けた国の保健相、外相経験者であるがために中国を擁護する発言をし、誤った施策を取らざるを得なかったという。中国が最大の貿易相手国である韓国も忖度の姿勢を見せている。さて、わがネパールは毅然とした姿勢で対処できるだろうか。真に国を思う政治家の腕の見せ所であるが、あまり悩ましく思わないのがいいところでもある。

2020211日)