2018年2月23日金曜日

2月23日


先週の土曜日にネパール日本語教師協会(JALTAN) が催した日本語弁論大会に審査員として参加しました。20人の弁士の皆さんがわずかな学習期間ながら流暢な日本語を披露してくれました。

中でも弁論大会らしい内容の充実した話しぶりの人が二人いました。村の教育の話、ジェンダーの話題で、いずれも女性です。近い将来の自身が活躍する場、貢献できることをはっきりと自覚したうえで述べています。女性であったことがいかにもネパールらしいと感じました。

皆さんはポカラにある「さくら寮」をご存知でしょうか。ネパールの女性教師養成施設で、旧高校卒業資格認定全国統一試験(SLC)合格者をカニヤキャンパスで2年間学ばせたのち、出身の村に帰って教職に就くものです。10年間で100人の女性教師を送り出しました。

NPO法人日本ネパール女性教育協会(理事長:山下泰子文京学院大学教授)の支援事業です。山下先生は、ネパールの教育の貧困、女子の就学率の低さ、政府の教職員養成の実態、教職員の技能・意欲の問題等に着目され、とりわけ後進地域である中西部、極西部の女性教員育成に注力されました。

学費・寮費、交通費、生活費を奨学金として支給し、卒業後は村の学校での教師としての最初の3年間の給与支給、ホローアップ研修等の支援が行われます。カリキュラム面では、日本人専門家による音楽、絵画、体育、情操・表現教育など、ネパールで得られない科目を習得させます。

私も、カスキ郡、バグルン郡の学校で「防災教育プログラム」を終えた帰途に、さくら寮で同様の講義をしましたが、女子寮らしい穏やかさの中にも真剣な受講態度が感じられました。多くの学生が山地部の出身なので、教職就任後に役に立つものと期待しました。
山下先生はネパール教育界に3つの提言をされています。

  無償義務教育の導入 —— 山村奥地の分教場、給食付き寮運営
  教員免許制度導入 ― 教師の自覚、社会的信頼の醸成
  師範学校制度導入 ― フィーダー・ホステル(FH:女子師範学校)制度の復活

「さくら寮」は100人の教員を養成して所期の目的を達成し、新たなプロジェクトの開始を待っています。山下先生は持論の女子教員の能力向上にむけてFHの改組充実にむけて活動を始められています。

(スガジイ)

2018年2月16日金曜日

2月16日


時にネパール人の楽天的な思考にほほえましく感じまた苛立ちを覚えることもあります。しかし、2月4日付リパブリカ紙の航空機事故に関する記事にはあきれるほかはありません。

“2017, a safer year for country’s aviation” 2017年は国内航空にとって比較的安全な年だった)は2017年に2件の航空機事故が発生して2名がなくなったにもかかわらず安全な年であったとしています。

2010-17年の8年間で事故がなかった年が1年、1件(死亡18人)が1年、2件(同合計91人)が5年、4件(同25人)が2016年でした。17年は確かに前年に比べれば件数も死者も少ないには違いありません。しかし『安全』とは無事故を表現する言葉ではないでしょうか。

見出しの表現はネパール航空庁(CAAN)の幹部の発言のようです。国際民間航空機関(ICAO)が2013年に指定した「重要な安全性の懸念(SSC)」が17年に解除されました。これを受けた幹部の表現のようですが、いかにも短絡的ではないでしょうか。

ICAOSSCに全航空会社が指定された国は昨年11月末現在で16ヵ国あります。この措置によって欧州連合(EU)はネパールの航空会社の域内乗り入れを禁止するとともに、国民にはネパールの航空会社を利用しないよう勧告しています。EUは禁止措置を継続しています。

CAANは安全性向上のため、パイロットの技能訓練や安全意識の向上訓練、また対地接近警報の安全装置を機上に搭載する等の改善を実施したとしています。また日本の援助で設置したレーダーの運用開始によって安全性が増すとも言います。

これまでの事故の状況を見ると、これらの措置では乗り越えられない山岳地域の厳しい地形と気象の問題を軽視することはできないと思われます。数年前事故の多いルクラに飛んだ時のことです。飛行場のある狭く急峻な谷間は厚い雲に覆われています。パイロットは雲の切れ間を探して谷をさかのぼります。雲の下の滑走路を見つけるためです。ポカラでも空港へのアプローチ時に視界が悪く山に激突しました。タプレジュンのヘリの事故も同じです。ジョムソンでは強風による事故が続いて起きています。

技術や安全意識や安全装置は必須条件としても、航空会社の安全な運航を励行する経営方針の再認識が求められる問題かと思われます。『事故ゼロ』が当たり前なのです。

(スガジイ)

2018年2月9日金曜日

2月9日


2月に入って暖かさを感じるようになりました。春がすぐそこまでやってきたようです。湿度も上がってきたと見えて、盆地周囲の山がかすむようになりました。シバラトリ祭、ホーリー祭を過ごして初夏になります。トレッキングの虫が騒ぎ始めるのもこの頃です。

126日にエリザベス・ホーリーさんが亡くなりました。94歳でした。日本の古い登山家からは「ホーリーおばさん」と呼ばれ親しまれていました。私は1973-75年に日本大使館で登山担当をしていたので、登山隊のインタビューにずいぶんと付き合わされました。75年の田部井淳子さん率いる女子エベレスト隊の登頂後には、女性初の登頂ということで内外記者の会見の場を設けるようアドバイスを受け、その結果世界中にビッグニュースが流れました。

ホーリーおばさんは1959年にタイムライフ社の特派員としてカトマンズを訪れ、翌年からカトマンズに在住され、のちにロイター通信の特派員をしています。ネパール人ジャーナリストのメンター的存在であり、ネパールのジャーナリズムの基礎を作った人と称賛されています。とりわけ登山には多くの関心を割き、60年代から80年代にかけて彼女の取材を受けなかった登山家はほとんどいないといってもいいでしょう。ヒマラヤ登山のデータベースは膨大かつ詳細なものであり、「ひとり所長ヒマラヤ登山研究所」といわれていました。

また1953年にエベレストに初登頂したエドモンド・ヒラリー卿が1960年代半ばに設立したヒマラヤ基金の運営を手掛け、クンブ地方に病院、学校、橋等の建設や植林、シェルパの子弟への奨学金事業等を実質的に切り盛りしました。
観光分野では、1965年にジョン・コプランがネパールで初めて建設したエコ・ツーリズムあるいはアドベンチャー・ツーリズムの拠点ロッジであるチトワン国立公園のタイガー・トップスの経営にも参画し、山岳ツーリズムと並ぶネパールの新しい観光分野を開拓しました。

私がお会いしたのは2003年のエベレスト登頂50周年レセプションが最後かと思います。若い時と変わらずに旧知の登山家たちを次から次と取材していました。その30年前にカトマンズの街を淡いブルーのWVビートルを自身で颯爽と運転していた姿と鮮明に重なりました。

ご冥福をお祈りします。

(スガジイ)

2018年2月2日金曜日

2月2日

確定申告の季節です。支出を眺めていると前期までなかった項目に気が付きます。医療関連費です。今までは年に一度の健康診断と、せいぜい花粉症の耳鼻科費用程度でした。団塊世代の高齢化とともに医療費が目に見えて膨らみ、国の社会保障費用が急増するのが容易に理解できます。日本の高度成長経済を支えた労働力であった私の世代も、歳をとると厄介視されるようになります。

先日、シャワーを浴びていて足音を滑らしバスタブの外のタイル床に頭をしたたかに打ってしまいました。バスタブのふちがテコの支点になって受け身をとれなかったこともありますが、とっさに対応する能力が衰えていることも事実です。

以前八ヶ岳登山の経験を書きました。若い時なら何ともない登山道であったはずです。歳をとって足腰が弱ったためにバランスが不安定になって、その上に反射神経が鈍くなったために自信を喪失したことが恐れにつながったのでしょう。老いを感ずる今日この頃です。
そんな時インターネットのニュースのYouTubeで動画を見ていると、往年のフォークグループ『かぐや姫』の復活コンサートがあるではありませんか。1973年の大ヒット曲「神田川」をはじめ、大好きな「妹よ」「おもかげいろの空」「僕の胸でおやすみ」を口ずさみながら夜中まで楽しみました。南こうせつ、伊勢正三、山田パンダ、懐かしい顔ぶれは、70年安保が終わり全共闘運動が収束しつつあった時代です。

大学に入って東京で暮らし始めると、キャンパスが都心にあったこともあり、政治運動の洗礼を受けることになります。既成左翼政党による「反エンプラ闘争」、市民団体による「べ平連運動」、左翼=平和主義で進歩的の印象に共感したものです。半面、プロの運動家の言葉のウワスベリに不快感も覚えました。私にとってサヨク運動はエスタブリッシュメントに対する心情的反抗でした。

キャンパスが全共闘によってバリケード封鎖され、親しい友人も立てこもっていました。そんな状況下で1969年に『五つの赤い風船』が歌った「遠い世界に」があります。「遠い世界に旅に出ようか」で始まり「明日の世界を探しに行こう」で終わります。暗い情念が覆うような時代に海外渡航の夢をともしてくれた歌でもありました。

(スガジイ)