2023年5月3日水曜日

逍遥 呪術師のこと #169

 

呪術師のこと

 

朝気持ちよく起床できる季節になった。我が家の庭には妻が丹精した花がここぞとばかりに咲いている。夏ミカンの花が初夏を感じる強い芳香を放っている。5時には明るくなり、野鳥のえさやり、プランターの野菜、鉢植えの草花への水やりも苦にならなくなった。

 

実は2月に太ももにしびれが出て、3月には腰が痛くなった。4月にゴルフを一緒にプレーした友人は、同じ症状だが整体治療で治したという。坐骨神経痛とのことである。かかりつけ医の紹介で整形外科に行く。レントゲンやMRI撮影の結果、椎間板ヘルニアとの診断であった。整体治療では治らないという。

 

曽野綾子のエッセイ「貧困の僻地」にモザンビークの呪術師の話がある。PKOで駐屯している自衛隊医務官との話で、医務官は現地の患者は自衛隊診療所には多分来ないだろうという。医者にみせるより呪術師のところへ行くのだそうだ。

 

この話を聞いて50年前のオカルドゥンガ郡ルムジャタール村でのある日のことを思い出した。19726月にこの村を訪問して調査の地と決めた。テーマは農地制度であった。ラムサンゴまでバスに乗り、7日かけて着いた村はまさにタール地形(段丘)の豊かな村であった。帰途はスンコシを渡り、ウダイプール郡カタリ村から乗り合いジープでオフロードをジャナカプールに出て長距離バスでカトマンズに戻った。8月に再び村に入り翌年8月まで住み着いた。

 

まだ電気もない時代である。オカルドゥンガバザールまで徒歩で2時間、そこからユナイテッド・ミッションの診療所があるテカンプールまで1時間かかる。診療所には伊藤先生夫妻とお子さん3人がいらして、時おりお邪魔しては日本語を話すことで癒された。オカルドゥンガバザールには毎土曜日にハート(定期市)が開かれ、観察がてらしばしば買い物に出かけた。

 

ルムジャタールはグルン族が先住のライ族を追い出して定住した村である。プリトゥビ王がカトマンズ盆地を征服したときに、その手勢が勢い余ってか東部に進出してオカルドゥンガ郡のほか東隣りのコタン郡の3集落に定着した。母語のグルン語はすっかり忘れ去った。パルバティヒンドゥ―やネワール商人が少数住んでいる。

 

村のグルン族はネパールの五大美人と唄に歌われている。ビレンドラ国王にはお兄さんがいることはあまり知られていない。王宮に仕えていたグルン娘にマヘンドラ国王が生ませた子である。この人はカトマンズに住んでいたが、村人はラニ・サーブと呼んでいた。お住まいを訪ねたことがある。品のいい顔立ちと振る舞いが印象に残っている。

 

ある日、村一番の器量よしがなくなったという噂が広まった。熱が出て下痢が始まり、3日寝込んでなくなったという。家族は何の手当もしなかったらしい。死をすんなりと受け入れる人たちであることをこの時知った。

 

私が間借りしていたグルンの敷地の家作にネワール族の未亡人と母親が暮らしていた。ご主人はグルカ兵としてインド軍に加わり、印パ戦争で亡くなったという。弔慰金も年金も受け取ったためしがないと憤るが、今も昔も途中で消えてしまうのは変わりない。ロキシー(ネパール焼酎)をつくって生計を立てていた。私も上客の一人である。

 

この母親の容体が悪くなった。私は背負子に石油缶を付け毛布を敷いて伊藤診療所に担いで行くことにした。しかし母親は頑としてこれを拒んだ。「病院に行くと殺される」のが理由と分かった。村のヘルスポストにはほとんど薬がなかった。村人は危険な様態になって初めて病院に担ぎ込む。病院に着いたときは手遅れが多いのだそうだ。病院で死ぬ人が多いので「病院は死ぬところ」と決めつけられる。今では郡ごとに国営の病院があるが、当時はそうではなかった。

 

翌日いわゆるジャンクリ(祈祷師)が来てお祈りが始まった。呪文を唱えて太鼓をたたく。卵で体をさする。母親は気持ちよさそうに身をゆだねている。翌日会うとしゃきっとしている。今でこそヒーリング効果というのだろうが、当時はドクターサーブよりジャンクリの信頼が厚かった。

 

祈禱が終わって謝礼として出されたロキシーを飲んでいた。私もご相伴にあずかり世間話をしているうちに、ジャンクリ氏は突然椅子から転げ落ちて、そのまま寝てしまった。よほど身を入れて祈祷をしたのだろう。エネルギーを使い果たしたようだ。

 

202353日)