2020年12月9日水曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #152

 キャプテン ウイック

 

ぐずついていた天気が立冬を境に秋らしくなってきた。妻、娘、ニマと山梨へ小旅行した。勝沼のぶどうの丘の楡の大木は見事に紅葉していたし、河口湖では湖畔の楓の並木がおりしも赤く染まって紅葉祭の最中であった。本栖湖の周回道路はまさに色づいた木々のシャワーを浴びているようだ。

 

我が家の庭のつわぶきの花が盛りだ。柿の収穫が始まる。夏の少雨で出来具合を心配したが形も良く甘みも強い。家の門において通りがかりの人に持って行ってもらう。山から下りてきた野鳥は熟した実をつつく。

 

ネパール在住の皆さんは今年のティハール祭をどのように過ごされただろうか。街はイルミネーションで華やいだだろうか。バイティカには兄弟姉妹が集まっただろうか。地方出身者がダサインにしても今年は帰省をためらったと聞くと、いつもの年のようではないさみしさに沈んでいないか心配になる。お祭り好きのネパール人はコロナ禍もこの時ばかりは忘れていつもの振る舞いに戻ったような気がしないでもないが。

 

日本ではお祭りが相次いで自粛中止されている。当然ながら人々のフラストレーションが高まる。景気浮揚対策の「Go to トラベル」には多くの人が久しぶりの気が晴れる旅行を楽しんだことだろう。観光地はどこもにぎやかである。

 

とはいっても田舎に住んでいる私はコロナ感染の衰えない都会に出るのは気が進まない。近場のドライブやゴルフを楽しむ程度がせいぜいである。街で一軒だけになった本屋が近所にある。中古本も扱っており、時々興味を惹かれるものが出ている。加藤寛一郎「生還への飛行」(講談社1989年)を手にとった。

 

著者がスイスのピラタス社にテストパイロットのエミール・ウイックを訪ねた時の話だ。本社での肩書はプロダクション・テスト・パイロット。ネパールで仕事を始めたのは1960年のスイス・オーストリア隊のダウラギリ登頂支援の時からである。ネパールでは道路より飛行場建設の方が先に始まった。今では自動車道路が各地にできたため、山地部では捨てられた滑走路や定期便の飛んでいないものが多くなったが、196090年には単発機のピラタス・ポーターや双発のツインオッターが活躍している。

 

私が19723年にかけて農村調査をしていたオカルドゥンガ郡ルムジャタール村に滑走路があり週に一便ピラタス・ポーターが飛んできた。パイロットはウイックとあと一人若い西洋人がいた。普段は滑走路が牛やヤギの放牧場であり、飛行機は滑走路を低空飛行して、まず牛たちを追い払う。航空母艦のタッチアンドゴー訓練のようである。飛行機の爆音で村人が滑走路に集まってくる。着陸して停止すると飛行機を取り囲む。パイロットにお茶が運ばれる。便宜を図ってもらうためにご機嫌を取るのである。若いパイロットは集まる村人を怒鳴りつけて飛行機から離れさせるが、ウイックは冗談を言いながらご機嫌でお茶を飲む。村人はもちろんウイックびいき。カトマンズの知り合いに小包や手紙を託すのである。

 

著者は単発のエンジンが止まったらどうするのか質問する。一度あるそうだ。インドのガヤ上空でエンジンが停止。「エンジンはかからなかった。視界は悪かった。しかし、かろうじて着陸できる、小さなクリーク(小川)を見つけた」「ものすごいサーマル(上昇気流)だった」「吹き上げられた、高―く。……。そしたら遠くに細いストリップ(滑走路)が見えた。……。行きついたよ、ガハハハハ……」

私も副操縦士席に座ったとき彼に聞いた。「今エンジンが止まったらどうする?」「あの下の田んぼに降りるよ、ガハハハハ」 山地の狭い棚田である。もちろん冗談だ。

 

「結局あなたは生き延びた。何故ですか」「絶対にあきらめなかったからだ」「と言うと?」「私は6000メートルの氷河に42回着陸した」「それで」「43回目にクラッシュした」 1960年のダウラギリ遠征隊の時である。私はランタンの氷河の遊覧飛行で乗せてもらった。一杯ひっかけているのではないかと疑るほどの赤ら顔である。とにかく陽気な男である。よくしゃべる。氷河にさしかかると「みんな酸素を吸ってくれ、もちろん俺も吸うよ、キャプテンが目を回したらシャレにならないからな」

 

1978年の写真が掲載されている。お茶を飲みながら誰かと話している。冗談話に違いない。

 

20201128日)