2019年12月20日金曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #131


子どものためのノーモア失明プロジェクト日誌(1
一昨年の12月に岡山のヒカリカナタ基金、東京のヤマト福祉財団とカトマンズのプロフェッショナル・サポート・サービス・ネパール(PSSN、代表:カトマンズ医科大学眼科サビナ・シュレスタ教授)の間でネパールの子どもの失明防止対策のプロジェクトの合意書を結んだ。直近の活動を日記で紹介する。

1017日 13日のフライトが台風でキャンセルになり、危なくアイキャンプに遅れるところ、航空会社の尽力でカトマンズに滑り込む。
1019日 バグルンで第2回のアイキャンプ。カウンターパートのPSSN からはカトマンズ医科大学(KMC)のサビナ教授、ディクチャ講師他4人、日本側はヒカリカナタ基金2人、ヤマト福祉財団1人が参加。学校は秋季休暇中ながら、ロータリークラブの協力があり学校単位で受診。地元ボランティアも協力。260人受診。
1020日 アイキャンプ2日目。この日も260人受診。眼鏡がいるような弱視、近視の子どもがなんと63人。異常に高率。地方都市部のテレビ眼、スマホ眼?
1021日 ポカラ「さくら寮」でJNFEA〈おなご先生〉の年次フォローアップ研修を延長していただき、大学教師陣による『生徒の目の健康に関する教師の役割』講義と実習。
111日  ルクムから片目失明の少年2人、サリヤンから4人来院して検診。
113日  ルクムの少年1人の眼球摘出手術。サリヤンの全盲の少女レカをロカンタリの子ども耳鼻咽喉科病院(CHEERS)で検診、そのままリハビリ科に入所。この子は家族にしか心を開かない障害がある。
115日  眼球摘出の少年に昨日仮義眼装着。6週間後に本義眼を入れる。もう一人は眼孔が委縮しているため6週間後に拡張手術をする。レカの父親が帰村。
116日  カトマンズ発。バグルンでロータリークラブ会員にアイキャンプの結果報告。
117日  ミャグディ経由でムスタンのノウリコット村へ。悪路に悩まされる。〈おなご先生〉ガンガの学校で子供の眼の相談受ける。コバン村の学校からも相談に来る。ノウリコットはタカリ族の3氏族の墓所。多くが都市部にすむタカリーも死んだらここに帰る。夜はタサン名物のウワ(裸麦)のロキシーとチュルビ(カテッジチーズ)の揚げ物、キノコの炒め物でいい気分に。しめはそばのデュロ(蕎麦がき)の本場タカリ料理で満腹。
118日  早朝、カリガンダキ対岸の村から母親に連れられた少年が相談に来る。斜視で弱視。2時間かかった由。朝食のチベッタンロティ(揚げパン)を分けると嬉しそうに頬ばる。総勢18人の患者をKMCに呼ぶことにする。
119日  バグルンのカトマンズで治療を要する子どもと親の説明会を開く。1時間半遅れて3人しか集まらず。全員出席の返事があったもののどういう訳?夜はポカラで海外青年協力隊(JOCV)隊員と一献。
1110日 カトマンズへの帰路ゴルカに立ち寄り、JOCV隊員赴任校2校で校長はじめ教員にプロジェクト説明。うち一校で2人の視覚障害児がいること判明、後日カトマンズに呼ぶことにする。この縁で、後日ゴルカの他校とシャンジャの学校から診察の申し込みがあり。JOCVネットワークは強固。
1111日 CHHERSへレカの様子を見に行く。母親は明日帰村するという。一人で集団生活することができるようになったのか。訓練士はさすがにプロである。眼の診察は相変わらず拒否している。

20191216日)

2019年12月3日火曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #130


ネパールに生きた異人たち

海外で活躍している日本人のなかに、日本の社会の枠組みの中で生きるには窮屈であろうと思われる人たちに出会うことがある。ネパールに生きた異人たちにお付き合いいただいた。異能と計り知れない志を持った人たちである。

今週亡くなった宮原巍さんはネパールの山岳観光を切り開いた人で、メディアでもたびたび紹介されている。複数のホテルの建設と経営ばかりでなく、ネパールの国政選挙にも自らの政党を立ち上げて、ネパール社会の変革を志した。1960年代にネパール政府の工業局でご一緒だったネパールの方からは葬儀の時若き日の宮原さんの話をうかがった。

宮原さんの業績の最たるものは「ホテルエベレストビュー」の建設であると思う。1970年代初め、エベレストを正面に見る道路もない4千メートルの高地にあれだけの建物をつくる苦労は想像を絶する。メインロビーの大きなガラス板を人力で運び上げたわけだが、強い風の中でのクンブの強力の体力と忍耐力には敬意すら覚える。

その宮原さんと初めてお会いしたのは、19735月に標高4,200メートルのペリチェの少し下であった。宮原さんはお客さんを連れて下ってき、私はオカルドゥンガ郡ルムジャタール村での農村調査に飽きてヒマラヤを見に上ってくる途中であった。まだトレッキングという言葉がなかった時代である。それから40年以上のお付き合いになるとは夢にも思わなかった。

7月に日本で胃がんの手術をして10月初旬にネパールに戻られた。終焉の地をネパールと決めておられたのではないかと思う。ホテルのあるシャンボチェで荼毘にふされた。最後まで見事な人生であった。

外務省OBの菊池法純さんをご存知の方もカトマンズでは数えるほどになった。9月に亡くなられた。山形の鶴岡の寺に生まれて、仏教系の大学を出て外務省に入省した。デリー大学に留学した「インド屋」である。その後カトマンズに転身され、私がお世話になったのは在ネパール大使館勤務時代である。大使ほか外務省職員3人と期間限定職員の私のこじんまりした公館であった。

菊池さんのネパール語は絶品で、ネパール詩の吟詠には聞きほれた。外交英語の機微な表現を教えていただいた。酒を飲むと軟らかくなる人であったが、翌朝5時の個人教師を招いてのチベット語の勉強は欠かしたことがなかった。国交のなかった時代から、在ネパール大使館は中国、チベット情報の貴重な収集機能を有する公館であった。

何よりも私の財産になったのは、菊池さんの多方面にわたる人脈をもらい受けたことである。退職後もネパールの人脈を駆使しての情報収集・分析は精度が高く、在野に置くのがもったいないほどであった。仏教団体への寄稿は専門知識を駆使し余人の追従を許すものではない。

秋田吉祥さんと親しくなったのは、私がもっていたジャズピアニスト〈チック・コリア〉のCD数枚を譲ってからであった。この人も大阪の寺の生まれで、仏教系大学に入るが中退してジャズピアノを始める。ネパールで唯一ピアノの調律ができるほど音感の優れた人で、ネパールの歌曲の採譜をしたりした。

絵画の才も優れたものを持っていた。自ら仏教画〈タンカ〉の工房を立ち上げて、伝統技術の継承に努めた。市中の土産物で売っているあまりに教義を無視した「商品」に危機感を抱いたものと思われる。細かい顔の表情まで気を配った精緻なタンカを日本の寺や好事家に提供した。

もっとも秋田さんらしいといえば、著書「タライのうた」に表現しているタルー族の民家に描かれている民族伝統の絵画を訪ねる旅であろう。タルー族は南の平地部タライに東西に広がり暮らす伝統民族で、気持ちの温かい人たちである。この民族の気質が秋田さんにはすっと心に溶け込むものがあったのだろう。両者の交流はほほえましいものを感じさせる。

このような異彩を持った秋田さんが僧侶になっていたら、宗教のわくをこえて寺を運営したのではないかと想像すると楽しい。「才僧吉祥」である。

今週、カリコットの貧しい村を歩きながら、異人たちの生きざまを思い浮かべ、もし私が今とは別の生き方を選択したとすればどんな暮らしをしていただろうと考えた凡愚であった。

2019123日)

2019年11月19日火曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #129


アイキャンプ in バグルン

10月も半ば過ぎとなるのに天気がすっきりしない。バグルンのバザールから見るダウラギリ主峰は雲に見え隠れしている。朝方は小雨がちらつく。

昨年のダディン郡の二校に続き二回目のアイキャンプである。子どもの失明防止対策を目的に、201712月にNPO法人ヒカリカナタ基金、公益財団法人ヤマト福祉財団とネパールのProfessional Support Service Nepalとの間でプロジェクトの実施合意書が調印された。私はプロジェクトの企画立案、学校を中心とした村での啓もう活動、患者の病院での治療の手配、カウンターパートとの調整を行っている。

今年のアイキャンプはダサイン祭休暇明けにバグルンで実施した。日本の組織からは竹内さん、伊達さんと望月さんがそれぞれ参加した。ネパールチームは眼科医他専門家6人である。16歳以下を対象とした。まだ学校が秋季休暇中で、生徒が集まるか心配したが、地元のロータリークラブが学校単位で広報活動をしてくれたおかげで、幼稚園児から10年生まで520人が受診した。受け付け、会場整理、視力検査などは20人のロータリークラブのボランティアが手伝ってくれた。

カトマンズ医科大学(KMC)で再検査、要治療の子どもが7人いた。キャンプの後バグルンに出向いて説明会を開くも3人は参加しなかった。現地の世話人によると「これがネパールなんだな……」と意に介さない。鉛筆の芯が下瞼に刺さって4か月もほっておいた子どもはさっそく摘出手術をした。大きな芯が出てきた。眼球に届いていなかったのが幸いである。キャンプがなければほっておかれただろうと思うとぞっとする。10歳の女児は先天性白内障であるが、眼鏡を供与して3か月様子を見ることにする。斜視の女児は自ら説明会に参加して手術を申し出た。気丈なものである。

日本ネパール女性教育協会(JNFEA)の育成した100人の「おなご先生」の話はすでに本欄で紹介した。年次のフォローアップ研修の機会を一日いただき、キャンプに参加したKMCの教授、講師諸氏に眼のケア―における教師の役割を講義してもらい、視力検査等の実技を講習してもらった。離村の学校で教鞭をとる彼女たちは本プロジェクトの貴重な情報源なのである。講習後帰村した数人から早速情報が寄せられ、ムスタン郡のノウリコットに出向いた。「おなご先生」は講習で習得した検査をさっそく実施する。近隣の学校からも集まってもらった結果18人をKMCに送ることにした。11月下旬にはルクム、サリヤン、カリコットとバルディヤの学校を訪問する予定である。

この研修には海外青年協力隊員が参加してくれた。ムスタン郡の帰りにゴルカ郡の彼らの赴任している学校を訪問したところ、校長はじめ教員が真剣に当方の説明を聞いてくれて、さっそく4人をカトマンズに検診に連れてくることになった。協力隊員の学校における貢献度、信頼度は大変高く評価されていることがわかる。ゴルカ郡訪問の前日にはポカラでコミュニティ開発隊員にポスターや視力検査表、眼科ケアーの教員マニュアル等を提供して協力をお願いした。協力隊員も「おなご先生」同様の我がプロジェクトの強力な情報網なのである。公費で派遣されている彼らを使うようで気が引けるが、彼らの本来の活動に本プロジェクトが何等か資するとすれば幸いである。

二年目も終わろうとしているプロジェクトであるが、ネパールにしては異例の速度で情報網、協力網が整備されつつある。プロジェクトの趣旨をご理解いただきありがたい限りである。村落医療の立ち遅れたこの国の人たちにわずかでも光が届けられればと微力ながらお手伝いする次第である。

20191112日)

2019年10月28日月曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #128


箱根湯坂路

9月の一日、箱根の湯坂路を歩いた。芦之湯から湯本まで下り3時間のハイキングだ。ところどころに古の石畳が残る。鎌倉古道とも言い慣わされた東海道の幹線道路であった。

平安以前の東海道は御殿場から足柄峠を越えて今の南足柄市に出るルートで足柄路(矢倉沢往還)であったが、延暦2年(802年)の富士山の噴火によって閉ざされたために新たに開拓されたのが湯坂路である。翌年には足柄路が復旧したが、距離の短いこの道が使われ続けた。徳川幕府によって須雲川沿い畑宿経由の箱根旧街道が使われるようになるまで、長い間交通の要所であった。

この道は若葉の季節や紅葉の頃に歩くのがいいと思う。樹相はいずれも人の手が加わった二次林であり、うっそうとしたスギ林に椿、楓が植えられている。年月のたった木々は自然に溶け込んでいる。展望が得られるのは鷹ノ巣山と浅間山の頂のみで、あとは森林の中を緑を浴びながら下る。

湯本温泉におりて駅前の商店街を歩く。平日ながら観光客で大変な賑わいである。箱根の特徴は外国人が多いことだが、箱根町役場に勤めていた同級生は、多くの外国人は一泊2,900円の民泊に泊まるエコノミーな旅行者で、旅館は潤わないという。それでもすそ野の広い観光産業は町に多くの価値を生み出すはずである。最近の熱海の賑わいの復活も話題となっている。二大観光地に挟まれたわが湯河原温泉はさびしい限りである。観光業に携わる人たちに危機感が感じられない。私はしっとりとした風情の湯河原が好きなのである。
             
遅い昼を食べようと蕎麦屋に入った。日本酒をとってつまみに蒲鉾を頼んだ。この蒲鉾がしっかりしていておいしいのである。蒲鉾は小田原の名産で、数多くある店のそれぞれの味がある。我が家でも練り物を求めるときには「○○や」の「○○揚げ」等のこだわりがある。蕎麦屋のばあさんに思わず「どこの店の?」とたずねると、よくぞ聞いてくれたといわんばかりに「土岩」です。ちなみに、この店の一押しはとろろそばである。

ほろ酔い気分で箱根湯本から登山電車に乗って二つ目の大平台で降りる。今宵はこの温泉場で湯河原小学校62組のクラス会が開かれる。今回は13人が集まった。お互いの呼び方は少しも変わらずに、○○ちゃん、○○坊である。子どもの頃の思い出話が中心だが、実感ある成果が見えない地域の再生の話も盛り上がる。住む町の問題点がつまびらかになる。夜遅くまで飲み続けた。面倒見のいい世話人がいるのでこの会はまだまだ続くであろう。

20191011日)

2019年10月15日火曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #127


シルガリドティ

913日からネパールに10日間の出張だった。極西部のドティ郡に行った。郡庁所在地のシルガリである。合併後はディパヤル・シルガリ市となった。シルガリは18世紀にシャハ王朝がネパール全土を統一治世下におくまで西部24土侯国の一つであった。ディパヤルはセティ川の段丘に比較的新しく開けた街であり、ドティの経済中心である。以前は極西地域のヘッドクオーターがおかれていたが、憲法改正後はその地位をダンガリに奪われた。

新しい街並みは南斜面のアッチャム郡、バジュラ郡に抜ける幹線沿いに広がっているが、バザールは急な狭い尾根筋にある。この国の山地に共通するまちづくりである。シルガリも土侯国のころから変わらない目抜き通りであり続けているのだろう。中心部には大きなお寺がある。ラージャの住まいは上部にあったという。

NPO法人日本ネパール女性教育協会(JNFEA)は全国に20か所あるフィーダーホステルのうち、カピルバストゥ、ジュムラおよびドティの3か所を定めて、これらを卒業した教員への給与補填とホステル建物のリノベーションを支援するプロジェクトを昨年立ち上げた。フィーダーホステルは教育省が遠隔地の女性教員養成のために設置したもので、学費、旅費、食費等すべての費用を公費で賄い、周辺の郡から選抜された学生が生活する。1971年に始まったこの計画は、ユネスコ、ユニセフ、国連開発計画(UNDP)およびノルウェ―の支援を受けている。

私はホステルのリノベーションを依頼され、カピルバストゥとジュムラはすでに完成した。ドティではプロジェクト実施の合意がなされておらず、この度市長と折衝した。市長の了承を得たのであるが、バジャン、バジュラ、アッチャムの3郡からの学生がいるところ、ティハール祭後に4郡会議を開いてコンセンサスを取り付けることとした。

JNFEAが先の「さくら寮プロジェクト」において12年間で養成した{おなご先生}が100人に上ることはすでに小欄で紹介した。ドティ郡には6人の「おなご先生」がいる。そのうちの一人スリジャナの嫁ぎ先を訪ねた。バザールの通りにあるので古くからの家なのであろう。近くの小学校の先生を続けている。彼女はアッチャム郡の出身である。

ひと月前に二人目の娘を出産したばかりだ。顔色が優れないのは産後の肥立ちが悪いためかと思ったがそうではないという。妊娠中に超音波で母子健康の検査を行ったところ、胎児が女の子だと分かった。男の子を欲しかった夫は堕胎を強要したが、スリジャナはせっかく授かった子を殺すわけにはいかないとして生んだ。それ以来夫との仲がうまくいかず落ち込んでいるという。

わたしはてっきり舅、姑、小姑から精神的虐待を受けているものだと思っていたが、夫とは意外であった。経済的にも困っている家庭ではない。私の若い時の友人で七人姉妹を知っている。跡継ぎの男の子がついに生まれなかったのである。最近は村でも子供の数は2人であるという。スリジャナの夫は子供の数にこだわったのだろう。離縁されるかもしれない危機を顧みず母性を主張したスリジャナの勇気をたたえたい。そして夫婦が心を通じ合うことを願う。

短い出張から自宅に帰ると、銀木犀が匂っていた。

20191010日)

2019年9月24日火曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #126


夏の味

今年の夏はなかなか暑くならなかった。セミの幼虫がはいでた穴も庭に少ない。蝶々も遠慮がちに舞っている。やっと暑くなったともおもったら、もう広島と長崎の原爆忌がきて立秋となった。蝉もヒグラシがなき始め、トンボの群れも顔を出し始めた。

今日は盆の入り、我が家では迎え火を焚いて父母と息子の霊を迎える。旧い家では精霊棚を軒に釣るが、我が家では簡素に仏壇の前に真菰を敷いて盆棚を作る。キュウリやナスで作る馬、牛もスーパーで買ったわら製で間に合わせる。昨日はお墓の掃除に行ってきた。お寺さんにはお布施の習慣がる。物知りによると、夏安吾が終わった解夏に僧職者に施食をする習慣が金銭になったものであろうという。わが町では子どもの頃の灯篭流しは環境保全の理由で禁止されている。
  御仏はさびしき盆とおぼすらん (一茶)
  
もう一つの夏の慣いのお中元であるが桃をいただいた。産地はそれぞれ岡山、長野、山梨である。繊細な肌、甘い香り、どうしたらこんな完璧な果実に仕上がるのだろうか。生産者の心遣いと丹精込めた技に思わず感謝の気持ちがわいてくる。傷みやすい商品ではあるが、今の物流技術をもってすれば日本を代表する輸出品目になるに違いない。

沖縄からはマンゴーが届いた。今年はネパールで食べ損ねたので諦めていたが思わぬ贈り物であった。沖縄のマンゴーもまた品種改良を重ねたものと思われる。ネパールのマンゴーも香りや甘さでは引けを取らないのであるが、食感で劣る。すじが多いのである。こんなものかと長い間楽しんでいたが、沖縄種の滑らかさとは格段の差異がある。ネパールでこのような品質に仕上げれば中東産油国への輸出も夢ではないのかもしれない。

日本では野菜は一年中出回っているが、夏野菜の旬を逃す手はない。近くのスーパーの野菜売り場には町内地場物のコーナーがあって生産者名を付けてある。5-6人の生産者が常連であり、かつて一方の主力産業だった農業生産者が減ってしまったということであろう。

我が家は近所の自家農園の栽培者の採れたての野菜をおいしくいただいている。トマト、キュウリ、ナス、ゴーヤ、モロッコインゲン等々。トマトは木で完熟させるので本来の味がする。いかに流通が短縮されたといっても朝採りにはかなわない。次にいただくのが待ち遠しい。

一方、ネパールは農業国でありながらインドからの野菜の輸入が年々増えている。インドの生産技術が向上したことがある。国境を挟んだビハールの野菜生産量の向上に伴い、ウッタールプラデシュが続いている。品質が格段に改善されたのである。日本の農協のような組織をもたないネパールの生産者は「ひと、もの、かね、情報」から遠い場所にいる。政府の政策を現状に対応させる必要があるし、農業指導員の人材育成が急務であろう。国家計画委員会の中期計画も毎年の予算教書も政策を個々のプロジェクトに落とし込めていない。官僚の現場のイマジネーションが現実とすれ違っている。

2019813日)

2019年9月11日水曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #125


みんなで渡れば怖くない

先日、日本の運転免許証の更新をした。警察署で申請、視力検査、写真撮影して30分余りで交付となった。なんとも行政のサービスがよくなったものである。有効期限が3年に短縮されている。

70歳以上は事前に自動車教習所で実技と講習を受けることが義務付けられた。この講習がなんと3か月待ちなのである。行ってみると、私たち講習生のほかの一般講習生の車が一台しか動いていない。この講習をすでに受けた友人から、教官が威張り腐っているから喧嘩っ早いお前は辛抱しろと忠告があった。私は1973年にネパールで免許証を取っているので、教習所の経験がない。覚悟して臨んだが教官は当方をお客さん扱いしてくれる。一時停止で止まり損ねても、縁石に乗り上げても、試験ではないので気楽にとアドバイスする。70歳以上の講習制度が教習所の救済策に思えてくる。

信号機のない横断歩道における歩行者優先についての実態調査の結果が発表になった。2018年の車の一時停止率が全国平均で8.9%である。最優良県が長野で58.6%、ではワーストは?栃木県の0.9%だった。私の住む神奈川は14.4%、体感温度からまあこんなものかという感じ。タクシーは多くが止まるが、一般車はほとんど通過する。

この停止義務は道路交通法で定められている。違反すると「横断歩行者等妨害等違反」で青切符が切られる。普通自動車で反則金が9,000円である。横断歩道のないところの横断者も同様に保護されている。知らなかった。

さて、カトマンズはどうだろうか。このような法令があるかどうか知らないが、まず車は止まらない。主要な交差点には横断歩道があり、交通警察が整理してくれる。一時横断歩道を渡らないと罰金を取られたが、数週間でやめてしまった。歩行者から苦情がでたためという。横断歩道が少なすぎるのである。以前あったと思うところに今日はなくなっている。

勢い歩行者は車の合間を縫って横断せざるを得ないことになる。車は決して止まらない。車優先の習慣はどこから来るのであろうか。多分車を持っているほうが社会経済的に「えらい」のであろう。圧倒的な格差社会なのである。

そういえば運転手は昔「ドライバーサーブ」と呼ばれていた。サーブとは目うえ、格上の人につける「旦那」という称号である。最近は「グル」あるいはもっと丁寧に「グルジ」と呼んでいる。グルは学校の先生や宗教の尊師に使う。機械装置が少ない時代、古くて故障しやすい車を路上で直してしまう技術を評価していた名残であろう。

これからの自動車は燃料としての電気や水素、安全運転としての自動化が主流であるが、このところ日本では高齢者の痛ましい事故が続発している。昨日トヨタが発表したのは、高齢者にありがちなアクセルとブレーキの踏み間違えから守る装置である。小さな地方企業が開発したという。前後の距離を感知して自動的にブレーキがかかる装置も普及しつつある。

ネパールでもバス等大型車の事故が毎日のように報じられている。バスの事故は、屋根にまで乗せる重量超過によるものや夜行バスの居眠り運転が多い。故障車の事故も減らない。安全装置付きの自動車を持ち込むといいようなものだが、故障したときにブラックボックスがあると手におえない。いずれにせよ運転は人間がすることなので、運転者が技術を向上させて、注意して運転するほかないのであろう。

2019811日)



2019年8月27日火曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #124


カトマンズで出会った1970年代のすごい登山家達

自宅近くの「町」で唯一残った本屋で植村直己さんの「植村直己 妻絵への手紙」(文藝春秋)に出会った。ネパールからの手紙は2期にわかれる。初期は19743月から5月にかけてのものである。婚約したてのころであり、母校山岳部の依頼を断れずに翌年のダウラギリ5峰遠征の偵察を行った時期である。70年の日本山岳会のエベレスト偵察で越冬し、翌年登頂に成功して以来の訪ネであり、2-3年の間にカトマンズに車が増えたことを書いている。それとて、夜8時には人通りが全く絶えるような静かなカトマンズであったはずである。ダウラギリの偵察の様子はスケッチ入りの短文が、ジュムラからドルパ、ベースキャンプを経てポカラに戻る様子が目に浮かぶようで読んで楽しい。

私が植村さんと会ったのはこのダウラギリ偵察からカトマンズに帰ってきたときである。拙宅で食事をしてもらったが、とにかく無口な人で、今となって覚えているのはエベレストで高度順化が全く苦にならなかったということのみである。手紙にあるような婚約時の高揚した気持など全く見せなかった。筆まめな印象もない。

手紙ではこの時ダウラギリ5峰の登山許可がネパール政府から出たといっている。当時は日本山岳協会の推薦状が外務本省経由で在ネパール大使館に来て大使館からネパール外務省に許可申請が出された。私は大使館の登山担当であったのでこの手続きをしてネ側と折衝したはずであるが覚えていない。それよりも、同じ大学の建学100周年エベレスト遠征隊の推薦状が届き、すでに他の隊に許可が出ていたのを日本に変更するよう交渉しろとの強い要望があり苦労したが印象に残っている。当時は一山一季一隊の許可原則があった。

読売新聞の追悼抄に登山家の中世古直子さんの訃報があった。74年春季女性として世界で初めて8千メートル峰のマナスル(8163m)に初登頂を果たした。日本大使公邸で祝勝会が開かれ私は司会を務めた。中世古さんはあまりうれしそうな様子はなく、何かとっつきにくい感じがした。第二次アタック隊の鈴木貞子さんの遭難のためかと思ったが、記事の友人評で納得がいった。「恥ずかしがり屋で、皮肉や、気さく。とにかく面白い人だった」

75年春季にエベレストを女性として初めて登頂した田部井順子さんは一躍時の人となった。下山後の祝勝会はブリクティマンダップのポリスクラブで行われこれも司会をしたが、ネパールの登山関係者をはじめ各界の大勢の人がにぎやかに祝った。2年続けての快挙はカトマンズの日本人社会を大いに勇気づけたものである。田部井さんとはそれから長いお付き合いとなった。

75年秋季は隊員14人のうち11人が南面ルートで初登頂を果たしたカモシカ同人の高橋和之さんと夫人の今井通子さんとお会いした。この隊の副隊長である高橋好輝さんと2020年東京オリンピックのスポーツクライミングの指揮をとる日本山岳スポーツクライミング協会理事長の八木原國明さんはその後イエティ捜索隊でいらした。

石黒久さんは1973年秋季エベレスト初登頂を加藤保男さんとともに成功させた。8600m地点でのビバークは超人的な体力精神力で乗り切ったものと感激を覚えたものである。石黒さんとはネパールの開発プロジェクトでご一緒する機会があり、お互いに本職で汗をかいて楽しい3年間を過ごした。

1970年に三浦雄一郎さんがエベレストのサウスコルからスキーで滑降した映画は日本中を興奮させた。2003年に70歳でエベレストに登頂しカトマンズに帰るやいなやゴルフをしたいとのことでご一緒したが、その体力には驚かされたものである。日本人会で講演していただいたのもこの時である。

1970年代前半はこのように日本国内のみならず世界の注目を集めた登頂成功があった。その陰で登山中の事故で命を落とした人もいらっしゃる。大学の先輩の遭難事故処理もこの時期であった。領事事務担当として幾多の死亡証明や遺骨照明も作成した。大使館勤務は人生の光と影を否応なく見せつけられた2年間であった。

2019715日)

2019年8月11日日曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #123


その後のBuddha Boy

52日は仏誕節であった。Buddha Boy’の話である。200511月に、カトマンズの真南のインド国境のバラ郡ラタナプリ村で、釈尊の生まれ代わりという16歳の少年が6ヶ月間も飲まず食わずの座禅修行をしていると話題になり、仏教信者のみならず多くの人が参詣に訪れた。少年の額からは光が発せられているともいう。ジャングルの村は一変してバザールに変貌した。この少年は1989年生まれのラム・バハドゥル・ボンジョンで、出家後はパルデン・ドルジと呼ばれている。母親の名は、釈尊の生母摩耶夫人と同じマヤ・デビ(タマン)である。パルデン少年はインドとの国境の村でソム・バハドゥル・ラマのもとで修行に入り、ルンビニに続いてインドのウッタールアンチャル州のデヘラドゥンで修行した後帰村し、20055月に村のピーパル樹の下で座禅を始めたといわれている。
さて、人間が飲まず食わずに6ヶ月も生きられるのだろうか。普通の人間なら34日で脱水症状をおこして死亡するといわれている。このような下司の勘繰りをするのは筆者ばかりでない。ルンビニ開発基金や王立科学技術アカデミーは調査団を送った。政府の科学技術省も調査団の派遣を検討している。しかしながらいまだに何も解明されていない。夕の5時から翌朝5時まで彼の回りは囲いで隠されてしまうので、この間に食べているのだと想像されている。後に彼は、修業期間中は薬草を食べているといっている。
さて、この少年がふたたび話題になったのが、昨年311日に突如として行方不明になってからである。誘拐説、隠遁説等新聞紙上をにぎわせた。19日に3km離れた場所で仏教団体幹部たちが会った際に「この場所は修行するにふさわしい平和的環境にない。……6年したら戻るので心配しないで」といっていたという。そして、護身用の短剣を持ったパルデン少年は1225日に数人の狩人たちによって発見された。彼の修行の場はふたたび信仰目的の人や興味本位の人たちによって取り囲まれることになった。仏陀少年への喜捨が、マオイストに流れたとか少年の支援団体の銀行口座が当局によって凍結されたとかの生臭い話がついて回るのが如何にもネパールらしい。

以上は以前私が発行していたニュースレター「カトマンズ今日この頃 *ビスターレ・ジャノス*」第8号(20076月)のエッセイの一部であるが、520日づけThe Kathmandu Post紙にこのBuddha Boyが〈復活〉の見出しで久々に登場した。

Buddha Boy (Ram Bahadur Bomjan) は行方不明になっている5人の信者の家族から警察へ訴えられているという。また異論を述べる信者への暴行や、セクシャルハラスメントも訴えられている。警察は14日にシンドゥパルチョウク郡のアシュラム(修行場)を捜査したが見つからなかった。その後519日にシンドゥリ郡のアシュラムに大勢の信者とともに現れたのである。郡警察のトップは上部機関からの指示がないので何ともできないとしている。

Buddha Boyから14年たったボムジャンは30歳だ。新聞の写真を見ると端正な顔つきの大人になっている。数年前にインドで活躍しているタマン族の青年が投票でインドの一番人気のある俳優に選ばれたが、彼をとよく似た風貌である。多くの信者が集まるようである。聖者としてふるまっていく中で独裁者になってしまったのか。14年の月日が彼をどう変えていったのか興味深い。儀式化した既存の宗教では救えないものを求める人たちがいるということであろう。キリスト教への改宗者も多いと聞く。この国で急激に増大する経済格差も一因かもしれない。

2019615日)

2019年7月29日月曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #122


久し振りの異文化体験

ここ15年ほどは日本とネパールを行ったり来たりしている。それでもネパールでの新しい発見に事欠かない。会社時代には30か国以上で異文化の体験をしたのであるが、当然のことながらビジネス優先の出張であったので、駐在したトルコやインドネシアのほか5年間営業担当国であった中国以外はそれぞれの文化を考察する熱心さがなかった。

「カリブ海の花嫁」の結婚式で訪問したセントクリストファーネイビスへの日本からの道中で久しぶりに異文化体験ができた。移動手段としての航空機であるが、航空会社の国と時代によってビジネスの姿勢に変遷があり興味深い。欧米の航空会社は30年も前から輸送手段として割り切ったサービスが見られる。キャビンクルーの年齢層が高いのも特徴である。食事は腹を満たせばいいだろう程度である。そしてサービスの質とホスピタリティを謳ったアジア勢が伸びてきて、今では中東勢がこれに代わっている。価格競争の時代に「快適な空の旅」というようなキャッチフレーズはもう通用しないのかもしれない。

トロントのエアカナダのチェックインカウンターの職員は恰幅のいいインド系移民であった。不遜な態度は、自国以外で通用しないことを理解できないブラーマンカーストであろう。ずいぶんと古い記録であるが、インド国内のブラーマンは全人口の5%しかいない。上位3カーストを合わせても15%である。これら3カーストを支えるスードラと不可触民が85%ということになる。カウンター職員氏の客を客とも思わない態度はインド国内ではよく見かけるが、まさかカナダのナショナルフラッグで経験するとは思わなかった。

ネパールの政府職員は以前よりこの傾向が強まっている。しかし、お気をつけ召され、数千年の特権も諸技術の発展に伴うグローバル化とその結果の急速な地域の社会変容がいつまでもあなたたちを守ってくれないことを。聡明なバフン諸氏はそれに気が付いているからこそやたらと権威をちらつかせるのかも知れない。

乗り継ぎ地のバルバドスである。この国はラム酒醸造が盛んだが、もともと植民地時代はサトウキビの生産が地域を支えていた。労働者として移民した人たちが現在の国民の大半である。現在は観光収入が大きいそうだ。空港の雰囲気はすこぶるフレンドリーである。子どものころ流行したとてつもなく陽気に歌って踊るカリプソはこのあたりの国がルーツである。入管の職員も私の旅券を見て、名前をいかに発音するのかと尋ねるほど打ち解けているし、しばし無駄話をしたところ、この国の観光は外国人観光客が減少して陰りが見えているとのことであった。

さて、{花嫁」の地セントクリストファー・ネイビスである。空港旅客ターミナルはトリブバン空港よりずっと小さい。夜だからなのか雰囲気が暗い。入管職員がそっけないのはどこの国も同じとして、タクシーの運転手や隣の島に渡る高速ボートのクルーもみな不愛想である。ホテルのスタッフも口数が少ない。なんとなく違和感を覚えていたところ、「花嫁」が解説してくれた。国が小さい(人口55千人)ので同族意識が強く、よそ者には警戒心があるという。物価が高いこの国で、低賃金の国内労働者と高所得の外国人観光客のギャップも影を落としているようにも見える。

新郎の友人がニューヨークから参加した。両親が香港から移民したという。東洋系は私たち夫婦と3人で、あとは新郎の親族十数人である。この御仁がジョークを連発して座を盛り上げようとするのだが、何となく浮いてしまっている。白人社会でのこの人の来し方を見たような気がした。
                                                                                                                        
2019615日)







2019年7月13日土曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #121


カリブの花嫁

セントクリストファーネイビス連邦という国をご存じだろうか。カリブ海小アンティル諸島のセントクリストファー(キッツ)島とネイビス島からなる国である。面積は先島諸島の西表島程度、人口は55千人である。英連邦加盟国であり南北中アメリカで一番小さい国である。

クリストファー島は発見者クリストファー・コロンブスに由来する。ネイビス島は、この島を発見したときに山に雲がかかっているところを雪と見間違えてスペイン語の雪を意味するニエベの英語形という。火山島の山に海風があたって上昇気流が常に雲をつくっている。

ゴールデンウイークのさなか妻とこの国に行ってきた。日本からの経路はマイアミ経由が最短であるが、トロント経由にした。トロントからバルバドスのブリッジタウンに飛ぶ。観光立国でありラム酒の産地であることから空港ではラムパンチカクテルの出迎え。多数の案内人が愛想よく対応する。乗り継ぎながらいったん入管で手続きをする。ここからプロペラ機のARTでアンティグア・バーブーダのセント・ジョーンズで乗り換えて目的地の首都バセテールまでの長旅である。

さて、「カリブの花嫁」とはいささかきざなタイトルであるが、この国にいるひとり娘の結婚式出席のための渡航ゆえ、親としては気持ちの高ぶりを抑えられないので大目に見ていただきたい。娘は小さいほうのネイビス島に住んでいる。この国でただ一人の日本人だという。道にはヤギやロバが群れているネパールの田舎町のようである。ポカラよりずっと鄙びている。

住民は植民地時代のサトウキビ栽培で連れてこられた労働者が主である。今では製糖業はやめているが、島のそこここに火山岩で作られた製糖所の残骸が残っている。私たちが泊まったホテルは熱帯林の中のコテージ風であったが、製糖所の跡形が見られた。

結婚式はこのホテルの熱帯林の大きな木の下で執り行われた。キリスト教の牧師は女性である。バージンロードは長い石段を下りていく。介添えの私は式の前のカクテルが効いて足元がおぼつかない。娘のたっての希望で三々九度のセットと日本酒を持って行った。巫女役は新郎のいとこの双子の姉妹である。自然の中で簡素ないい式であった。出席者は新郎の親族がニューヨークとフロリダから12人と私たち夫婦のみである。米国にしてみればカリブ海は自国の庭のようなものだ。

式の後のディナーもこのメンバーである。小さなウエディングケーキを二人でカットして食べさせあう。引き出物はクッキーと記念の自作の小物。演出過剰な日本の結婚披露宴も二人にとって一生の思い出になるのだろうが、この度の一連の行事から米国人のプラグマティックな価値観を覗いたような気がした。彼らは一週間も滞在してこの島を楽しんでいた。
日本を発つときは娘を嫁にやる親として感傷的になっていた私も、そんな彼らに接して気持ちが軽くなったようだ。新郎の親からは一人娘をもらって気の毒だという慰めがあったが、娘の幸せに満ちた振る舞いと成長した姿を見て、むしろほっとする気持ちになる。そして、跡継ぎのいなくなった我が家をどう閉じていくか、親戚の目も気にしながら日本的な「いえ」問題の解決を図らなければならないことになった。

2019年7月1日月曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #120


マニンドラ・ラージ・シュレスタ

かけがいのない友人が逝ってしまった。40年を越す付き合いになる。私よりひと回り以上年上なのであるが、付き合いが進むにつれて離れがたくなった。マニンドラ・ラージ・シュレスタである。

若くして新聞を発行している。1960年代末である。The Motherlandで、当時唯一の英字日刊紙であった。官製のThe Rising Nepalより数年早い。ネパールのジャーナリストの先駆けとして後進の目指すところとなった。共同通信のマダブ・アチャリヤや朝日新聞、AFPのケダール・マン・シンは直弟子である。現在活躍している若手のジャーナリストは彼から数えて第四世代にあたるのだろう。

若いころはずいぶんと海外を旅したようだ。意外な国の話を聞くことがしばしばあった。海外の見分は政治への関与をうながし、晩年まで彼の政情分析は正鵠を得ていた。1951年ラナ専制政治が終了して、トリブバン国王はラナ家と政党による内閣を発足させた。首相はモハン・シャムシェルJBラナで、いまのネパリ・コングレス党の幹部であるプラカシュ・マン・シンの父ガネシュ・マン・シンが商工大臣として入閣する。伝説の政治家ビシュウェスワール・プラサド・コイララ(BP)は内務大臣である。まもなく首相はコイララ三兄弟の一人マトリカ・プラサド(MP)に代わる。1991年の民主化後に首相を数回務めたギリジャ・プラサド(GP)は末弟である。巷の噂では、BPGPを政治には向かないと話していたとのことであるが、血は争えないものである。

1959年に選挙で選ばれた初めての内閣でBPは首相となり、ガネシュ・マンも8人の内閣の一員となっている。 この内閣で特筆すべきは副大臣の大半をジャナジャティ(先住民族)とマデシ(テライ民族)が占めていることである。しかし翌60年にはマヘンドラ国王のクーデターとして知られる王政内閣が組閣され政党活動が禁止されるのである。この時代に、ガネシュ・マンの地下活動を物心両面から支援したのがマニンドラであった。

マニンドラはロイヤル・ネパール・ゴルフクラブの草創期からクラブの発展に尽力し、私がメンバーになった1973年にはキャプテンであった。ネパール人のゴルフ人口がまだ50人に満たない時代である。イギリス人の会員からマナーを口うるさく言われたのもこのころである。始めて間もなく出したホールインワンの記念にクラブからThe One Holerという英国から取り寄せたネクタイをいただいたが、長いこと忘れていたのが戸棚の奥から出てきたのも何かの因縁であろう。

1991年の民主化後、ロイヤルを冠したほとんどの組織がタイトルから消し去ったが、ゴルフクラブはこれを残している。この点をマニンドラに質したら、伝統のあるタイトルだからとのみ答えた。議会制民主主義の実現に尽力しながらも、この人の心の隅には国王へのある種のリスペクトがあったのではないか。

夫人はチェトリであり、彼らの時代に特に上流家庭においてはめずらしい異カースト間の結婚である。その夫人は夫の突然の死にすっかり元気をなくしている。早く以前のようにシャープな口調を取り戻すことを祈るばかりである。

合掌

(2019528)

2019年6月17日月曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #119


プラハの春とマオイスト内戦

旧聞になるが2018820日は、チェコスロバキアがアレキサンデル・ドゥプチェクの「人の顔をした社会主義」をスローガンに推し進めていた自由改革運動「プラハの春」を、ソ連がワルシャワ条約機構の軍を率いて侵攻して民主化運動を圧殺してからちょうど50年であった。

この年の5月にはベトナム和平交渉がパリで始まった。フランスのソルボンヌ大学に端を発して、大学が集まったカルチェラタンで5月革命と称される学生運動が高揚し、これに刺激された日本の学生も全共闘運動へと一気に突き進んだ時代であった。社会主義勢力による民主化の圧殺を横目で見ながら、マルクス主義を盲目的に信奉してユートピア社会を夢見るという、今思えばなんとちぐはぐな思想であり行動であったことか。この時私は大学3年であった。

「プラハの春」にシンパシーを寄せたのは、ソ連型の社会主義に夢を見ていながら、暴力装置としての「国家」に胡散臭さを感じていたからであろう。もうひとつ、64年の東京オリンピックの女子体操総合でチェコスロバキヤのチャスラフスカが金メダルをとったが、この人には今の体操選手と違って成熟した大人の美しさがあった。彼女が「プラハの春」に連座して拘束されたとのショッキングなニュースを耳にした。民主化はベルリンの壁崩壊を皮切りに東欧諸国の共産政権が倒れる1989年まで待たなければならなかった。ビロード革命と呼ばれドゥプチェクの復権を見た。

我がネパール現代はまさに激動の時代である。20世紀半ばから、ラナ専制の打倒、国王のクーデターによるパンチャヤト議会制度、民主化運動の結果の複数政党制の獲得等々、希望を見出せるかのごとき時代が続いた。試行錯誤の繰り返しでもある。中でもマオイストによる内戦は肌で感じた事件として忘れがたい。 

19962月にルクム、ロルパ、シンドゥパルチョークの3郡の警察署襲撃で始まったこの内戦は2006年まで続いた。デウバ政権がマオイストの初期の要求をあまりにも軽視した。戦線が広がってからは、ビレンドラ国王が「マオイストといえども臣民であればビシュヌ神の生まれ変わりである国王がこれを誅殺することはできない」と国王の心中をおもんぱかる人もいた。王室の情報収集・分析能力の弱体化をいう人もあった。

私が現地で経験したのは後半の5年間である。マオイストの話題では声を潜める必要があった。各戸への特に商店や企業への寄付の強要は暴力を背景とした強奪そのものであった。地方の学校教師など知識人の殺害も聞こえてきた。政府軍のマオイストと疑われた民間人殺害も無視できない。恐怖の中にありながら、政府の姿勢には切迫感がない。停戦後は戦争犯罪を解明する委員会が創設されるも10余年もの間報告を取りまとめられないのはいかがなものだろうか。うしろめたさを残したまま政権運営もあったものではない。

チェコのプラハ音楽祭ではスメタナの《わが祖国》が謳いあげられる。わがネパールもいつの日か国民をあげて「わが祖国」を歌える日が来ることを願っている。

(2019516)





2019年5月21日火曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #118


ロルパのおなご先生

バムクマリは子供のころ左目を失明して義眼を入れている。去年の9月に定期健診でカトマンズに来ていたところをティルガンガ眼科病院で会い、彼女の村まで行くことにした。ロルパ郡のリバンでさくら寮同期生のカマラと一期先輩のダンクマリに会う。三人で教員資格試験の勉強を行うという。

「おなご先生」は、NPO法人日本ネパール女性教育協会(会長:山下泰子文京学院大学名誉教授)が開発の遅れている西部の村から女子の旧SLC合格者を募り、ポカラのさくら寮で共同生活をしてカニヤキャンパスにおいて2年間学び、卒業後に郷里の村の学校に教員として奉職するプロジェクトである。これまでに100人のおなご先生を送り出している。

モンスーンで道が寸断されていたため11月に出なおした。バムクマリの学校までは幸い四駆車で入れた。校長はすでに私たちの目のプロジェクトを承知していてくれて4人の目に疾病のある生徒を集めておいてくれた。2人は角膜に傷があり、他の2人と合わせてカトマンズで検診を勧めた。

ダンクマリの学校はここから山道を3時間歩いた。5年生までの小さな学校である。すっかり日が暮れてしまったが、校長先生は生徒を残しておいてくれた。ここにも角膜を傷つけた生徒がいた。バムクマリの実家は学校に隣接している。彼女は結婚したばかりで夫の実家に行っているという。

囲炉裏端で食事の準備を待っていると、父親が鶏とククリ(ネパール鉈)を持ってきてしめろという。私は子供のころからガキ仲間でのカエルの解剖もできない臆病者である。客人にこの役割をさせるのはマガール族の礼儀だそうだ。私はマガールの家庭で食事をごちそうになるのは初めてだった。

翌日はロルパ最奥の村タバンに行った。マオイストが臨時革命政府を樹立した村である。ここに日本人の医者がいるというのである。石田龍吉先生にお会いした。60歳の定年を機にネパールでの活動にふみきって11年になるとおっしゃる。若いころには岩村昇先生の薫陶を受けている。この村に小さいが入院施設も整ったクリニックを始めて5年。自動車道路もあるがモンスーン期には不通になる。マオイストが拠ったところだけあって外部から侵略しにくい要害の地である。2-3年のうちには25床に拡大するという。

この晩はバムクマリの家に泊めてもらった。バムクマリが兄嫁を差し置いて一所懸命食事の支度をしてくれる。素朴な食事であったが懸命さが味を増した。お茶は野草のハーブティである。バムクマリは学校まで1時間歩くが、朝早く起きて牛やヤギの草を刈ってから出かけるという。ネパールの女はみな働き者である。最近幼馴染と結婚した。新郎は結婚のため海外出稼ぎから帰ってきたが、またすぐに出かけて行った。

2月にロルパ郡の6人を含めて34人の目の検診をカトマンズで行った。2人は親の承諾が得られず来ることができなかった。バムクマリが「このままにしておくと自分のように片目をなくしてしまう」と説得したが、親は「カトマンズに行くとあんたみたいに目を取られてしまう」と拒否したそうである。マガール族など山地のジャナジャティ(先住民族)の間ではいまだに〈ジャンクリ〉という祈祷師に病気治療を頼るひとがいる。47年前にオカルドゥンガ郡ルムジャタール村で「病院は死ぬところだ」といって祈祷師を頼った老女を思い出した。

2019年5月13日月曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #117


「濡れ落ち葉」と「ワシも族」

4月中旬に帰国したらソメイヨシノがまだ咲いている。開花は平年並みだが、開花後寒い日が続いたという。八重桜は満開である。

DIAMOND onlineの記事『定年後「濡れ落ち葉」にならない人は家にいる時間をこう過ごす』を目にして、「それって俺のことじゃあ」と驚いたり、「ほかのジジイ達もそうなんだ」と安心したり複雑な心境である。昨年3月に胃の手術をして、家で女房に邪魔にされながら過ごした3ヶ月間であった。

《テレビを見ながらゴロっと横になっている。奥さんが買い物に行くと言い出すと「わしも」と言って立ち上がる。だから「ワシも族」。そして奥さんの後ろをついて歩く姿が、足にまとわりつく落ち葉のようなので、「濡れ落ち葉」。》まさに私そのものではないか。たまには重い買い物荷物を持ってやろうと一緒に行ったのに、世間様は全く違う見方をしていたのである。きっと、隣近所のうわさになっているんだろうなあ。スーパーで見かける夫婦は同類の「婦唱夫随」なのだろうか。

では、家にはどういう居方をしたらいいのでしょうか。
《まず大切なのが家事を分担することです。……「家事はゲーム」というイメージが大事です。決して家事を労働と捉えてはいけません。》3ヶ月ぶりにカトマンズの事務所で埃だらけの床や書類を清掃した。10分すると息が切れ、腰が痛くなる。日ごろご苦労されている奥様に感謝!

《掃除に加えて片付けをし始めると、……そこはそれまで奥さんが仕切ってきた領域ですし、……あくまでも「奥さんが主役で、自分は脇役だ」ということをわきまえてください。》
私は片付けが嫌いで、手の届く範囲にものをほって置くくせがある。奥様は潔癖性でそれを片付ける。「おーい、あれどこにしまった?」が奥様の逆鱗に触れるのである。

《掃除の次にチャレンジする家事としては、炊事・料理のほうがいいと思います。》
これは我が家には適用できないのではないかと思われる。「男子厨房に入るべからず」なのである。女の城を明け渡すはずがない。カトマンズで自炊をして気がつくのは、最低限口に入るものを作る限り、もはや料理の知識はいらないということである。市販のソース、調味料を素材に混ぜれば料理らしくなるのである。ただし奥方の前でこんなことをいえば、無事では済まないだろう。

《そもそも、まともに会話をしていますか?》
うーむ、これにはぐうのねも出ない。
《こちらから話題を振るのは少し照れくさいかもしれませんが、やってみると意外にできるものです。》
そもそも女房相手に限らず、さりげない会話が苦手な私なのである。

「ちがうだろ!」妻が言うならそうだろう (そら、2018年サラリーマン川柳第2位)

2019421日)

2019年5月10日金曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #116

ネパールとチベット交易今昔

昨年5月下旬、小田急線の沿線は代掻きを終えて水を張った田がにび色の空から漏れる弱い日を反射していた。

日本ネパール協会主催の新旧駐ネ大使の歓送迎会に出席のため東京に出た。会員でない私には参加者の中に知己が少ない。その中にペマ・ギャルポさんがいらした。話をするのは初めてである。5歳でダライ・ラマ法王とともにインドに亡命し、12歳で訪日して教育を受け、 24歳でダライ・ラマ法王アジア・太平洋地区担当初代代表に就任して10年間その任に当たられた。高校の同級生で『聞き書きダライ・ラマの真実』等の著作のある仏教研究者で写真家の松本榮一君によると、退任理由は法王との行き違いがあったという。ペマ・ギャルポさんのネパールとの関わりは聞き損なったが、氏の研究領域なのであろう。

カマル・トゥラダール著『ラサへのキャラバン~伝統チベットのカトマンズネワール商人』に古のネパール・チベット関係が詳しい。著者の家族は何代にもわたってチベット交易に携わってきた。子供の頃お祖父ちゃんやお父さんから毎晩のごとく聞かされてきた。

交易はカトマンズのリッチャビ王朝ブリクティ・デビ王女がチベット王朝のソンッエン・ガンポ王に嫁したことにより盛んになった。624年以前ともいい、632年ともいわれる。持参金の一部として仏像やネワールの建築、工芸職人を連れて行ったのがチベット文化に影響を与えたという。商人も少なからずいたようだ。

1975年出版のクリストフ・フューラーハイメンドルフ著《Himalayan Traders》はネワール族以外の3つのチベット・インド交易ルートとそれに活躍した人を紹介している。東はコシ水系のタムール川とアルン川である。最近私の小児眼科プロジェクトを手伝ってくれているパサン君はこの地方の交易中継点であるオランチュンゴラの出身で、日本で富士登山ガイドの傍らタメルで登山用品店を営んでおり、トレーダーのDNAを受け継いでいる。

中部のガンダキ水系沿いのルートは言わずと知れたタカリー族が活躍した地である。その中心地はアンナプルナ山群とダウラギリ山群の北側のタサン地方であるが、多くの人はカトマンズやポカラに居を構えている。ただし、死後は先祖代々の故郷の墓にはいらなければならないという。今日、カトマンズではトレーダーというより、タカリー料理として民族の名声を博している。ただ、名物のソーセージはふるさとトゥクチェ村に行かなければ味わえない。春先にヤク(チベット牛)の血を飲んで冬場に弱った体の元気を取り戻すために多くの人が集まるのもこの地方である。

西はカルナリ水系沿いのルートである。今月初旬にジュムラを訪問した。泊ったロッジの経営者は、自分たちはチベット人ではない、ラマというれっきとしたネパール人だといっていたが、ムグやフムラに住むチベット系のボティヤである。交易の主役だ。この地方では羊の毛を紡錘車で紡いでいるのを見かける。ラリと呼ばれるラグを織っている。羊毛のもつ天然の色で飽きがこない。シェルパ族にも模様は異なるが同じ素材でいい風合いのものがある。今ではポルツェテンガでしか織っていないと聞いた。グルン族にはフエルト状にしたラリがある。

ネパール・チベットの5,000mを超えるいくつもの峠は今でも交易路として使われている。シェルパ族のふるさとナムチェではチベット商人の市が開かれている。ナンパラを越えてゴジュンバ氷河を2日下り、衣料品から家電製品までヤクの背中で運ばれてくる。

2019421日)