2019年12月3日火曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #130


ネパールに生きた異人たち

海外で活躍している日本人のなかに、日本の社会の枠組みの中で生きるには窮屈であろうと思われる人たちに出会うことがある。ネパールに生きた異人たちにお付き合いいただいた。異能と計り知れない志を持った人たちである。

今週亡くなった宮原巍さんはネパールの山岳観光を切り開いた人で、メディアでもたびたび紹介されている。複数のホテルの建設と経営ばかりでなく、ネパールの国政選挙にも自らの政党を立ち上げて、ネパール社会の変革を志した。1960年代にネパール政府の工業局でご一緒だったネパールの方からは葬儀の時若き日の宮原さんの話をうかがった。

宮原さんの業績の最たるものは「ホテルエベレストビュー」の建設であると思う。1970年代初め、エベレストを正面に見る道路もない4千メートルの高地にあれだけの建物をつくる苦労は想像を絶する。メインロビーの大きなガラス板を人力で運び上げたわけだが、強い風の中でのクンブの強力の体力と忍耐力には敬意すら覚える。

その宮原さんと初めてお会いしたのは、19735月に標高4,200メートルのペリチェの少し下であった。宮原さんはお客さんを連れて下ってき、私はオカルドゥンガ郡ルムジャタール村での農村調査に飽きてヒマラヤを見に上ってくる途中であった。まだトレッキングという言葉がなかった時代である。それから40年以上のお付き合いになるとは夢にも思わなかった。

7月に日本で胃がんの手術をして10月初旬にネパールに戻られた。終焉の地をネパールと決めておられたのではないかと思う。ホテルのあるシャンボチェで荼毘にふされた。最後まで見事な人生であった。

外務省OBの菊池法純さんをご存知の方もカトマンズでは数えるほどになった。9月に亡くなられた。山形の鶴岡の寺に生まれて、仏教系の大学を出て外務省に入省した。デリー大学に留学した「インド屋」である。その後カトマンズに転身され、私がお世話になったのは在ネパール大使館勤務時代である。大使ほか外務省職員3人と期間限定職員の私のこじんまりした公館であった。

菊池さんのネパール語は絶品で、ネパール詩の吟詠には聞きほれた。外交英語の機微な表現を教えていただいた。酒を飲むと軟らかくなる人であったが、翌朝5時の個人教師を招いてのチベット語の勉強は欠かしたことがなかった。国交のなかった時代から、在ネパール大使館は中国、チベット情報の貴重な収集機能を有する公館であった。

何よりも私の財産になったのは、菊池さんの多方面にわたる人脈をもらい受けたことである。退職後もネパールの人脈を駆使しての情報収集・分析は精度が高く、在野に置くのがもったいないほどであった。仏教団体への寄稿は専門知識を駆使し余人の追従を許すものではない。

秋田吉祥さんと親しくなったのは、私がもっていたジャズピアニスト〈チック・コリア〉のCD数枚を譲ってからであった。この人も大阪の寺の生まれで、仏教系大学に入るが中退してジャズピアノを始める。ネパールで唯一ピアノの調律ができるほど音感の優れた人で、ネパールの歌曲の採譜をしたりした。

絵画の才も優れたものを持っていた。自ら仏教画〈タンカ〉の工房を立ち上げて、伝統技術の継承に努めた。市中の土産物で売っているあまりに教義を無視した「商品」に危機感を抱いたものと思われる。細かい顔の表情まで気を配った精緻なタンカを日本の寺や好事家に提供した。

もっとも秋田さんらしいといえば、著書「タライのうた」に表現しているタルー族の民家に描かれている民族伝統の絵画を訪ねる旅であろう。タルー族は南の平地部タライに東西に広がり暮らす伝統民族で、気持ちの温かい人たちである。この民族の気質が秋田さんにはすっと心に溶け込むものがあったのだろう。両者の交流はほほえましいものを感じさせる。

このような異彩を持った秋田さんが僧侶になっていたら、宗教のわくをこえて寺を運営したのではないかと想像すると楽しい。「才僧吉祥」である。

今週、カリコットの貧しい村を歩きながら、異人たちの生きざまを思い浮かべ、もし私が今とは別の生き方を選択したとすればどんな暮らしをしていただろうと考えた凡愚であった。

2019123日)