2018年3月16日金曜日

3月16日


ホーリー祭が終わり初夏の日差しが目にまぶしく感じます。街が一気に明るくなったように映ります。ネパールの家は夏に涼しく過ごせるよう作られているので、冬はとても寒いのです。ホーリーではじけるように喜びを表す気持ちがよくわかります。

韓国の平昌オリンピックが閉幕し、パラリンピックが熱戦を繰り広げています。とても寒そうです。平和の祭典がすっかり政治利用されてしまったかの印象があります。メダルにこだわっている国がある中で、日本の人々の応援や報道にはスポーツと大会の「場」を楽しむ成熟した雰囲気がありました。

選手たちも国際舞台にふさわしい立ち居振る舞いでした。カーリングの「そだねー」や「もぐもぐタイム」、スケート金メダリストの敗者へのおもんぱかり等々。インタビューでの応答も「生きざま」が表現されていました。一握りの勝者と大勢の敗者がスポーツの世界です。オリンピックの出場機会を逃した人もたくさんいます。試合までに流した練習の汗の量はみな等しいと思います。

さて、汗も流さず御託を並べている「すがジイのそぞろ歩きカトマンズ」もこれが最終回になりました。2年間お付き合いいただきありがとうございました。つたない文章ですが、回を追うごとに力みが抜けて、自然体で書けるようになった、ような気がします。

また、日本人会も会員の皆様、理事の皆様の活躍のおかげで、滞りなく運営できました。皆様には少しはご満足いただけた、とすがジイは勝手に満足しています。お礼申し上げます。私にとっても「老後」の充実した二年間でした。

今後の身の振り方ですが、カトマンズと郷里の湯河原を行ったり来たりする予定です。ネパールでは今年は農村部の小児眼科のプロジェクトを実施します。手始めはダディン郡です。後進地域の教育プロジェクトにも興味があります。当分ネパールの将来を担う子供たちと遊んでもらうことになりそうです。一茶のごとくなれればいいのですが。

これに加えて、日本企業のネパールへの投資のコンサルティングに力を入れます。企業の立ち上げは言うに及ばず、多くの起業家が直面する営業開始後の経営の諸問題につき相談に乗ります。

湯河原ではここ数年友人から「町おこし」を手伝えといわれ続けています。多分に漏れず、主要産業の温泉場は元気がありません。若い人たちが喜んで暮らせる街作りに役に立てればいいのですが。

それでは皆さん、またお会いする機会を楽しみにしています。

(スガジイ)

2018年3月9日金曜日

3月9日


ネパール人のお宅におよばれして延々とおしゃべりと飲み物が続き10時ころになってやっと食事が出るのを経験したことがありますか。あるいは次から次へとご飯を継ぎ足して、もう勘弁してというような。

最近の農業開発省(MOAD)の調査によると1991年をピークにコメの一人当たり年間消費量が減っているのです。198991年が106kg9901年が99kg201113年が87.75kgとピーク時の8割です。

いっぽう、1970‐72年を見ると82kgにとどまっています。私が初めてネパールに来た頃ですが、カトマンズの中流家庭でさえ毎食コメというわけではありませんでした。ましてや山地ではコメを常食とする家庭はごく少なく、マカイ(トウモロコシ)やコード(ヒエ)のデュロ(蕎麦がき様のもの)でした。

コメの消費が増えたのは、報告書では、山間部への道路建設が進んで流通が整備されたこと、主要産地のテライ地方の人口が増加し始めたこと、食料供給公社が設立されて食糧危機に見舞われている地域に供給を始めたこと等がいわれていますが、この間品種改良、灌漑設備の整備等によって単位当たりの収量が増え続けています。

それでは減少した理由はなんでしょうか。食生活の多様化があげられています。動物性たんぱく質摂取の増加、外食がポピュラーになった点です。確かに私の世代のカトマンズで育った人は、子供の頃肉はダサイン祭の時しか食べた記憶がないといっています。出稼ぎの人口減は配慮されているでしょうか。

一人当たりの消費量が減っているにもかかわらず、穀類の輸入は増え続けています。農産物、加工品の輸入額は年間1千億ルピーにのぼります。国内総生産の4%にあたります。コメの総生産量は1980年より5割増えています。

農産物輸入の第三位は野菜類です。カトマンズのカリマティ青果市場取り扱いの野菜の半数近くがインドからの輸入といわれています。国境の町の八百屋の野菜は多くがインド産です。品質も優れています。

インド政府は農業、農民保護政策として手厚い補助金を支給しています。ネパールの農家は価格競争で負けるといわれます。新たな首相が誕生するたびに農業は優先政策にあげられます。オリUML政権の本気度やいかに。国にそして国民に思いを致す政治家は? 

(スガジイ)

2018年3月2日金曜日

3月2日


中西部のスルケット郡で9歳のダリット(職業カースト/不可触賤民)の少年が上位カーストの家の台所に足を踏み入れたとして家人に棒で打擲されたという新聞報道がありました。

私も、ネパールに来て間もない頃、山村の家でカマドに近づいたとして注意されたことがあります。この家のカーストからすると日本人は低位に見られていたことを知ったのでした。また、カトマンズの茶店で、店の外で食べ物や飲み物を受け取っている人を見て怪訝に思ったものですが、バフン(最上位僧侶階級)の知人がさも嫌な顔をしてダリットだと教えてくれました。

インド起源のカースト制度(四つのバルナ:色)がいつネパールにもたらされて定着したのでしょうか。ラナ執政は1854年にムルキ・アイン(民法典)でカースト制度を明文化しました。

近年の国勢調査から分かりますが、パルバティヒンズーがごく少ないカースト階級数であるのに対し、インド国境のマデシ(テライのインド起源の人たち)のカーストは複雑です。また、カトマンズのネワール族も独自のカースト制度を持っています。

もう十年も前になるでしょうか、マオイストの内戦も一段落した頃です。人権擁護派の活動家が、ネワールの職業カーストにあたる人たちに、差別から立ち上がろうと共闘を持ちかけました。彼らはこの呼び掛けを厳然と拒否します。もはや我々は被差別民ではないと。彼らは既にビジネス界で成功していたり、高級官僚になっていたのです。

この度の地方議会、国政選挙ではダリットに一定の議席が割り当てられました。バディの女性が第7州議会議員になりました。バディの女性はある職業を生業としており、民主化の時シンガダルバール(中央政庁、議会)の高い門扉に下着姿でよじ登り「あんた私を知らないって言うの?」と国会議員に罵声を浴びせた勇ましい人がいたものです。

第5州議会ではタルー族の元カムラリ(農奴)の女性が、解放令により小さな自作地を得て自立し、この度の選挙に当選して副議長に就任しました。

1962年にカースト差別撤廃の法令が制定されました。とはいえ、役人の9割が上位カーストで占められています。同じ統計で見ると教育機会均等が大事なことがわかります。

人間の内面の問題は変わるのに時間がかかりますが、遅れてヒンズー文化に接触した社会から変容が始まっているように見えます。

(スガジイ)