2019年12月20日金曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #131


子どものためのノーモア失明プロジェクト日誌(1
一昨年の12月に岡山のヒカリカナタ基金、東京のヤマト福祉財団とカトマンズのプロフェッショナル・サポート・サービス・ネパール(PSSN、代表:カトマンズ医科大学眼科サビナ・シュレスタ教授)の間でネパールの子どもの失明防止対策のプロジェクトの合意書を結んだ。直近の活動を日記で紹介する。

1017日 13日のフライトが台風でキャンセルになり、危なくアイキャンプに遅れるところ、航空会社の尽力でカトマンズに滑り込む。
1019日 バグルンで第2回のアイキャンプ。カウンターパートのPSSN からはカトマンズ医科大学(KMC)のサビナ教授、ディクチャ講師他4人、日本側はヒカリカナタ基金2人、ヤマト福祉財団1人が参加。学校は秋季休暇中ながら、ロータリークラブの協力があり学校単位で受診。地元ボランティアも協力。260人受診。
1020日 アイキャンプ2日目。この日も260人受診。眼鏡がいるような弱視、近視の子どもがなんと63人。異常に高率。地方都市部のテレビ眼、スマホ眼?
1021日 ポカラ「さくら寮」でJNFEA〈おなご先生〉の年次フォローアップ研修を延長していただき、大学教師陣による『生徒の目の健康に関する教師の役割』講義と実習。
111日  ルクムから片目失明の少年2人、サリヤンから4人来院して検診。
113日  ルクムの少年1人の眼球摘出手術。サリヤンの全盲の少女レカをロカンタリの子ども耳鼻咽喉科病院(CHEERS)で検診、そのままリハビリ科に入所。この子は家族にしか心を開かない障害がある。
115日  眼球摘出の少年に昨日仮義眼装着。6週間後に本義眼を入れる。もう一人は眼孔が委縮しているため6週間後に拡張手術をする。レカの父親が帰村。
116日  カトマンズ発。バグルンでロータリークラブ会員にアイキャンプの結果報告。
117日  ミャグディ経由でムスタンのノウリコット村へ。悪路に悩まされる。〈おなご先生〉ガンガの学校で子供の眼の相談受ける。コバン村の学校からも相談に来る。ノウリコットはタカリ族の3氏族の墓所。多くが都市部にすむタカリーも死んだらここに帰る。夜はタサン名物のウワ(裸麦)のロキシーとチュルビ(カテッジチーズ)の揚げ物、キノコの炒め物でいい気分に。しめはそばのデュロ(蕎麦がき)の本場タカリ料理で満腹。
118日  早朝、カリガンダキ対岸の村から母親に連れられた少年が相談に来る。斜視で弱視。2時間かかった由。朝食のチベッタンロティ(揚げパン)を分けると嬉しそうに頬ばる。総勢18人の患者をKMCに呼ぶことにする。
119日  バグルンのカトマンズで治療を要する子どもと親の説明会を開く。1時間半遅れて3人しか集まらず。全員出席の返事があったもののどういう訳?夜はポカラで海外青年協力隊(JOCV)隊員と一献。
1110日 カトマンズへの帰路ゴルカに立ち寄り、JOCV隊員赴任校2校で校長はじめ教員にプロジェクト説明。うち一校で2人の視覚障害児がいること判明、後日カトマンズに呼ぶことにする。この縁で、後日ゴルカの他校とシャンジャの学校から診察の申し込みがあり。JOCVネットワークは強固。
1111日 CHHERSへレカの様子を見に行く。母親は明日帰村するという。一人で集団生活することができるようになったのか。訓練士はさすがにプロである。眼の診察は相変わらず拒否している。

20191216日)

2019年12月3日火曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #130


ネパールに生きた異人たち

海外で活躍している日本人のなかに、日本の社会の枠組みの中で生きるには窮屈であろうと思われる人たちに出会うことがある。ネパールに生きた異人たちにお付き合いいただいた。異能と計り知れない志を持った人たちである。

今週亡くなった宮原巍さんはネパールの山岳観光を切り開いた人で、メディアでもたびたび紹介されている。複数のホテルの建設と経営ばかりでなく、ネパールの国政選挙にも自らの政党を立ち上げて、ネパール社会の変革を志した。1960年代にネパール政府の工業局でご一緒だったネパールの方からは葬儀の時若き日の宮原さんの話をうかがった。

宮原さんの業績の最たるものは「ホテルエベレストビュー」の建設であると思う。1970年代初め、エベレストを正面に見る道路もない4千メートルの高地にあれだけの建物をつくる苦労は想像を絶する。メインロビーの大きなガラス板を人力で運び上げたわけだが、強い風の中でのクンブの強力の体力と忍耐力には敬意すら覚える。

その宮原さんと初めてお会いしたのは、19735月に標高4,200メートルのペリチェの少し下であった。宮原さんはお客さんを連れて下ってき、私はオカルドゥンガ郡ルムジャタール村での農村調査に飽きてヒマラヤを見に上ってくる途中であった。まだトレッキングという言葉がなかった時代である。それから40年以上のお付き合いになるとは夢にも思わなかった。

7月に日本で胃がんの手術をして10月初旬にネパールに戻られた。終焉の地をネパールと決めておられたのではないかと思う。ホテルのあるシャンボチェで荼毘にふされた。最後まで見事な人生であった。

外務省OBの菊池法純さんをご存知の方もカトマンズでは数えるほどになった。9月に亡くなられた。山形の鶴岡の寺に生まれて、仏教系の大学を出て外務省に入省した。デリー大学に留学した「インド屋」である。その後カトマンズに転身され、私がお世話になったのは在ネパール大使館勤務時代である。大使ほか外務省職員3人と期間限定職員の私のこじんまりした公館であった。

菊池さんのネパール語は絶品で、ネパール詩の吟詠には聞きほれた。外交英語の機微な表現を教えていただいた。酒を飲むと軟らかくなる人であったが、翌朝5時の個人教師を招いてのチベット語の勉強は欠かしたことがなかった。国交のなかった時代から、在ネパール大使館は中国、チベット情報の貴重な収集機能を有する公館であった。

何よりも私の財産になったのは、菊池さんの多方面にわたる人脈をもらい受けたことである。退職後もネパールの人脈を駆使しての情報収集・分析は精度が高く、在野に置くのがもったいないほどであった。仏教団体への寄稿は専門知識を駆使し余人の追従を許すものではない。

秋田吉祥さんと親しくなったのは、私がもっていたジャズピアニスト〈チック・コリア〉のCD数枚を譲ってからであった。この人も大阪の寺の生まれで、仏教系大学に入るが中退してジャズピアノを始める。ネパールで唯一ピアノの調律ができるほど音感の優れた人で、ネパールの歌曲の採譜をしたりした。

絵画の才も優れたものを持っていた。自ら仏教画〈タンカ〉の工房を立ち上げて、伝統技術の継承に努めた。市中の土産物で売っているあまりに教義を無視した「商品」に危機感を抱いたものと思われる。細かい顔の表情まで気を配った精緻なタンカを日本の寺や好事家に提供した。

もっとも秋田さんらしいといえば、著書「タライのうた」に表現しているタルー族の民家に描かれている民族伝統の絵画を訪ねる旅であろう。タルー族は南の平地部タライに東西に広がり暮らす伝統民族で、気持ちの温かい人たちである。この民族の気質が秋田さんにはすっと心に溶け込むものがあったのだろう。両者の交流はほほえましいものを感じさせる。

このような異彩を持った秋田さんが僧侶になっていたら、宗教のわくをこえて寺を運営したのではないかと想像すると楽しい。「才僧吉祥」である。

今週、カリコットの貧しい村を歩きながら、異人たちの生きざまを思い浮かべ、もし私が今とは別の生き方を選択したとすればどんな暮らしをしていただろうと考えた凡愚であった。

2019123日)