2019年7月29日月曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #122


久し振りの異文化体験

ここ15年ほどは日本とネパールを行ったり来たりしている。それでもネパールでの新しい発見に事欠かない。会社時代には30か国以上で異文化の体験をしたのであるが、当然のことながらビジネス優先の出張であったので、駐在したトルコやインドネシアのほか5年間営業担当国であった中国以外はそれぞれの文化を考察する熱心さがなかった。

「カリブ海の花嫁」の結婚式で訪問したセントクリストファーネイビスへの日本からの道中で久しぶりに異文化体験ができた。移動手段としての航空機であるが、航空会社の国と時代によってビジネスの姿勢に変遷があり興味深い。欧米の航空会社は30年も前から輸送手段として割り切ったサービスが見られる。キャビンクルーの年齢層が高いのも特徴である。食事は腹を満たせばいいだろう程度である。そしてサービスの質とホスピタリティを謳ったアジア勢が伸びてきて、今では中東勢がこれに代わっている。価格競争の時代に「快適な空の旅」というようなキャッチフレーズはもう通用しないのかもしれない。

トロントのエアカナダのチェックインカウンターの職員は恰幅のいいインド系移民であった。不遜な態度は、自国以外で通用しないことを理解できないブラーマンカーストであろう。ずいぶんと古い記録であるが、インド国内のブラーマンは全人口の5%しかいない。上位3カーストを合わせても15%である。これら3カーストを支えるスードラと不可触民が85%ということになる。カウンター職員氏の客を客とも思わない態度はインド国内ではよく見かけるが、まさかカナダのナショナルフラッグで経験するとは思わなかった。

ネパールの政府職員は以前よりこの傾向が強まっている。しかし、お気をつけ召され、数千年の特権も諸技術の発展に伴うグローバル化とその結果の急速な地域の社会変容がいつまでもあなたたちを守ってくれないことを。聡明なバフン諸氏はそれに気が付いているからこそやたらと権威をちらつかせるのかも知れない。

乗り継ぎ地のバルバドスである。この国はラム酒醸造が盛んだが、もともと植民地時代はサトウキビの生産が地域を支えていた。労働者として移民した人たちが現在の国民の大半である。現在は観光収入が大きいそうだ。空港の雰囲気はすこぶるフレンドリーである。子どものころ流行したとてつもなく陽気に歌って踊るカリプソはこのあたりの国がルーツである。入管の職員も私の旅券を見て、名前をいかに発音するのかと尋ねるほど打ち解けているし、しばし無駄話をしたところ、この国の観光は外国人観光客が減少して陰りが見えているとのことであった。

さて、{花嫁」の地セントクリストファー・ネイビスである。空港旅客ターミナルはトリブバン空港よりずっと小さい。夜だからなのか雰囲気が暗い。入管職員がそっけないのはどこの国も同じとして、タクシーの運転手や隣の島に渡る高速ボートのクルーもみな不愛想である。ホテルのスタッフも口数が少ない。なんとなく違和感を覚えていたところ、「花嫁」が解説してくれた。国が小さい(人口55千人)ので同族意識が強く、よそ者には警戒心があるという。物価が高いこの国で、低賃金の国内労働者と高所得の外国人観光客のギャップも影を落としているようにも見える。

新郎の友人がニューヨークから参加した。両親が香港から移民したという。東洋系は私たち夫婦と3人で、あとは新郎の親族十数人である。この御仁がジョークを連発して座を盛り上げようとするのだが、何となく浮いてしまっている。白人社会でのこの人の来し方を見たような気がした。
                                                                                                                        
2019615日)







2019年7月13日土曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #121


カリブの花嫁

セントクリストファーネイビス連邦という国をご存じだろうか。カリブ海小アンティル諸島のセントクリストファー(キッツ)島とネイビス島からなる国である。面積は先島諸島の西表島程度、人口は55千人である。英連邦加盟国であり南北中アメリカで一番小さい国である。

クリストファー島は発見者クリストファー・コロンブスに由来する。ネイビス島は、この島を発見したときに山に雲がかかっているところを雪と見間違えてスペイン語の雪を意味するニエベの英語形という。火山島の山に海風があたって上昇気流が常に雲をつくっている。

ゴールデンウイークのさなか妻とこの国に行ってきた。日本からの経路はマイアミ経由が最短であるが、トロント経由にした。トロントからバルバドスのブリッジタウンに飛ぶ。観光立国でありラム酒の産地であることから空港ではラムパンチカクテルの出迎え。多数の案内人が愛想よく対応する。乗り継ぎながらいったん入管で手続きをする。ここからプロペラ機のARTでアンティグア・バーブーダのセント・ジョーンズで乗り換えて目的地の首都バセテールまでの長旅である。

さて、「カリブの花嫁」とはいささかきざなタイトルであるが、この国にいるひとり娘の結婚式出席のための渡航ゆえ、親としては気持ちの高ぶりを抑えられないので大目に見ていただきたい。娘は小さいほうのネイビス島に住んでいる。この国でただ一人の日本人だという。道にはヤギやロバが群れているネパールの田舎町のようである。ポカラよりずっと鄙びている。

住民は植民地時代のサトウキビ栽培で連れてこられた労働者が主である。今では製糖業はやめているが、島のそこここに火山岩で作られた製糖所の残骸が残っている。私たちが泊まったホテルは熱帯林の中のコテージ風であったが、製糖所の跡形が見られた。

結婚式はこのホテルの熱帯林の大きな木の下で執り行われた。キリスト教の牧師は女性である。バージンロードは長い石段を下りていく。介添えの私は式の前のカクテルが効いて足元がおぼつかない。娘のたっての希望で三々九度のセットと日本酒を持って行った。巫女役は新郎のいとこの双子の姉妹である。自然の中で簡素ないい式であった。出席者は新郎の親族がニューヨークとフロリダから12人と私たち夫婦のみである。米国にしてみればカリブ海は自国の庭のようなものだ。

式の後のディナーもこのメンバーである。小さなウエディングケーキを二人でカットして食べさせあう。引き出物はクッキーと記念の自作の小物。演出過剰な日本の結婚披露宴も二人にとって一生の思い出になるのだろうが、この度の一連の行事から米国人のプラグマティックな価値観を覗いたような気がした。彼らは一週間も滞在してこの島を楽しんでいた。
日本を発つときは娘を嫁にやる親として感傷的になっていた私も、そんな彼らに接して気持ちが軽くなったようだ。新郎の親からは一人娘をもらって気の毒だという慰めがあったが、娘の幸せに満ちた振る舞いと成長した姿を見て、むしろほっとする気持ちになる。そして、跡継ぎのいなくなった我が家をどう閉じていくか、親戚の目も気にしながら日本的な「いえ」問題の解決を図らなければならないことになった。

2019年7月1日月曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #120


マニンドラ・ラージ・シュレスタ

かけがいのない友人が逝ってしまった。40年を越す付き合いになる。私よりひと回り以上年上なのであるが、付き合いが進むにつれて離れがたくなった。マニンドラ・ラージ・シュレスタである。

若くして新聞を発行している。1960年代末である。The Motherlandで、当時唯一の英字日刊紙であった。官製のThe Rising Nepalより数年早い。ネパールのジャーナリストの先駆けとして後進の目指すところとなった。共同通信のマダブ・アチャリヤや朝日新聞、AFPのケダール・マン・シンは直弟子である。現在活躍している若手のジャーナリストは彼から数えて第四世代にあたるのだろう。

若いころはずいぶんと海外を旅したようだ。意外な国の話を聞くことがしばしばあった。海外の見分は政治への関与をうながし、晩年まで彼の政情分析は正鵠を得ていた。1951年ラナ専制政治が終了して、トリブバン国王はラナ家と政党による内閣を発足させた。首相はモハン・シャムシェルJBラナで、いまのネパリ・コングレス党の幹部であるプラカシュ・マン・シンの父ガネシュ・マン・シンが商工大臣として入閣する。伝説の政治家ビシュウェスワール・プラサド・コイララ(BP)は内務大臣である。まもなく首相はコイララ三兄弟の一人マトリカ・プラサド(MP)に代わる。1991年の民主化後に首相を数回務めたギリジャ・プラサド(GP)は末弟である。巷の噂では、BPGPを政治には向かないと話していたとのことであるが、血は争えないものである。

1959年に選挙で選ばれた初めての内閣でBPは首相となり、ガネシュ・マンも8人の内閣の一員となっている。 この内閣で特筆すべきは副大臣の大半をジャナジャティ(先住民族)とマデシ(テライ民族)が占めていることである。しかし翌60年にはマヘンドラ国王のクーデターとして知られる王政内閣が組閣され政党活動が禁止されるのである。この時代に、ガネシュ・マンの地下活動を物心両面から支援したのがマニンドラであった。

マニンドラはロイヤル・ネパール・ゴルフクラブの草創期からクラブの発展に尽力し、私がメンバーになった1973年にはキャプテンであった。ネパール人のゴルフ人口がまだ50人に満たない時代である。イギリス人の会員からマナーを口うるさく言われたのもこのころである。始めて間もなく出したホールインワンの記念にクラブからThe One Holerという英国から取り寄せたネクタイをいただいたが、長いこと忘れていたのが戸棚の奥から出てきたのも何かの因縁であろう。

1991年の民主化後、ロイヤルを冠したほとんどの組織がタイトルから消し去ったが、ゴルフクラブはこれを残している。この点をマニンドラに質したら、伝統のあるタイトルだからとのみ答えた。議会制民主主義の実現に尽力しながらも、この人の心の隅には国王へのある種のリスペクトがあったのではないか。

夫人はチェトリであり、彼らの時代に特に上流家庭においてはめずらしい異カースト間の結婚である。その夫人は夫の突然の死にすっかり元気をなくしている。早く以前のようにシャープな口調を取り戻すことを祈るばかりである。

合掌

(2019528)