2019年7月1日月曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #120


マニンドラ・ラージ・シュレスタ

かけがいのない友人が逝ってしまった。40年を越す付き合いになる。私よりひと回り以上年上なのであるが、付き合いが進むにつれて離れがたくなった。マニンドラ・ラージ・シュレスタである。

若くして新聞を発行している。1960年代末である。The Motherlandで、当時唯一の英字日刊紙であった。官製のThe Rising Nepalより数年早い。ネパールのジャーナリストの先駆けとして後進の目指すところとなった。共同通信のマダブ・アチャリヤや朝日新聞、AFPのケダール・マン・シンは直弟子である。現在活躍している若手のジャーナリストは彼から数えて第四世代にあたるのだろう。

若いころはずいぶんと海外を旅したようだ。意外な国の話を聞くことがしばしばあった。海外の見分は政治への関与をうながし、晩年まで彼の政情分析は正鵠を得ていた。1951年ラナ専制政治が終了して、トリブバン国王はラナ家と政党による内閣を発足させた。首相はモハン・シャムシェルJBラナで、いまのネパリ・コングレス党の幹部であるプラカシュ・マン・シンの父ガネシュ・マン・シンが商工大臣として入閣する。伝説の政治家ビシュウェスワール・プラサド・コイララ(BP)は内務大臣である。まもなく首相はコイララ三兄弟の一人マトリカ・プラサド(MP)に代わる。1991年の民主化後に首相を数回務めたギリジャ・プラサド(GP)は末弟である。巷の噂では、BPGPを政治には向かないと話していたとのことであるが、血は争えないものである。

1959年に選挙で選ばれた初めての内閣でBPは首相となり、ガネシュ・マンも8人の内閣の一員となっている。 この内閣で特筆すべきは副大臣の大半をジャナジャティ(先住民族)とマデシ(テライ民族)が占めていることである。しかし翌60年にはマヘンドラ国王のクーデターとして知られる王政内閣が組閣され政党活動が禁止されるのである。この時代に、ガネシュ・マンの地下活動を物心両面から支援したのがマニンドラであった。

マニンドラはロイヤル・ネパール・ゴルフクラブの草創期からクラブの発展に尽力し、私がメンバーになった1973年にはキャプテンであった。ネパール人のゴルフ人口がまだ50人に満たない時代である。イギリス人の会員からマナーを口うるさく言われたのもこのころである。始めて間もなく出したホールインワンの記念にクラブからThe One Holerという英国から取り寄せたネクタイをいただいたが、長いこと忘れていたのが戸棚の奥から出てきたのも何かの因縁であろう。

1991年の民主化後、ロイヤルを冠したほとんどの組織がタイトルから消し去ったが、ゴルフクラブはこれを残している。この点をマニンドラに質したら、伝統のあるタイトルだからとのみ答えた。議会制民主主義の実現に尽力しながらも、この人の心の隅には国王へのある種のリスペクトがあったのではないか。

夫人はチェトリであり、彼らの時代に特に上流家庭においてはめずらしい異カースト間の結婚である。その夫人は夫の突然の死にすっかり元気をなくしている。早く以前のようにシャープな口調を取り戻すことを祈るばかりである。

合掌

(2019528)