2024年2月13日火曜日

逍遥 同じ穴の貉 #172

同じ穴の貉

 

今年の冬は暖かいのだろう。我が家の庭さきの梅は早くも満開である。町役場構内のあたみ桜もまた濃いピンクの大ぶりの花を枝いっぱいに咲かせている。

 

庭の陽だまりでタヌキがエアコン屋外機の風にあたっている。ガラス越しに眼があっても逃げない。全身の毛はずいぶん汚れている。左の脇腹に大きな傷がある。傷ついてそれほど時間がたっていないように見える。

 

山に住んでいたのだろうが、どうやって我が家にたどり着いたのだろう。我が家はJRの駅から400mほどの距離の住宅地にある。駅の裏は住宅地だがすぐに急斜面の畑や雑木林になる。反対の西方は県境の川からまで300mで、その先は山に連なる雑木林である。この辺りが彼らの住処なのだろう。昼間に交通量のある道路を経てきたとは考えにくいので、夜間に来て近くにかくれていたのかもしれない。

 

サルはたまに出没する。夏には子連れで来ることが多い。開け放した窓から侵入して仏壇のお供え物を奪っていく。秋にはたわわに実ったカキの実が目当てである。警察署に通報するとお巡りさんがオットリガタナで駆けつけてくる。数年前までは真剣に追いかけまわしていたが、最近では“またですか?”と面倒くさそうだ。町役場の農林水産課では爆竹を配布しているが、敵もサルものですっかり慣れっこになって驚かない。彼らと共存しているカトマンズとは住民の心持が違う。

 

わが町のゆるキャラは「ゆがわら戦隊ゆたぽんファイブ」である。狸の子ども5人組が悪の組織が現れると戦士に変身するというストーリーだそうだが、イマイチわからない。感性が鈍いといわれれば納得なのであるが、これまでこの町のPR戦略には借り物が多いような気がしている。以前「相模の小京都」をキャッチフレーズにしたことがある。海岸の玉石をかつて京都御所の造園に献上したというのが根拠だそうだが、街並みが似ているわけでもなし、歴史的ないわれもない。とってつけたような感が否めない。

 

湯河原には優れた文化遺産がある。万葉集巻十四東歌の相聞歌十二首のうちの一つとして収録されている。

足柄(あしがり)土肥(とい)河内(こうち)()づる湯のよにもたよらに子ろが言わなくに

足柄の河口近辺に出る湯河原温泉の湯、世にも絶えないその湯のように愛情が絶えることはないとあの子は言ってくれない。解釈は諸説ある。

 

古くは源頼朝の鎌倉幕府旗揚げに土地の豪族土肥次郎實平が重責を担ったことから、「平家物語」、「源平盛衰記」、「吾妻鑑」に登場する。明治期以降多くの文人が湯治に訪れており文学作品や絵画を残している。国木田独歩の紀行文「湯河原ゆき」の最後に “我々が門川で下りて、更に人力車に乗りかえ、湯河原の渓谷に向かった時、さながら雲深く分け入る思ひがあった” と書いており、明治期の田舎然としたたたずまいがしのばれる。作家の山本有三宅には近くに住んでいたこともあって子どもの頃にお邪魔した記憶がある。

 

これも観光用のストーリー臭いが、湯河原温泉はタヌキが傷をいやすために河原の湯に浸かっているのを住民が発見したのが始まりという。JRの駅にも湯桶を抱えた陶製のペア狸が鎮座している。さて、我が家の訪問者は猫用の餌を毎日平らげて3日ほど床下に暮らしたが、外出してやりそこなったのを機にいなくなった。傷が癒えて体力が回復したのか、あるいはよそにもっとおいしい食べものがあったのか、はたまた同居人と“同じ穴のムジナ”にはなりたくなかったのか。

 

202422日)


2023年11月13日月曜日

逍遥 都市と緑の空間 #171

 

都市と緑の空間

 

9月下旬やっと秋の気配がしてきた一日に青山で打ち合わせがあったので、ノスタルジーに駆られて明治神宮外苑を歩いた。銀杏並木から絵画館の外周道路を経てJRの信濃町駅まで。途中でドングリを拾いながら。ここは学生時代の運動部のトレーニングの場であった。歩きながら、高校野球の監督がいった「青春は密である」との名言がうかび、半世紀も昔の苦しいばかりの思い出に浸った。 

 

この神宮外苑の再開発事業が問題となっている。事業は野球場とラグビー場の外苑内での移転と高層商業ビルの建設である。「気軽に訪れ楽しめるまちづくり」をうたい人々が行きかうモール型の回廊もつくられる。パースを見る限り現状の景観はそれほど変更がないように見えるが、地平からの視線ではどうなのだろうか。樹木を900本伐採して新たに1000本植えるのだという。銀杏並木はそのまま残す。

 

山手線の内側には新宿御苑、上野恩賜公園、北の丸公園、日比谷公園、外山公園等の緑地がある。23区内にもそれぞれ公園があるので、東京という都会は私がイメージしていたよりも緑が多い街である。樹齢を重ねた森は動物たちの住処(すみか)でもある。伐採後に植樹すれば済む問題ではない。生き物たちは環境の変化に速やかに適応できるほど強くはできていない。

カトマンズの緑地はどうだろうか。市の中心にラトナパークがある。ラニバリ、パシュパティナートの森がある。以前はラナの旧居の周りには大きな木があったので昔はそれなりに緑があったのであろう。主要道路に沿った街路樹はマオイスト内戦時に伐採してしまった。軍のオペレーションに支障があったものと思われる。これだけでも街の雰囲気が変わってしまった。

 

中世の街並みは計画してつくられたものであろう。家並みも整然としているし、水場があって、下水道網が整備されており、今でも生きている。憩いの場としての公園という発想はあったのだろうか。人々がくつろぐ場はネワール建築に特有な共有空間の中庭であり、寺院の境内であったのかもしれない。

 

アパートの窓から夕方きまって鳥が西から東に群れをなして飛んでいくのが見られる。半端な数ではない。鳥たちのねぐらはパシュパティの森なのだろうか、あるいはもっと遠くのバクタプールやスルヤビナヤクまで帰るのだろうか。ナラヤンヒティ王宮の木々にはかつてあまたの蝙蝠が住んでいたが、80年代末には見られなくなった。車の騒音なのか排気ガスの影響なのか。

 

仏教には共生の概念があるという。同時代の人々という視点をこえて、過去から未来へ続く命の共生を目指す。しかも一切衆生というがごとく生きとし生けるものすべての共生をいう。互いに支えあうことでよりよい社会をつくることができる。互いに生きていくために必要なものである。

 

途上国の開発に長年携わってきたが、共生という視点を常にもっていたかと問われると自信が揺らぐ。これから何ができるだろうか。

 

20231113日)

2023年10月11日水曜日

逍遥 少年老い易く #170

少年老い易く

 

全国紙一面トップは大谷翔平の米大リーグホームラン王の話題であった。社説も大谷。わが日本人にとってけた外れの偉業であるにちがいない。オフに繰り広げられるFAの契約金額の憶測もまた夢みたいな話である。右ひじの手術をするも来期はバッターでの復帰が可能とのこと。前途洋々である。

 

前号でも書いたが、2月から痛み出した脚の治療に病院に行った。幸いわが町には雛にはまれな国立の整形外科病院がある。MRI撮影の結果腰部脊柱管狭窄症(椎間板ヘルニア)と診断された。 鎮痛剤と血流促進剤が投与された。遅まきながら《老い》を意識するようになる。山口瞳はこれを「老いるショック」といった。もう50年前の話である。

 

本屋には各種病気ごとの対処法の本が並んでいる。この種の疾病が多いのだろう。治療のための呼吸法やストレッチが紹介されている。この手の勧めにはすぐに乗るがいかんせん三日坊主である。そうこうするうちに左脚のしびれや痛みが増してくる。9月に入ると右脚の痛みが急激にいたくなる。左脚は嘘のように痛みが引くが歩くのも困難になる。医師に相談しても、鎮痛剤を増量するには腎機能の低下があるところ勧められず、入院して安静にするか手術をするか選択せよとつれない。年寄らしくおとなしくしていろというわけだ。不愉快になる。

 

Y福祉財団等の依頼で2017年から子どもの眼の疾病、障害の治療を支援するプロジェクトを続けてきたが昨年で打ち切られた。ネパールでも後進地域の村からの女性を選抜して100人の女性教師を育成した日本のNGOの協力のもとに、これらの女性教師の学校単位でプロジェクトを実施してきた。資金源がなくなったとはいえ、各地から継続の期待が高まっている以上、事業の継続の要望を無視できなくなり、無謀も顧みずに新たに事業実施組織をつくる蛮行に出た。

 

この時期に、イージーゴーイングな性格の私はいつものごとく「何とかなるだろう」とNPO法人設立の準備をしていたのだが、さすがにこのまま突っ走っていいのだろうかと体調不良と老いの弱気にプレッシャーを感じる。ある晩、二階への階段を上っていたとき、最後の一段で左脚が体を支えきれなくなり下まで滑り落ちた。ここまで身体が老いていたのかと愕然となる。翌日から筋トレに励むと、今度は腰に負担がかかりすぎて腰痛を発症する。なんとも度し難き76歳の老体である。

 

さて、悩みながらも周囲の人たちからNPO法人設立協力の快諾をいただいていることから、今更やめますとはいいだしにくい。

 

県のNPO法人担当窓口と相談しながら認可申請手続きを進める。一通りの申請書類を作って提出するが、その都度修正を迫られる。さすがに役所の要求する文書は理路整然として納得である。意外に思ったが、県の窓口担当者は辛抱強く懇切丁寧に書類の修正を指導してくれる。コロナ禍が尾を引いているところ、コミュニケーションは郵送とメールのやり取りである。県の担当者に会ったのはただ一度認証書の交付の時であった。お上としては郵送ではありがたみが薄れる。痛い足を引きずりながら横浜まで行く。

 

次の関門は法人登記を担当する法務局である。ここも相談は予約制で2週間も待たなければならない。インターネットで検索したNPO法人登記の手続き情報を出している司法書士事務所によると法務局は難関の役所という。それはそうであろう、手続きが簡単といったら司法書士の商売にならない。こわごわと法務局に行った。司法書士情報にのっとって書類を整えていったが、法改正で修正を求められる。ここでの驚きは申請書類の修正は係員のいう通り手書きすることで済んだのである。係員が修正箇所に法人印をべたべたと押して完了。その手際のいいこと、拍子抜けであった。一方で忙しい役所としてはNPOごときに手間をかけてはいられないことかと天邪鬼になる。

 

かくして事業継承の体裁は整ったわけである。事業は、継続事業として子どもの眼のケアー、新たに疾病予防としての学校の衛生環境の整備、不登校児童の学業への復帰支援、防災啓蒙等てんこ盛りであるが、大きな目標として貧困や障害によって社会からドロップアウトせざるを得ない子どもを教育や職業技能訓練する施設を運営して将来の国を創る人材を輩出すると大風呂敷を広げている。組織の名称を「ヒマラヤの星たち」とした。読者諸賢の参加を切にお願いするしだいである。

 

2023106日)