2025年7月1日火曜日

逍遥179 大地震から10年

逍遥179 大地震から10

 

ゴルカ地震から10年が過ぎた。あの時は、日本で何度も経験した身にとっても恐怖を覚えたほどの揺れであった。オフィスの机の下にかくれようとした途端に、わきの書類棚が倒れてきて下敷きになった。妻は昼食の準備をしていた。

2013年にNPO法人を設立して初めてのプロジェクトをゴルカ郡の学校で実施することとした。児童の眼の健康を守る事業を中心としたプロジェクトである。学校の選択は、日本ネパール女性教育協会が養成した100人の女性教師おなごせんせい”が赴任している2校である。

一校は郡南部のブリガンダキ川に面したキャムンタールにあるパタンデビ中等学校である。地震で全壊して、少し高いところにある教員室は2階建ての鉄筋コンクリートだが、教室はプレハブである。下流にブリガンダキダムの建設が計画されており、この土地はいずれ水面下になるので仮校舎としている。トイレ等衛生施設も劣悪である。ダム建設は、アクセス道路はできているものの、いつ始まるか見通しはない。おなご先生はスミットラ・ラナ、経歴書には仏教徒とある、ラナはチェトリ・カーストのヒンズー教徒なのに。聞けば父がラナで、村の役所に赴任してグルン族の母と結婚したのだという。グルン族は多くが仏教徒だ。

次の一校はブリガンダキをさかのぼったドバンから左岸の急斜面を登ったフルチュク村のイチャ初等学校である。おなご先生はニシャ・グルン、スミットラと同じピリムのブッダ中等学校の出身。

この道はは208年と11年にサマ村に行くときに徒歩で通過している。野口健さんの主催するNPO法人セブンサミッツ持続社会機構の依頼で第一期で2010年に教室と寄宿舎、第二期2014年に集会所が完成した。第一期の建築物の地震による被害は軽微であったが、集会所は修復不可能なほど破壊された。設計に際して建築家に要求したのは、現地で得られる資材を使うことと、現地で修復可能な伝統建築を基礎とする2点であった。第一期の建築物はまさに地元の人の手で修復が可能な被害範囲であった。集会所崩壊の原因は、石材の加工をごまかしていたことと、屋根を軽くするために軽量鉄骨を使ったことと思われる。揺れを支えきれなかったとも考えられる。

さて2023年のマナスル街道の話に戻そう。震災からの復興と、道路ができたことによる新たな経済圏の形成を見る旅ともなった。以前はダディン側からブリガンダキをアルガートにわたるにはつり橋であったため、ここから歩き始めた。アルガートはカトマンズ・ゴルカ・ポカラ往還のバザールであるとともに、1970年代初めに自動車道路が開通した後もブリガンダキ経済圏の中心地として重要な役割を果たしている。ソティコーラとアルガートの中間点にアルケットという小さな村がある。道路が奥地に伸びたことによって、ここが流通の拠点として開けている。アルガートももちろんバザールの規模が倍になっているので、前進基地の意味もうすいと思うのだが、アルガートが地形の制約によってこれ以上拡張ができないのかもしれない。

以前はソティコーラに泊まって、次の日にマチャコーラまで歩いた。マチャコーラがブリガンダキに合流するところの数件の店屋がある集落だった。この支流をさかのぼれば2015年大地震の震源地ラプラックである。このマチャコーラ集落が長距離バスの終点になっており、震災後にロッジが多数できて、以前の面影が全くない。

ここからは四駆の小型車が村人の足になっている。ネパールの名だたる温泉地はボテコシ沿い、カリガンダキ沿い、そしてここブリガンダキ沿いのタトパニで、いうなれば元祖三大温泉場である。ここのタトパニの3軒の家屋が全く地震の影響を受けていない。岩盤にへばりついて建ててあるからだろうか。温泉は打たせ湯に浴槽が新設されていた。ここがボトルネックになって道路を拡張できないために小型車しか入れない。

タトパニから15分も走ればドバンにつく。以前の記録を見ると50分歩いている。ドバンの数件のロッジも全壊して新築してある。この先ジャガットまで道路は建設済みだが、ドバンの橋ができていないため四駆のサービスはここまで。

ドバンから左岸の急坂を上って目的地のフルチュクに行くことになるが、村の子どもの足で1時間足らずのところ、スタッフは2時間半、私はなんと4時間かけて村の学校にたどり着く始末。実は、前夜下痢が止まらず全く寝ていなかったのであった。それはさておき、村は全滅、学校も内外の篤志家の寄付によって立派に建て直されている。地震の後ヘリでサマ村の被害調査に行ったが、飛行経路のブリガンダキ沿いの斜面の村々にはブルーシートが目立った。 そのうちの一つがフルチュク村であったのかもしれない。

大地震から8年後の復興状況は考えていたより早いものがあった。ドバンから2日歩くとグルン族の文化圏からチベット文化圏に移る。さらに2日歩いてサマ村であるが、この間の集落も地震被害は大きいものがあったと思われる。復興状況が気にかかる。 

 

2025613日)

 


2024年11月6日水曜日

逍遥 ネパール 変わったこと、変わりつつあること (上) #178

 

ネパール 変わったこと、変わりつつあること (上)

 

30年ぶりの弘前である。以前お邪魔したのは、ネパールで親しくしていた人が弘前大学で教鞭をとっていた年のねぷた祭りの季節であった。この度も7月の暑い季節で、昨秋にカトマンズでお会いした応用地形、応用地質、砂防学がご専門のツォウ先生の招聘によるものである。

最近の大学の学部学科は私たちの学生時代の簡単明瞭なタイトルと違って、シラバスを確認しないと何をやっているのかよくわからない。お招きを受けた学科もご多分に漏れず履修モデルを見て理解できた。農業生命科学部地域環境工学科農業土木コース・農山村環境コースの23年生60人が対象であったが、先生や他学科の学生もいらしたようだ。

いただいた講演のお題の一つが「ネパールにおける地域社会構造」である。学生時代の専攻科目であったが、大学ロックアウトや、クラブ活動や学生運動、夜の飲み会にどっぷりつかって教室にはトンとご無沙汰であったし、修士時代はマルクス史観の先生に入れ込んでしまった。大学教育を受けていないといわれる世代である。

そこで、ネパールは124の多言語国家であり、社会構造が多様であると言い訳して、「近代50年の社会構造の変化要因」、いうなれば何が社会を変える契機になったのかを話すこととした。そもそも理系の学生が社会学に興味を向けることはないであろうと自身の浅学を弁解するのであるが、講演内容をつくっていく過程で面白い気付きもあったので以下に紹介したい。

はじめに1951年の王政復古から今日までの社会経済の変遷についてみる。それまではカトマンズ盆地を除いた地方では、ジャガイモやトウモロコシの導入で食糧生産の増大による人口の増加があったにしても、何百年も変わらない生活が続いたと思われる。ネパールにとって激動の近代を王政復古から1990年までの「立憲王政期」、2008年までの「第一次民主化・マオイスト内戦期」、それ以降今日までの「連邦共和制期」の3つに分けてそれぞれの期間を俯瞰する。

社会経済の指標は、幼児死亡率(5歳までの幼児の1,000人当たり死亡数)と一人当たり国内総生産をとった。幼児死亡率は医療事情や母子の栄養状態を反映する社会の推移、一方で一人当たり国内総生産からは国民一人一人の豊かさを知ることができる。

1950年の幼児死亡率は226であり、1960年あたりから大きく低下し始め、その後コンスタントに低下し2022年には24まで改善する。ちなみにインドの同指標は312021年)で日本が1.7である。1956年に第1次五か年計画が始まるが、医療分野ではマラリヤ撲滅、地方への医療機関の拡大、、人材育成があげられている。第2次三か年計画(196265年)、第3次五か年計画(196570年)も同様に医療分野に焦点を当てている。第4次五か年計画では、可能な限り基礎の医療を提供することを目標としてヘルスポスト設置(村落コミュニティにおける医療補助員と医薬品を配備した簡易保健施設)を計画した。一方で急激な人口増加に対処すべく第1次計画から主要作物である米と小麦の増産を目指して灌漑施設の建設に予算を振り向けている。この結果、医療分野には外国援助が充てられたこともあり着実に成果を上げた半面、食糧増産は目標を達成していない。とはいえ、これまで国家レベルでの開発計画がなかったことを考えると、幼児死亡率を着実に低減させる政策的効果があったものと考えていいのではないだろうか。

一人当たり国民総生産(名目)は1990年前後から助走が始まり、2006年ころから急上昇し始める。91年にインドで選挙に勝利したコングレス党政権が経済改革政策を推進するが、第一次民主化を勝ち取ったネパールもそれに先立って1990年の第8次計画で経済自由化を原則としたアプローチへ転換した。悪名高い世銀、IMFの「構造改革」の強要もネパールでは一定の成果を見た。その後マオイスト内戦期を経て、新型コロナのパンデミック期を除いて安定した経済成長率を維持するようになったことが一人当たり国内生産を伸長させたものであると思われる。

 

(続く)

2024930日)

2024年8月31日土曜日

逍遥 センチメンタルジャーニー、そしてコロナ #177

 センチメンタルジャーニー、そしてコロナ

 

今回の出張で、期せずしてハイライトとなったのが「ルムジャタール行」である。1972-3年に農村調査と称して1年間住んだオカルドゥンガ郡の村である。8年前にはカトマンズから車で行けるようになったのだが、尋ねそびれていた。クリシュナ・タマン夫妻の孫のノーマン君に車で同行してもらった。シンズリ道路を行く。バクンデベシが大きなバザールに変貌している。飯屋のおやじに、道路建設チームのキャンプがあった場所をたずねる。2002年にマオイストの襲撃にあったところである。クルコットがこれまた大きなバザールになっている。遅い昼食を食べた飯屋の家族と建設当時の話をしていると、日本人技術者の名前が次々に出てくる。

なおもスンコシ沿いを走りグルミに至る。沢をさかのぼってマハバラート山脈を越してウダイプールのカタリバザールからジャナカプールに出た場所だと思い出がよみがえる。スンコシを渡り高度を稼ぎ、オカルドゥンガバザールが望まれる地点まで来ると、遠くの尾根筋に街ができている。古いバザールから上方にかけて郡や市の役所があり、そのまた上方にバザールが開けている。この地方にはまれなタマン族が経営するホテルに泊まる。ナムチェのホテルに勤務していたという活動的な人である。奥さんがとても愛想がいい。

翌朝は、目当てのハート市にいく。昔は土曜だけだったのが今では水曜日にも開かれる。場所は変わらないがコンクリートで舗装されている。近隣の農家が野菜をもって集まる。ライ族は子豚をもってきていた。少し離れた場所で取引しており、値段を聞けば9千ルピーだというが、隣では8千ルピーで手を打っていた。

次の目当てはキリスト教団体が運営するミッション病院で、バザールから2時間歩いたところ、今では車で行ける。何倍にも大きくなっている。古くからの守衛に案内してもらうが昔の面影はない。バザール出身の事務長と話し込む。当時は伊藤邦幸先生夫妻が駐在されており、日本語が恋しくなると村から4時間歩いて尋ねたものである。

いよいよルムジャタール村である。暑いさなか、村中を歩いて住んでいた家を探したが見つからない。村自体は道が広くなって、昔は一軒しかなかった商店が増えているが、全体的にはそれほど変わっていない。学校の位置が変わったのと、郡の病院と保健所の立派な建物ができている。80歳前後の年寄りのいる家を回るが要領を得ない。私が部屋を借りた大家の名前すら知らないという。地主階層であったこの家族は村人に知られていたはずなのに。だんだんこちらからの誘導尋問めいてきて、村の人の思い違いに翻弄される。当時一人しかいなかった外国人の私を覚えていないとはどういうことだとイライラする。

結局わからずじまいのまま村の新しいホテルに泊まる。女将は村のグルン族とわかるが亭主は顔つきが違う。ビラトナガールから36年前に村の郡病院に赴任したムスリムとわかる。村の人たちの入れ替わりが激しいのだそうだ。純粋なグルン族の村ではなくなっている。村の家々でモヒ(ヨーグルトドリンク)や紅茶、ロキシーをごちそうになって世間話に講じた。学生時代の昔、訪れた家々で温かく迎えられたのと変わりがない人々であった。

問題はそれからである。帰国して翌日、町の心配事相談室の相談員の仕事をした。その翌朝、下痢症状が出る。午前中は民生委員児童委員の月例会に出席した。午後なんとなく心配で体温を測ると36.8度の微熱であったが、念のため近くのクリニックで新型コロナの検査をする。案の定「陽性」だった。5日間の自宅監禁。その間、妻にも伝染してしまう。

潜伏期間からみて、カトマンズの最後の数日間、あるいは飛行機の中で感染したのだろう。出張中一度もマスクをしなかった。のどもと過ぎれば何とやら、まったくの油断であった。

 

2024年8月21日)