2018年10月19日金曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #115


お山の大将

5月も半ばを過ぎると初旬の爽やかさから蒸し暑い日に変わった。そんな中スポーツの世界で不快なニュースがあった。ルール違反の域を超えた犯罪ともいえるものだった。

アメフットの強豪大学同士の試合で、明らかに故意とみられる危険なタックルで相手選手を負傷させたのである。その後この選手は悪質な反則をさらに犯して退場となった。監督は最初に反則を犯した時点でこの選手を交代させるべきであった。監督の指示のもとでの行為であったとの報道もある。

大学の運動部は入部時期による上下関係が厳しい。ましてや指導者は神様のような存在である。個人の意向は組織の論理に飲み込まれる。ある種オウム真理教事件に見られるような全くの没個性状態になることが求められる状況下に置かれることもあるし、またそれにはまって酔うこともある。

高校の野球部の監督をしていた人がこんな事をいっていた。「高校球児の指導は難しい。彼らは『ハイ』と元気よく返事はするが、内容を理解しない単なるオウム返しだから」。だが、そういうふうにしつけたのはほかならぬ指導者である。

私は母校の運動部の監督をしたことがある。大した指導をしたことがあるわけではないが、最近会った既に50歳を超えた当時の学生からこういわれた。「監督はいるだけで怖かった」私自身指導者の言動がそれほど重いとは自覚していなかった。

日本レスリング協会のナショナルチーム監督による選手やコーチへのパワハラも最近の事案である。〈お山の大将〉になって周りが見えなくなった典型のように見受けられる。閉鎖社会の大相撲でいわれる「むり偏にげんこつ」の理不尽な慣習もある。

似たような組織がネパールで見受けられる。ビジネス社会である。多くは小規模企業でオーナー社長なのであるが、外資系でも合弁企業体でも大差はないようだ。企業トップはワンマン体質で、欧米企業のトップダウンの意思決定スタイルと自負しているが、実態は全く異なる。

ナンバーツーには、けして有能かつ野心をもつ人物を置かない。自己主張をする社員ははねられる。結果、向上心もなく可もなく不可もない仕事を淡々とこなすことになる。そして不満が陰にこもるか、無気力に自己保身に走るのである。

日本で成功して母国で凱旋起業した企業家がこぼした「ネパールで仕事はやりにくい、ネパール人は懸命に働かないから」。しかし、有能なスタッフが業績をあげる働きをしたら、この企業家は疎んずるにちがいない。

家族あるいは小さなコミュニティで常に緊密な上下の人間関係をたたきこまれたネパール人にとって、属するコミュニティの外は守ってくれる人がいない異郷である。

2018520日)

逍遥 湯河原・カトマンズ #114


椿と馬酔木とお地蔵さん

十国峠に鎌倉幕府三代将軍源実朝の歌碑がある。

「箱根路を わかこえくれは い津のうみや おきの小島に 波乃与る遊」

おきの小島は初島である。この日の相模湾も鎌倉の古と変わることがないであろう春の光の中にあった。十国峠とは、伊豆・駿河・遠江・甲斐・信濃・武蔵・上総・下総・安房・相模の十国を見渡せることから名付けられたという。

峠を15分程下ると日金山東光寺にでる。本尊に源頼朝が建立した延命地蔵菩薩がある。頼朝が旗揚げを期して伊豆、西相模の若手リーダーたちとの謀議の拠点とした伊豆山神社の元宮がこの寺である。日金山には昔から鬼がいるとされ、霊魂が集まる。春秋の彼岸にここに登ると参拝者の中に会いたい人のうしろ姿を見ることが出来ると言い伝えられている。小学生の頃は地元のガキ連で毎年登ったものである。

無住の本堂は20年前に来た時より立派に建て替えられていた。新たな霊園が開かれているが、昔のままの苔むした墓に歴史を偲ぶ。椿や馬酔木の雑木林が鬱蒼としている。花には若干遅れてしまったが、椿の落ちた赤が山道を彩る。苔の緑に映える。

本堂を後に尾根筋を行く。右に下る道が伊豆山からの参拝路で周囲が開けて明るくなる。さらに下って左に下る道が湯河原からの道である。こちらは周囲が鬱蒼としていて参拝路といっても古い道程標が有るばかりの山道だ。この道を行くとあまりに早く終わりすぎるので岩戸山を目指す。箱根笹の間を気持ちよく進む。冬のあいだは我が家の庭に来ていたウグイスが繁殖の季節を迎えて鳴き声を交わしている。

岩戸山の山頂は三角点がなければ見落としてしまいそうだ。休まず通過して山頂下から岩戸神社の小さな岩祠へ向かうことにする。この道から参拝路に合流できたはずである。分岐点をやっと見つけたが道はだいぶ荒れている。諦めて七尾峠への道をとる。いくつかのグループが登ってくる。こんなマイナーなコースでも歩かれるほどの登山ブームなのだろう。

七尾峠には新しい自動車道路が開け、会社の大型保養施設が数多く建てられており、道に迷ってしまう。このまま尾根通しに歩けば海辺の潮音寺までハイキングを楽しめるのだが、あまりの開発ぶりに嫌気が差して自動車道路を下った。

今年の秋の彼岸には、18歳で死んだ息子の後ろ姿を探しに参拝路を登ろうか。

2018510日)

逍遥 湯河原・カトマンズ #113


深海魚で街おこし

家に近づくと夏みかんの花の匂いが強くなった。病院で術後の診察を受けての帰りである。摘出した腫瘍の病理検査の結果が悪性でないと分かり気分が晴れたからであろうか。今まで気がつかなかったが、三本の木に白い花がびっしり付いている。今年は豊作かもしれない。

高校の電車通学はこの季節はみかん畑の間を通る湘南電車の車内に花の匂いが入り込んできて朝の眠気が覚める。朝に飲んだ新茶の香りがいつまでも口に残っているのもこの季節だ。農家の親戚が毎年届けてくれる一番茶。

一とせの茶も摘みにけり父と母  蕪村

東海道線は東京を出て平塚を過ぎると乗客が減り鄙びてくる。熱海で三両編成のJR東海に乗り換える。がんセンターは熱海のさき三島か沼津よりバスに乗る。両都市とも静岡県東部の中心都市だが、駅前とそれに続く大通りは衰退しているように見える。1980年代のバブル期に建てたビルに人の出入りが目立たないのが寂しい印象を与える。

マオイスト内戦後のカトマンズの急速な都市開発を見慣れた目には日本の地方都市の様子が惨めに感じる。カトマンズで日本の出張者から聞く地方経済の有様が実感として迫って来る。折しも春闘の季節である。大企業のベアが復活した。中小企業までは景気回復の恩恵が及んでいない。企業数では大企業はわずか1%であり、従業員数でも7割は中小だ。

娘が海外勤務から休暇で帰ってきたので、家族で「沼津深海魚水族館」に行った。沼津港の魚市場を中心に魚の加工場や食堂がある地域に、新たに水族館と高級感のあるレストラン群を整備したものである。

沼津の目の前の駿河湾は最深部2500mの日本一深い湾であるところ、水族館はここの深海生物を紹介している。レストランの「ウリ」はもちろん深海魚料理である。この日はゴールデンウイークの初日であったので、水族館もレストランも行列ができていた。まさに「今だけ、ここだけ、あなただけ」の観光開発原則を地で行く盛況ぶりである。

漁港の周辺で鮮魚料理店が評判を呼んでいる地域おこしはあちこちで見られる。テレビのグルメ番組の定番でもある。しかしどの地域も大騒ぎするほどの個性があるようにも見えない。そんな中で深海魚のインパクトは大きい。水族館とマッチングしたコンセプトも興味をそそる。あちこちにあるイルカのショーと差異化した「ここだけしかない」深海魚である。

いいことばかりではない。南海トラフの東の端が駿河湾である。南海トラフでは100200年の間隔で巨大地震が発生している。避けることができない災害であるが、防災対策を密に講じて被害が最小限になる事を祈るばかりである。阪神や東日本大震災のような辛い思いは御免被りたい。
201854

2018年10月12日金曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #112


大相撲とチョウパディ

大相撲地方巡業で、市長が土俵上の挨拶中にくも膜下出血で倒れるという事態が発生した。

周囲の人が土俵上でなすすべもないときに、観客の女性看護師が土俵に上がり心臓マッサージを始める。この時「女性は土俵からおりてください」と場内アナウンスがあった。
相撲協会は「人命に関わることゆえアナウンスが不適切であった」と謝罪した。

翌日は別の都市で女性市長が土俵下から挨拶して、「土俵上で挨拶できないのが悔しい」男女差別と非難する。さて、マスメディアはここぞとばかりに協会批判を始める。テレビのワイドショーではワイドショー芸人、弁護士が「人命に関わるときは良しとして、それ以外は否とするのはおかしい」と、わけのわからないことをいう。

土俵の女人禁制の伝統は明治以来とのことという。いろいろな説があるらしい。協会はその場限りの説明しかしていない。どうして「土俵は男の命懸けの場」だと言えないのだろうか。男性しか会員資格を認めなかったゴルフ場が、五輪大会の会場になりたいがために伝統を曲げたという軟弱な例もあったが、他にも男だけの結社があるだろうし、逆に男を排除する女性の集まりもあろう。それぞれに存立理由があるだろうし、それがなぜ他性の権利侵害なのか理解に苦しむ。

大相撲の土俵を神聖視する理由の一つに女性の生理を上げる向きがある。

ヒンズー教同様に「浄不浄」、血が穢れとの観念があるということだろう。ネパールでは「チョウパディ」に色濃く残っている。チョウパディとは、生理期間中の女性は家に入ることができず、離れた仮小屋や家畜小屋で過ごすことを強いられる慣行である。炊事はできず、コメ、乾物、塩のみで過ごす。牛乳、ヨーグルト、バター、肉等の栄養のある食べ物を取ることが禁じられる。

迷信では、生理期間中に、木に触ると実がならなくなる、牛乳を飲むと牛の乳が出なくなる、本を読むとサラスワティ女神(芸術の神)が怒る、男性が触られると病気になる、等々。

この伝統は西部ネパールのカス・グループ(11世紀以降ネパールに移入した山地のヒンズー民族)の間に色濃く残っている。201612月にはチョウパディ中の15歳の女性が狭い小屋で暖をとっていて、一酸化中毒死した事故が報じられた。毛布を使うことは禁じられ、ジュートの敷物のみが認められる。また、同じ年にヘビに噛まれて死んだ事例も。野獣やレイプの危険もあるという。

最高裁は2005年にチョウパディを非合法とし、2017年には法制化され(禁固3ヶ月または罰金3千ルピー)、20188月に施行される。伝統に最も固執しながら政治行政を牛耳るバフン(最上位の僧侶カースト)にしては英断であるが、悪しき慣行を改めるのは法のみでなく、教育がより有効なのではないだろうか。

2018414日)

逍遥 湯河原・カトマンズ #111


きさらぎの望月のころ

326日 
早朝成田着で帰国。自宅のしだれ桜が満開。この花を見るのも十数年ぶり。

「夕桜七十にして里ごころ」(小林敦子)。

禁酒を前に黒部の銘酒「幻の瀧」をたっぷり飲んで就寝

327日 
長泉町の静岡県がんセンターへ。東名高速脇の丘の上の絶景地、北に愛鷹山、富士山、南に駿河湾と遠くに天城連山。病室足下には病院の散策路に桜が満開。午後1時から内視鏡による胃の腫瘍摘出治療。この病院では手術と言わずに「治療」。寝ている間に何事もなかったかのごとく終了。一年間付き合った腫瘍ともこれでお別れである。点滴のチュ-ブが鬱陶しい。

328日 
午後の内視鏡検査まで水分をとることができない。喉の渇き。検査の結果が良好であるとして水分摂取が許されるが、今度は空腹感が激しくなる。テレビで高校野球を見ても新聞を読んでも集中できない。看護師の許可無くしてトイレに行き叱られる。夜になると若干落ち着いて小室直樹「論理の方法」を睡眠剤の代わりに眠りにつく。

329日 
朝5時に起きてカーテンを開ける。外の景色が清々しい。昼に五分粥とタラのムニエル、トマトのサラダ、ほうれん草とツナの和物、空腹感が満たされるとなんとなく気持ちに余裕が生まれる。活字もすんなりと頭に入るようになる。見舞いの妻と展望室で談笑。こんな夫婦の風景が今まであっただろうか。ドラマのような老夫婦。夜の病院食にはや興味を失う。点滴のチューブもはずれる。

330日 
朝、主治医からあすの退院を告げられる。病院内のコンビニに新聞を買いに行く。隣の人が退院。情報コーナー備え付けのPCで友人や関係先に退院予定をメールする。プロ野球開幕、ジャイアンツは緒戦を落とす。開幕戦ぐらいしゃにむに獲りにいけよ。今年もダメか。三食ともお粥を残す。健康な時でもそれほど多くは食べない。院内を歩いたので疲れたのか早く眠る。

331日 
朝、シャワーを浴びてスッキリする。土曜日につき事務は休みで、支払いは次回来院時という。公営施設は経営に鷹揚である。看護師より妻に食事の指示。近所の人が車で迎えに来てくれる。家のしだれ桜はすっかり葉桜になっている。ソメイヨシノは満開。

「世の中を思えばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせん」(西行、新古今和歌集)

201845日)

逍遥 湯河原・カトマンズ #110

Yさんへのメール

今晩のネパールの古い友との食事はとても楽しいものでした。ジャーナリストだった彼も80を越し体が弱ってきました。今夜はネパールの政党の揺籃時代の話を聞きました。先の政権政党ネパリコングレス党はラナ時代にインドで結党しました。もちろん政党が禁止されていた時代です。後にネパールの政治をリードしたコイララ兄弟が袂を分かつことになった理由がインド政府の強い意向であったというネパールの政治史に語られていないエピソードで、とても興奮しました。当時地下に潜っていた同党のNo.4のガネシュマン・シンを同じネワール族の誼で物心ともに支えていました。

さて、伊豆へのお誘いありがとうございます。春の伊豆の山歩きは思いを致すまでもなく麗らかな風を感じます。西海岸と狩野川が流れる地域を結ぶ峠道は、海産物の流通経路ばかりでなく「花嫁の越えた峠」であったに違いありません。私の祖母は伊豆から湯河原に嫁ぎました。風早峠の名の由来も西海岸の冬の冷たく強い風をこの峠で受けた人のすがたを想像するに難くありません。峠には人の生き様があるような気がします。そういえばネパールの峠にもヒンズーやラマ教の祠があります。昔の人にとって峠は彼我の世界を異にするある意味で決心を要する境界であったのかもしれません。

猫越(ねっこ)峠という珍しい名の峠があります。昔は西伊豆から沼津、三島に通う海沿いの道は難路だったのでしょう。この峠を越して猫越集落、湯ヶ島の中伊豆経由で行ったといわれています。湯ヶ島金山は江戸時代に開発されて金山奉行も於かれた地なので、こちらは交通インフラが整備されていたのでしょう。この珍しい名前の由来を知りたいものです。西伊豆にはこの他、宇久須(うぐす)、妻良(めら)、安良里(あらり)のような日本語らしくない語感を持つ地があります。平昌冬季オリンピックのカーリング選手たちが話した北海道方言「そだね~」は伊豆弁では「そうづら」になります。私の町の言葉は伊豆方言の影響を受けています。

4月の天城から西伊豆の稜線は、まだブナの若葉には早いかもしれません。アセビの花も4月中旬でしょう。マメザクラの可愛げな花はこの頃でしょうか。笹原を愛でる風は温かいものがあると思います。駿河湾も春の色に光っていることでしょう。

(2018年3月23日)



2018年3月16日金曜日

3月16日


ホーリー祭が終わり初夏の日差しが目にまぶしく感じます。街が一気に明るくなったように映ります。ネパールの家は夏に涼しく過ごせるよう作られているので、冬はとても寒いのです。ホーリーではじけるように喜びを表す気持ちがよくわかります。

韓国の平昌オリンピックが閉幕し、パラリンピックが熱戦を繰り広げています。とても寒そうです。平和の祭典がすっかり政治利用されてしまったかの印象があります。メダルにこだわっている国がある中で、日本の人々の応援や報道にはスポーツと大会の「場」を楽しむ成熟した雰囲気がありました。

選手たちも国際舞台にふさわしい立ち居振る舞いでした。カーリングの「そだねー」や「もぐもぐタイム」、スケート金メダリストの敗者へのおもんぱかり等々。インタビューでの応答も「生きざま」が表現されていました。一握りの勝者と大勢の敗者がスポーツの世界です。オリンピックの出場機会を逃した人もたくさんいます。試合までに流した練習の汗の量はみな等しいと思います。

さて、汗も流さず御託を並べている「すがジイのそぞろ歩きカトマンズ」もこれが最終回になりました。2年間お付き合いいただきありがとうございました。つたない文章ですが、回を追うごとに力みが抜けて、自然体で書けるようになった、ような気がします。

また、日本人会も会員の皆様、理事の皆様の活躍のおかげで、滞りなく運営できました。皆様には少しはご満足いただけた、とすがジイは勝手に満足しています。お礼申し上げます。私にとっても「老後」の充実した二年間でした。

今後の身の振り方ですが、カトマンズと郷里の湯河原を行ったり来たりする予定です。ネパールでは今年は農村部の小児眼科のプロジェクトを実施します。手始めはダディン郡です。後進地域の教育プロジェクトにも興味があります。当分ネパールの将来を担う子供たちと遊んでもらうことになりそうです。一茶のごとくなれればいいのですが。

これに加えて、日本企業のネパールへの投資のコンサルティングに力を入れます。企業の立ち上げは言うに及ばず、多くの起業家が直面する営業開始後の経営の諸問題につき相談に乗ります。

湯河原ではここ数年友人から「町おこし」を手伝えといわれ続けています。多分に漏れず、主要産業の温泉場は元気がありません。若い人たちが喜んで暮らせる街作りに役に立てればいいのですが。

それでは皆さん、またお会いする機会を楽しみにしています。

(スガジイ)

2018年3月9日金曜日

3月9日


ネパール人のお宅におよばれして延々とおしゃべりと飲み物が続き10時ころになってやっと食事が出るのを経験したことがありますか。あるいは次から次へとご飯を継ぎ足して、もう勘弁してというような。

最近の農業開発省(MOAD)の調査によると1991年をピークにコメの一人当たり年間消費量が減っているのです。198991年が106kg9901年が99kg201113年が87.75kgとピーク時の8割です。

いっぽう、1970‐72年を見ると82kgにとどまっています。私が初めてネパールに来た頃ですが、カトマンズの中流家庭でさえ毎食コメというわけではありませんでした。ましてや山地ではコメを常食とする家庭はごく少なく、マカイ(トウモロコシ)やコード(ヒエ)のデュロ(蕎麦がき様のもの)でした。

コメの消費が増えたのは、報告書では、山間部への道路建設が進んで流通が整備されたこと、主要産地のテライ地方の人口が増加し始めたこと、食料供給公社が設立されて食糧危機に見舞われている地域に供給を始めたこと等がいわれていますが、この間品種改良、灌漑設備の整備等によって単位当たりの収量が増え続けています。

それでは減少した理由はなんでしょうか。食生活の多様化があげられています。動物性たんぱく質摂取の増加、外食がポピュラーになった点です。確かに私の世代のカトマンズで育った人は、子供の頃肉はダサイン祭の時しか食べた記憶がないといっています。出稼ぎの人口減は配慮されているでしょうか。

一人当たりの消費量が減っているにもかかわらず、穀類の輸入は増え続けています。農産物、加工品の輸入額は年間1千億ルピーにのぼります。国内総生産の4%にあたります。コメの総生産量は1980年より5割増えています。

農産物輸入の第三位は野菜類です。カトマンズのカリマティ青果市場取り扱いの野菜の半数近くがインドからの輸入といわれています。国境の町の八百屋の野菜は多くがインド産です。品質も優れています。

インド政府は農業、農民保護政策として手厚い補助金を支給しています。ネパールの農家は価格競争で負けるといわれます。新たな首相が誕生するたびに農業は優先政策にあげられます。オリUML政権の本気度やいかに。国にそして国民に思いを致す政治家は? 

(スガジイ)

2018年3月2日金曜日

3月2日


中西部のスルケット郡で9歳のダリット(職業カースト/不可触賤民)の少年が上位カーストの家の台所に足を踏み入れたとして家人に棒で打擲されたという新聞報道がありました。

私も、ネパールに来て間もない頃、山村の家でカマドに近づいたとして注意されたことがあります。この家のカーストからすると日本人は低位に見られていたことを知ったのでした。また、カトマンズの茶店で、店の外で食べ物や飲み物を受け取っている人を見て怪訝に思ったものですが、バフン(最上位僧侶階級)の知人がさも嫌な顔をしてダリットだと教えてくれました。

インド起源のカースト制度(四つのバルナ:色)がいつネパールにもたらされて定着したのでしょうか。ラナ執政は1854年にムルキ・アイン(民法典)でカースト制度を明文化しました。

近年の国勢調査から分かりますが、パルバティヒンズーがごく少ないカースト階級数であるのに対し、インド国境のマデシ(テライのインド起源の人たち)のカーストは複雑です。また、カトマンズのネワール族も独自のカースト制度を持っています。

もう十年も前になるでしょうか、マオイストの内戦も一段落した頃です。人権擁護派の活動家が、ネワールの職業カーストにあたる人たちに、差別から立ち上がろうと共闘を持ちかけました。彼らはこの呼び掛けを厳然と拒否します。もはや我々は被差別民ではないと。彼らは既にビジネス界で成功していたり、高級官僚になっていたのです。

この度の地方議会、国政選挙ではダリットに一定の議席が割り当てられました。バディの女性が第7州議会議員になりました。バディの女性はある職業を生業としており、民主化の時シンガダルバール(中央政庁、議会)の高い門扉に下着姿でよじ登り「あんた私を知らないって言うの?」と国会議員に罵声を浴びせた勇ましい人がいたものです。

第5州議会ではタルー族の元カムラリ(農奴)の女性が、解放令により小さな自作地を得て自立し、この度の選挙に当選して副議長に就任しました。

1962年にカースト差別撤廃の法令が制定されました。とはいえ、役人の9割が上位カーストで占められています。同じ統計で見ると教育機会均等が大事なことがわかります。

人間の内面の問題は変わるのに時間がかかりますが、遅れてヒンズー文化に接触した社会から変容が始まっているように見えます。

(スガジイ)

2018年2月23日金曜日

2月23日


先週の土曜日にネパール日本語教師協会(JALTAN) が催した日本語弁論大会に審査員として参加しました。20人の弁士の皆さんがわずかな学習期間ながら流暢な日本語を披露してくれました。

中でも弁論大会らしい内容の充実した話しぶりの人が二人いました。村の教育の話、ジェンダーの話題で、いずれも女性です。近い将来の自身が活躍する場、貢献できることをはっきりと自覚したうえで述べています。女性であったことがいかにもネパールらしいと感じました。

皆さんはポカラにある「さくら寮」をご存知でしょうか。ネパールの女性教師養成施設で、旧高校卒業資格認定全国統一試験(SLC)合格者をカニヤキャンパスで2年間学ばせたのち、出身の村に帰って教職に就くものです。10年間で100人の女性教師を送り出しました。

NPO法人日本ネパール女性教育協会(理事長:山下泰子文京学院大学教授)の支援事業です。山下先生は、ネパールの教育の貧困、女子の就学率の低さ、政府の教職員養成の実態、教職員の技能・意欲の問題等に着目され、とりわけ後進地域である中西部、極西部の女性教員育成に注力されました。

学費・寮費、交通費、生活費を奨学金として支給し、卒業後は村の学校での教師としての最初の3年間の給与支給、ホローアップ研修等の支援が行われます。カリキュラム面では、日本人専門家による音楽、絵画、体育、情操・表現教育など、ネパールで得られない科目を習得させます。

私も、カスキ郡、バグルン郡の学校で「防災教育プログラム」を終えた帰途に、さくら寮で同様の講義をしましたが、女子寮らしい穏やかさの中にも真剣な受講態度が感じられました。多くの学生が山地部の出身なので、教職就任後に役に立つものと期待しました。
山下先生はネパール教育界に3つの提言をされています。

  無償義務教育の導入 —— 山村奥地の分教場、給食付き寮運営
  教員免許制度導入 ― 教師の自覚、社会的信頼の醸成
  師範学校制度導入 ― フィーダー・ホステル(FH:女子師範学校)制度の復活

「さくら寮」は100人の教員を養成して所期の目的を達成し、新たなプロジェクトの開始を待っています。山下先生は持論の女子教員の能力向上にむけてFHの改組充実にむけて活動を始められています。

(スガジイ)

2018年2月16日金曜日

2月16日


時にネパール人の楽天的な思考にほほえましく感じまた苛立ちを覚えることもあります。しかし、2月4日付リパブリカ紙の航空機事故に関する記事にはあきれるほかはありません。

“2017, a safer year for country’s aviation” 2017年は国内航空にとって比較的安全な年だった)は2017年に2件の航空機事故が発生して2名がなくなったにもかかわらず安全な年であったとしています。

2010-17年の8年間で事故がなかった年が1年、1件(死亡18人)が1年、2件(同合計91人)が5年、4件(同25人)が2016年でした。17年は確かに前年に比べれば件数も死者も少ないには違いありません。しかし『安全』とは無事故を表現する言葉ではないでしょうか。

見出しの表現はネパール航空庁(CAAN)の幹部の発言のようです。国際民間航空機関(ICAO)が2013年に指定した「重要な安全性の懸念(SSC)」が17年に解除されました。これを受けた幹部の表現のようですが、いかにも短絡的ではないでしょうか。

ICAOSSCに全航空会社が指定された国は昨年11月末現在で16ヵ国あります。この措置によって欧州連合(EU)はネパールの航空会社の域内乗り入れを禁止するとともに、国民にはネパールの航空会社を利用しないよう勧告しています。EUは禁止措置を継続しています。

CAANは安全性向上のため、パイロットの技能訓練や安全意識の向上訓練、また対地接近警報の安全装置を機上に搭載する等の改善を実施したとしています。また日本の援助で設置したレーダーの運用開始によって安全性が増すとも言います。

これまでの事故の状況を見ると、これらの措置では乗り越えられない山岳地域の厳しい地形と気象の問題を軽視することはできないと思われます。数年前事故の多いルクラに飛んだ時のことです。飛行場のある狭く急峻な谷間は厚い雲に覆われています。パイロットは雲の切れ間を探して谷をさかのぼります。雲の下の滑走路を見つけるためです。ポカラでも空港へのアプローチ時に視界が悪く山に激突しました。タプレジュンのヘリの事故も同じです。ジョムソンでは強風による事故が続いて起きています。

技術や安全意識や安全装置は必須条件としても、航空会社の安全な運航を励行する経営方針の再認識が求められる問題かと思われます。『事故ゼロ』が当たり前なのです。

(スガジイ)

2018年2月9日金曜日

2月9日


2月に入って暖かさを感じるようになりました。春がすぐそこまでやってきたようです。湿度も上がってきたと見えて、盆地周囲の山がかすむようになりました。シバラトリ祭、ホーリー祭を過ごして初夏になります。トレッキングの虫が騒ぎ始めるのもこの頃です。

126日にエリザベス・ホーリーさんが亡くなりました。94歳でした。日本の古い登山家からは「ホーリーおばさん」と呼ばれ親しまれていました。私は1973-75年に日本大使館で登山担当をしていたので、登山隊のインタビューにずいぶんと付き合わされました。75年の田部井淳子さん率いる女子エベレスト隊の登頂後には、女性初の登頂ということで内外記者の会見の場を設けるようアドバイスを受け、その結果世界中にビッグニュースが流れました。

ホーリーおばさんは1959年にタイムライフ社の特派員としてカトマンズを訪れ、翌年からカトマンズに在住され、のちにロイター通信の特派員をしています。ネパール人ジャーナリストのメンター的存在であり、ネパールのジャーナリズムの基礎を作った人と称賛されています。とりわけ登山には多くの関心を割き、60年代から80年代にかけて彼女の取材を受けなかった登山家はほとんどいないといってもいいでしょう。ヒマラヤ登山のデータベースは膨大かつ詳細なものであり、「ひとり所長ヒマラヤ登山研究所」といわれていました。

また1953年にエベレストに初登頂したエドモンド・ヒラリー卿が1960年代半ばに設立したヒマラヤ基金の運営を手掛け、クンブ地方に病院、学校、橋等の建設や植林、シェルパの子弟への奨学金事業等を実質的に切り盛りしました。
観光分野では、1965年にジョン・コプランがネパールで初めて建設したエコ・ツーリズムあるいはアドベンチャー・ツーリズムの拠点ロッジであるチトワン国立公園のタイガー・トップスの経営にも参画し、山岳ツーリズムと並ぶネパールの新しい観光分野を開拓しました。

私がお会いしたのは2003年のエベレスト登頂50周年レセプションが最後かと思います。若い時と変わらずに旧知の登山家たちを次から次と取材していました。その30年前にカトマンズの街を淡いブルーのWVビートルを自身で颯爽と運転していた姿と鮮明に重なりました。

ご冥福をお祈りします。

(スガジイ)

2018年2月2日金曜日

2月2日

確定申告の季節です。支出を眺めていると前期までなかった項目に気が付きます。医療関連費です。今までは年に一度の健康診断と、せいぜい花粉症の耳鼻科費用程度でした。団塊世代の高齢化とともに医療費が目に見えて膨らみ、国の社会保障費用が急増するのが容易に理解できます。日本の高度成長経済を支えた労働力であった私の世代も、歳をとると厄介視されるようになります。

先日、シャワーを浴びていて足音を滑らしバスタブの外のタイル床に頭をしたたかに打ってしまいました。バスタブのふちがテコの支点になって受け身をとれなかったこともありますが、とっさに対応する能力が衰えていることも事実です。

以前八ヶ岳登山の経験を書きました。若い時なら何ともない登山道であったはずです。歳をとって足腰が弱ったためにバランスが不安定になって、その上に反射神経が鈍くなったために自信を喪失したことが恐れにつながったのでしょう。老いを感ずる今日この頃です。
そんな時インターネットのニュースのYouTubeで動画を見ていると、往年のフォークグループ『かぐや姫』の復活コンサートがあるではありませんか。1973年の大ヒット曲「神田川」をはじめ、大好きな「妹よ」「おもかげいろの空」「僕の胸でおやすみ」を口ずさみながら夜中まで楽しみました。南こうせつ、伊勢正三、山田パンダ、懐かしい顔ぶれは、70年安保が終わり全共闘運動が収束しつつあった時代です。

大学に入って東京で暮らし始めると、キャンパスが都心にあったこともあり、政治運動の洗礼を受けることになります。既成左翼政党による「反エンプラ闘争」、市民団体による「べ平連運動」、左翼=平和主義で進歩的の印象に共感したものです。半面、プロの運動家の言葉のウワスベリに不快感も覚えました。私にとってサヨク運動はエスタブリッシュメントに対する心情的反抗でした。

キャンパスが全共闘によってバリケード封鎖され、親しい友人も立てこもっていました。そんな状況下で1969年に『五つの赤い風船』が歌った「遠い世界に」があります。「遠い世界に旅に出ようか」で始まり「明日の世界を探しに行こう」で終わります。暗い情念が覆うような時代に海外渡航の夢をともしてくれた歌でもありました。

(スガジイ)

2018年1月27日土曜日

1月26日

平成30年の今年は《明治150年》にあたります。NHKの大河ドラマは「西郷(せご)どん」です。薩摩の人々は今でも郷里の英雄は西郷隆盛であるそうです。大久保利通といおうものならとんでもないと叱責されるといいます。

確かに西郷は江戸の無血開城を成し遂げ、新政府に入れられなくなった時に身を引いて華々しく散った、こんなところが魅力かもしれません。私は大久保の清濁併せのんで国家の近代化にまい進した姿も好きです。

世界は帝国主義の真っただ中で、日本も西欧列強の植民地化の危機にあったまさに弱肉強食の時代でした。徳川幕府の統治力に衰えが見えた時、薩長を中心とした地方の雄藩が立ち上がって旧体制に挑戦し、新国家建設に成功した革命でした。

日本の維新は地方分権的な幕藩体制から、中央集権的国家体制へのシステム転換ですが、ネパールは今この逆の地方分権化へ舵を切ったところです。市町村首長はすでに職務につき、7人の州知事も先週任命されて任地に向かいました。新憲法の規定では2月初旬には初の州議会が招集されます。

早速、知事たちの嘆きが聞こえてきます。ある知事は「仕事の法的行政的基本を習得するため」カトマンズに帰ってきました。他にいわく「仕事を習得する環境を整えてくれ」、「25人のスタッフが必要だが13人分の事務所スペースしかない」云々。

中央政府は地方政府の職員を中央から派遣することにしていますが、任官拒否をあからさまにする人たちですのでうまくいくか心配です。政府も希望退職のかたちをとって「首にするぞ」と脅しています。カトマンズに親しんだ人にとっては地方の不自由な生活はつらいものがあります。子供の教育のため単身赴任する人も多く見かけます。

地方には人材が少ないのです。しかし、ネパールの地方分権成功のカギはエキスパートの派遣で済むものではなく、地方の『民度』を向上させることにあります。教育や経済のレベルをいかに上げるかにかかっています。

いつまでも気に入らない施策に対してバンダ(ゼネスト)や暴力で抗議するばかりでは分権化の実を自ら放棄するようなものです。住民がはぐくむ地方分権があってこそカトマンズとの格差を解消する原動力になるものと思われます。

明治の近代化は『廃藩置県』という既得権の喪失を乗り越えて実現しました。植民地化の危機感をばねにして、国のリーダーと国民の共有しえた『国のかたち』があったに違いありません。


(スガジイ)

2018年1月19日金曜日

1月19日

新春のバスツアー『初詣三島大社』に参加しました。伊豆と駿東を巡る旅です。

1時間乗ってまずは韮山のいちご狩りです。以前は水稲栽培の田んぼがハウスに代わっています。12月から翌5月まで楽しめるようで、ブランドは『伊豆ほっぺ』。安倍首相の中東歴訪時のお土産であったのがウリです。実は大きくありませんが、甘さは程よく練乳は必要ありません。病気対策は農薬使用量を抑えるため天敵の昆虫を利用しているそうです。この日は少数の客しかいませんでしたが、2月の河津桜の時期は連日大賑わいといいます。地域の観光資源のシナジー効果といえましょう。

韮山は源頼朝が配流の後旗揚げした蛭が小島と、江戸時代の製鉄用反射炉で有名です。私の父方の祖母はこれより南の大仁の出ですが、早くなくなったために面識はありません。城山(じょうやま)のふもとの実家には子供のころ伯父と訪れました。昭和30年代の狩野川台風で大きな災害にあった土地です。

我がカトマンズ郊外のカカニもイチゴの産地です。長野のNGOであるJAITIがこの地にイチゴを導入したのはもう20年も前でしょうか。カトマンズでイチゴを賞味できるのは衝撃的でした。ネパールの人にも受け入れられて、カトマンズの路上でも販売されるようになりました。そして2年前に姫ベリーが新たに登場します。ナシ、カキに続く日本品種導入のヒットです。カカニはニジマス養殖も知られていますが、観光農漁業まで発展できないでしょうか。

韮山の後は清水町の柿田川湧水です。富士山に降った雨雪が地下に浸透して十数年たって地表に湧き出る地です。かつて隣の三島市を流れる川にも河藻が生い茂った清い水が流れていたものです。高度成長期に工場を誘致して地下水を過剰にくみ上げたために、川はすっかり貧相になってしまいました。わがバガマティ川もキャンペーンばかりの口先でなく何とかしたいものです。

三島は東海道の箱根越えをひかえた宿場町として発展しました。「♪富士の白雪ノーエとけて三島に流る」で始まる『農兵節』をご存知でしょうか。大社前の広小路は飲食店、土産店で相変わらずにぎわっています。三島大社のおみくじは「吉」でした。


(スガジイ)

2018年1月12日金曜日

1月12日

新春の知らなかった体験三題、時代遅れで恥ずかしながら。

ウイーンフィルの《ニューイヤーコンサート》がNHKEテレでライブ放送されました。《紅白歌合戦》のような恒例行事で新鮮味もなく、毎年出るCDで聞いていましたが、それでも最後の定番2曲「美しく青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」をきくと彼の地に憧れます。驚いたのは5日の新聞に来年の鑑賞ツアーの募集広告が載ったことです。12名限定です。ツアー料金が150-200万円なのにさらにびっくり。コンサートホールの日本人と思しき観客が少なからず映し出されていました。ネパールに西洋クラシック音楽が普及するのにはまだ時間を要しそうです。

妻の実家に新年のあいさつに行く小田急線の中の出来事です。近くの席で突然とてつもなく大きなアラーム音が鳴り響きます。事故でもあったのではと心配になります。車内放送で地震の発生の知らせがなされました。スマホのアラーム音であったようです。地震の初期動を検知して警報を伝えるサービスがあるのを知りませんでした。震源地は茨城沖と富山西部の同時刻の発生です。その晩遅く千葉県西部を震源とする地震と明け方の伊豆半島沖地震を自宅で感じました。

ネパールでは頻度は低くとも規模が大きいのでこのサービスは有効かも。洪水予警報システムはあります。ロルパ氷河湖を水源とするタマコシ河に整備されています。氷河湖決壊による洪水から住民を守るためのもので、数年前誤作動により住民が避難したことがありましたが、住民のシステムへの認知度、信頼度が高いものと確信しました。

最後は新宿のデパ地下の話題です。私もデパートで買い物はしますが、食料品売り場には縁遠いものがあります。まず人ごみに息が詰まります。多くが女性の買い物客です。お総菜コーナーを見ます。折詰ご飯の店が20近くあるでしょうか。それぞれ特色あるメニューを売りにしてどれをとっても食べたくなる趣きです。販売競争を想像するだけで圧倒されてしまいます。

我がカトマンズにもファーストフード店が増えました。ダルバート、インド料理、モモが代表でしょうか。セクワやタースの店先の匂いもなかなかです。目で見て楽しめる料理の工夫が望まれます。


(スガジイ)

2018年1月5日金曜日

1月5日

明けましておめでとうございます。皆様、健やかに新年をお迎えのことと思います。

私は日本の自宅で新年を迎えました。妻とすっかり耳が遠くなった愛犬ニマと三人で。

1219日:早朝に羽田着。JICAAさん、ご近所のYさんと同便。カトマンズでひいた風邪でのどを痛めて声がガラガラ。

1220日:町内耳鼻咽喉科で鼻のアレルギー治療。カトマンズの大気汚染が恨めしい。

1222日:4月以来不調の胃の腫瘍検査を隣県のがんセンターで受診。発症稀な腫瘍とのことで327日の手術を予約。手術前検査を各部署で手際よく実施、入院カウンセリングも。

1225日:上京。Y福祉財団で医療プロジェクトの打ち合わせ。銀座山野楽器店でシベリウス『交響曲第25番』、スッペ『序曲集』ほかCD購入。神田古書店悠久堂でエルゾーグ『処女峰アンナプルナ』、黒住格『ネパール神々の大地』購入。N社でネパール水力発電案件検討会。新宿で会社時代の同僚と食事。

1226日:カトマンズ以来の体調不良が不快で町内内科で検診。病院や薬局で年寄り対応されるのが不愉快。スラックス購入。35年維持してきた体重がこのところ10㎏増加しウエスト94㎝に。

1231日:NHK紅白歌合戦。酒を飲みながらのウトウト状態。菩提寺『城願寺』で年越しの法要と除夜の鐘。おいしい樽酒のふるまい。本堂に実弟の十三回忌の告知が出ている。

11日:沖縄から送ってもらった泡盛古酒でお屠蘇。出来合いのおせち重は見た目はいいが、妻手製の野菜の煮しめ、なますがおいしい。郷社五所神社に初詣。平安時代に加賀の国二見某氏が町を起こし勧進したとのこと。二見姓は多くはないが親戚に一軒、同級生に二人いる。

12日:『関東大学箱根駅伝』のテレビ観戦。往路は東洋大学が優勝。続いて大学ラグビー準決勝。明治と帝京が決勝へ。明治は不祥事から立ち直るのに20年かかったか。

13日:駅伝復路。山下りでトップに立った青学が総合優勝で4連覇。古豪早稲田は3位と健闘するも順天堂、中央等伝統校がシード落ち。

15日:妻の実家へ年始に上京。義母は94歳で医者いらずながら軽度の痴呆症。
今年もよろしくご愛顧のほどを。


(スガジイ)