2020年4月23日木曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #138


独りよがりの罪

3月中旬の土曜日寒い朝だった。わが町と箱根の境界の山々には雪が降っている。翌日の朝はあられがふった。そんな中で庭のシダレザクラが花をつけはじめた。冷たさに目が覚めたものと思われる。

去年の夏に、このシダレザクラとソメイヨシノそしてモクレンの大枝を払ってもらった。隣近所から落ち葉の苦情が来たためである。そのため今年の花はなにかさびしい。モクレンといえばここ数年花をつけていなかったが、選定したためか今年は4輪の花をつけた。樹下にはハナニラの白が敷き詰められる。素朴だが力強さがある。

朝空が白むころになると餌場の周りの高い木の梢には野鳥が集まってきて催促する。メジロ、ツグミやシジュウカラだが、暖かになれば山に帰っていく。ドバトは一年中つがいで通ってくる。

翌月曜日に神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で20167月に起こった19人を殺害し、26人に重軽傷を負わせた事件の第一審判決があった。被告は以前この施設に勤めていた。当時は「介護職を天職である」と語っていたという。

犯行の動機を判決の要旨(17日付の読売新聞)から転載すると「職員が…利用者を人として扱っていないように感じたことなどから、重度障碍者は不幸であり、その家族や周囲も不幸にする不要な存在であると考えるようになった。自分が重度障害者を殺害することによって不幸が減り、重度障害者が不要であるという自分の考えに賛同が得られ、重度障害者を『安楽死』させる社会を実現し、重度障害者に使われていた金を他に使えるようになるなどして世界平和につながり、このような考えを示した自分は先駆者になることができる」と認めている。判決は死刑であった。

「意思疎通のとれない重度障害者は人間でない」との思いがどのように形成されていったのか、裁判で解明されなかった多くのことを知ることはできないのだろうか。ネパールで視覚障害児の福祉に取り組んでいる私にとってネパール社会に対応するうえで重大な関心事である。

「快点起来説謝謝中国」(さっさと起きて、中国よありがとうと言いなさい)中国新華社通信の記事のタイトルだそうだ。中国が感染源とは確認されていない、中国は一番の被害者だ、世界を救うために多くの犠牲を払ったといいたいのだという。(ニューズウイーク日本版324日号)

今朝は米国務長官と中国の外交責任者が電話会談で互いを非難したとの報道があった。中国の報道は米軍が武漢にウイルスを持ち込んだとしている。国家主席も感染源がどこか不明であると公言している。世間では武漢で発生した新型コロナウイルス肺炎を地元と中央の官僚の硬直化と指導者の鈍感さがもたらした事態の隠ぺいと対処の遅れによって拡大したとの見方が一般的である。

少し古い話だが、私は1985年から天安門事件(1989年)まで中国の広い国土をプロジェクトや営業で歩いた。交渉事ではしばしば不愉快な思いをした。相手に勝つことが至上命令なのであろう、明らかに「嘘」だと思われることを強弁するのである。一度や二度ではないことからこれが中国式論理であり交渉術なのであろうと割り切るのだが後味の悪さだけが残った。

障害者殺傷事件と同列に論ずることは適当ではないかもしれないが、独善的な思考回路は共通するところがあるように思われる。

2020318日)