2023年11月13日月曜日

逍遥 都市と緑の空間 #171

 

都市と緑の空間

 

9月下旬やっと秋の気配がしてきた一日に青山で打ち合わせがあったので、ノスタルジーに駆られて明治神宮外苑を歩いた。銀杏並木から絵画館の外周道路を経てJRの信濃町駅まで。途中でドングリを拾いながら。ここは学生時代の運動部のトレーニングの場であった。歩きながら、高校野球の監督がいった「青春は密である」との名言がうかび、半世紀も昔の苦しいばかりの思い出に浸った。 

 

この神宮外苑の再開発事業が問題となっている。事業は野球場とラグビー場の外苑内での移転と高層商業ビルの建設である。「気軽に訪れ楽しめるまちづくり」をうたい人々が行きかうモール型の回廊もつくられる。パースを見る限り現状の景観はそれほど変更がないように見えるが、地平からの視線ではどうなのだろうか。樹木を900本伐採して新たに1000本植えるのだという。銀杏並木はそのまま残す。

 

山手線の内側には新宿御苑、上野恩賜公園、北の丸公園、日比谷公園、外山公園等の緑地がある。23区内にもそれぞれ公園があるので、東京という都会は私がイメージしていたよりも緑が多い街である。樹齢を重ねた森は動物たちの住処(すみか)でもある。伐採後に植樹すれば済む問題ではない。生き物たちは環境の変化に速やかに適応できるほど強くはできていない。

カトマンズの緑地はどうだろうか。市の中心にラトナパークがある。ラニバリ、パシュパティナートの森がある。以前はラナの旧居の周りには大きな木があったので昔はそれなりに緑があったのであろう。主要道路に沿った街路樹はマオイスト内戦時に伐採してしまった。軍のオペレーションに支障があったものと思われる。これだけでも街の雰囲気が変わってしまった。

 

中世の街並みは計画してつくられたものであろう。家並みも整然としているし、水場があって、下水道網が整備されており、今でも生きている。憩いの場としての公園という発想はあったのだろうか。人々がくつろぐ場はネワール建築に特有な共有空間の中庭であり、寺院の境内であったのかもしれない。

 

アパートの窓から夕方きまって鳥が西から東に群れをなして飛んでいくのが見られる。半端な数ではない。鳥たちのねぐらはパシュパティの森なのだろうか、あるいはもっと遠くのバクタプールやスルヤビナヤクまで帰るのだろうか。ナラヤンヒティ王宮の木々にはかつてあまたの蝙蝠が住んでいたが、80年代末には見られなくなった。車の騒音なのか排気ガスの影響なのか。

 

仏教には共生の概念があるという。同時代の人々という視点をこえて、過去から未来へ続く命の共生を目指す。しかも一切衆生というがごとく生きとし生けるものすべての共生をいう。互いに支えあうことでよりよい社会をつくることができる。互いに生きていくために必要なものである。

 

途上国の開発に長年携わってきたが、共生という視点を常にもっていたかと問われると自信が揺らぐ。これから何ができるだろうか。

 

20231113日)

2023年10月11日水曜日

逍遥 少年老い易く #170

少年老い易く

 

全国紙一面トップは大谷翔平の米大リーグホームラン王の話題であった。社説も大谷。わが日本人にとってけた外れの偉業であるにちがいない。オフに繰り広げられるFAの契約金額の憶測もまた夢みたいな話である。右ひじの手術をするも来期はバッターでの復帰が可能とのこと。前途洋々である。

 

前号でも書いたが、2月から痛み出した脚の治療に病院に行った。幸いわが町には雛にはまれな国立の整形外科病院がある。MRI撮影の結果腰部脊柱管狭窄症(椎間板ヘルニア)と診断された。 鎮痛剤と血流促進剤が投与された。遅まきながら《老い》を意識するようになる。山口瞳はこれを「老いるショック」といった。もう50年前の話である。

 

本屋には各種病気ごとの対処法の本が並んでいる。この種の疾病が多いのだろう。治療のための呼吸法やストレッチが紹介されている。この手の勧めにはすぐに乗るがいかんせん三日坊主である。そうこうするうちに左脚のしびれや痛みが増してくる。9月に入ると右脚の痛みが急激にいたくなる。左脚は嘘のように痛みが引くが歩くのも困難になる。医師に相談しても、鎮痛剤を増量するには腎機能の低下があるところ勧められず、入院して安静にするか手術をするか選択せよとつれない。年寄らしくおとなしくしていろというわけだ。不愉快になる。

 

Y福祉財団等の依頼で2017年から子どもの眼の疾病、障害の治療を支援するプロジェクトを続けてきたが昨年で打ち切られた。ネパールでも後進地域の村からの女性を選抜して100人の女性教師を育成した日本のNGOの協力のもとに、これらの女性教師の学校単位でプロジェクトを実施してきた。資金源がなくなったとはいえ、各地から継続の期待が高まっている以上、事業の継続の要望を無視できなくなり、無謀も顧みずに新たに事業実施組織をつくる蛮行に出た。

 

この時期に、イージーゴーイングな性格の私はいつものごとく「何とかなるだろう」とNPO法人設立の準備をしていたのだが、さすがにこのまま突っ走っていいのだろうかと体調不良と老いの弱気にプレッシャーを感じる。ある晩、二階への階段を上っていたとき、最後の一段で左脚が体を支えきれなくなり下まで滑り落ちた。ここまで身体が老いていたのかと愕然となる。翌日から筋トレに励むと、今度は腰に負担がかかりすぎて腰痛を発症する。なんとも度し難き76歳の老体である。

 

さて、悩みながらも周囲の人たちからNPO法人設立協力の快諾をいただいていることから、今更やめますとはいいだしにくい。

 

県のNPO法人担当窓口と相談しながら認可申請手続きを進める。一通りの申請書類を作って提出するが、その都度修正を迫られる。さすがに役所の要求する文書は理路整然として納得である。意外に思ったが、県の窓口担当者は辛抱強く懇切丁寧に書類の修正を指導してくれる。コロナ禍が尾を引いているところ、コミュニケーションは郵送とメールのやり取りである。県の担当者に会ったのはただ一度認証書の交付の時であった。お上としては郵送ではありがたみが薄れる。痛い足を引きずりながら横浜まで行く。

 

次の関門は法人登記を担当する法務局である。ここも相談は予約制で2週間も待たなければならない。インターネットで検索したNPO法人登記の手続き情報を出している司法書士事務所によると法務局は難関の役所という。それはそうであろう、手続きが簡単といったら司法書士の商売にならない。こわごわと法務局に行った。司法書士情報にのっとって書類を整えていったが、法改正で修正を求められる。ここでの驚きは申請書類の修正は係員のいう通り手書きすることで済んだのである。係員が修正箇所に法人印をべたべたと押して完了。その手際のいいこと、拍子抜けであった。一方で忙しい役所としてはNPOごときに手間をかけてはいられないことかと天邪鬼になる。

 

かくして事業継承の体裁は整ったわけである。事業は、継続事業として子どもの眼のケアー、新たに疾病予防としての学校の衛生環境の整備、不登校児童の学業への復帰支援、防災啓蒙等てんこ盛りであるが、大きな目標として貧困や障害によって社会からドロップアウトせざるを得ない子どもを教育や職業技能訓練する施設を運営して将来の国を創る人材を輩出すると大風呂敷を広げている。組織の名称を「ヒマラヤの星たち」とした。読者諸賢の参加を切にお願いするしだいである。

 

2023106日)

2023年5月3日水曜日

逍遥 呪術師のこと #169

 

呪術師のこと

 

朝気持ちよく起床できる季節になった。我が家の庭には妻が丹精した花がここぞとばかりに咲いている。夏ミカンの花が初夏を感じる強い芳香を放っている。5時には明るくなり、野鳥のえさやり、プランターの野菜、鉢植えの草花への水やりも苦にならなくなった。

 

実は2月に太ももにしびれが出て、3月には腰が痛くなった。4月にゴルフを一緒にプレーした友人は、同じ症状だが整体治療で治したという。坐骨神経痛とのことである。かかりつけ医の紹介で整形外科に行く。レントゲンやMRI撮影の結果、椎間板ヘルニアとの診断であった。整体治療では治らないという。

 

曽野綾子のエッセイ「貧困の僻地」にモザンビークの呪術師の話がある。PKOで駐屯している自衛隊医務官との話で、医務官は現地の患者は自衛隊診療所には多分来ないだろうという。医者にみせるより呪術師のところへ行くのだそうだ。

 

この話を聞いて50年前のオカルドゥンガ郡ルムジャタール村でのある日のことを思い出した。19726月にこの村を訪問して調査の地と決めた。テーマは農地制度であった。ラムサンゴまでバスに乗り、7日かけて着いた村はまさにタール地形(段丘)の豊かな村であった。帰途はスンコシを渡り、ウダイプール郡カタリ村から乗り合いジープでオフロードをジャナカプールに出て長距離バスでカトマンズに戻った。8月に再び村に入り翌年8月まで住み着いた。

 

まだ電気もない時代である。オカルドゥンガバザールまで徒歩で2時間、そこからユナイテッド・ミッションの診療所があるテカンプールまで1時間かかる。診療所には伊藤先生夫妻とお子さん3人がいらして、時おりお邪魔しては日本語を話すことで癒された。オカルドゥンガバザールには毎土曜日にハート(定期市)が開かれ、観察がてらしばしば買い物に出かけた。

 

ルムジャタールはグルン族が先住のライ族を追い出して定住した村である。プリトゥビ王がカトマンズ盆地を征服したときに、その手勢が勢い余ってか東部に進出してオカルドゥンガ郡のほか東隣りのコタン郡の3集落に定着した。母語のグルン語はすっかり忘れ去った。パルバティヒンドゥ―やネワール商人が少数住んでいる。

 

村のグルン族はネパールの五大美人と唄に歌われている。ビレンドラ国王にはお兄さんがいることはあまり知られていない。王宮に仕えていたグルン娘にマヘンドラ国王が生ませた子である。この人はカトマンズに住んでいたが、村人はラニ・サーブと呼んでいた。お住まいを訪ねたことがある。品のいい顔立ちと振る舞いが印象に残っている。

 

ある日、村一番の器量よしがなくなったという噂が広まった。熱が出て下痢が始まり、3日寝込んでなくなったという。家族は何の手当もしなかったらしい。死をすんなりと受け入れる人たちであることをこの時知った。

 

私が間借りしていたグルンの敷地の家作にネワール族の未亡人と母親が暮らしていた。ご主人はグルカ兵としてインド軍に加わり、印パ戦争で亡くなったという。弔慰金も年金も受け取ったためしがないと憤るが、今も昔も途中で消えてしまうのは変わりない。ロキシー(ネパール焼酎)をつくって生計を立てていた。私も上客の一人である。

 

この母親の容体が悪くなった。私は背負子に石油缶を付け毛布を敷いて伊藤診療所に担いで行くことにした。しかし母親は頑としてこれを拒んだ。「病院に行くと殺される」のが理由と分かった。村のヘルスポストにはほとんど薬がなかった。村人は危険な様態になって初めて病院に担ぎ込む。病院に着いたときは手遅れが多いのだそうだ。病院で死ぬ人が多いので「病院は死ぬところ」と決めつけられる。今では郡ごとに国営の病院があるが、当時はそうではなかった。

 

翌日いわゆるジャンクリ(祈祷師)が来てお祈りが始まった。呪文を唱えて太鼓をたたく。卵で体をさする。母親は気持ちよさそうに身をゆだねている。翌日会うとしゃきっとしている。今でこそヒーリング効果というのだろうが、当時はドクターサーブよりジャンクリの信頼が厚かった。

 

祈禱が終わって謝礼として出されたロキシーを飲んでいた。私もご相伴にあずかり世間話をしているうちに、ジャンクリ氏は突然椅子から転げ落ちて、そのまま寝てしまった。よほど身を入れて祈祷をしたのだろう。エネルギーを使い果たしたようだ。

 

202353日)

2023年3月13日月曜日

逍遥 うんちく《ネパール》(下)#168

 

うんちく《ネパール》(下)

 

2000年の私は大みそかから元旦の朝まで会社に泊まり込んでコンピューターの世紀替わりの異変事故に備えていた。結局何も起こらなかったのだが、300人を超える海外勤務の社員の万が一の事故に対応するためであった。元旦の朝には心優しい役員がおせち料理を届けてくれた。その彼が昨年クリスマスの日に亡くなったのが惜しまれる。

 

2001年に2回目のネパール事務所勤務となり、妻を帯同した。長男がなくなり、娘がアメリカ留学中であった。妻とは1974年にスワヤンブー寺院のアーナンダクティで結婚式を挙げて1年間住んで以来である。

 

この頃はシンズリ道路建設がマオイスト内戦のなかでも関係者の奮闘で順調に進んでいた。本社勤務時に同プロジェクトの安全対策を現場にお願いしており、現場は誠実に実行してくれた。着任翌日に大使館担当者から呼び出しがあり安全対策を問われた。前線のキャンプをドゥリケルまで下げたらどうかと提案し、コンサルタントとコントラクターに指示が出された。往復3時間以上が余計にかかるため、両者からは大ブーイングが出たが実行してくれた。その1か月後にキャンプ前の警察官詰め所がマオイストに襲撃されてキャンプも被害を受けた。もしキャンプにとどまっていたら工事は和平が成立するまで中断したか工事自体が中止となったと思われる。関係者にはご苦労を掛けたが、この措置に間違いはなかったと思っている。

 

うんちく《ネパール》の続編をどうぞ。

 

そろそろ山の話をしましょうか。ポカラへの飛行便はぜひ右側に座ってください。カトマンズ空港を飛び立つとすぐにランタンリルンのピラミッドが目にとまります。水平飛行に入るとガネシュ山群です。そしてマナスル三山。あっという間にアンナプルナ山群が近づき、ダウラギリまで視野に入ります。180㎞、25分の飛行が終わります。ポカラはカトマンズより標高が500m低いので少し暑く感じるでしょう。飛行場から見上げるマチャプチャレとアンナプルナに大感激間違いなしと思います。案内図と見比べて山名を確認してください。ネパールの国花であるラリグラス(石楠花)もまだ見ることができると思います。カトマンズ外周のナガルコットからは東のガウリシャンカールの双耳峰まできれいに見渡せます。双眼鏡をお忘れなく。山の写真を撮るなら200㎜のレンズと三脚をお持ちください。広角も有効です。一日の行動時間が少ないので、写真を撮る時間はたっぷりあります。フィルムは多めに、そしてお酒も多めに。

 

帰りはカトマンズでのんびり過ごしてください。バンバンレストラン(中華)の高久幸雄さんは山学同志会のメンバーで小西政継さんたちとグランドジョラス北壁の冬季登攀を成し遂げました。奥さんの多美子さんがニワニバロッジの女将です。お二人とは1972年にカトマンズでお会いして以来の朋友です。おいしいネパール料理を作ってもらったらいかがでしょうか。トランスヒマラヤンツアーの宮原社長にはネパールのことなら何でも相談してください。5年前、還暦エベレスト登山に挑戦して南峰まで到達したスーパーマンです。ポカラを基地としてアンナプルナを周回するエコツアー開発を計画しています。串藤レストラン(和食)の女将君代さんは9年前に亡くなった無二の親友ランジャン・バッタチャリアの未亡人です。昔々、テレビ放送初期の頃オリエンタルカレーのCMに出ていた人を覚えていませんか。“インド人もびっくり”といっていたのがランジャンです。“ミトチャ(おいしい)、“ミトボヨ(ごちそうさま)”。

 

書いているうちに話が冗長になりました。集約すると、①ネパール人のひとのよさ、素朴さ(もちろんビジネスでこれを期待してはいけません)、②自然の壮大さ、美しさ、神々しさ、③ヒマラヤ王国の独自の文化、現代社会から少し遅れた文明ギャップの中で精神的な〈癒し〉効果、ではなかろうかと独断的な分析をしています。皆さんもどうかご自身の肌で触れて120%ネパールを味わってください。では、“ラムロ・シタ・ジャノス(お気を付けて行ってらっしゃい)”。 (2000331日)

 

202326日)






2023年2月26日日曜日

逍遥 うんちく《ネパール》(中)#167

 

うんちく《ネパール》(中)

 

このエッセイを寄稿した2000年はどんな時代であっただろうか。 米国では共和党のジョージブッシュが大統領選に勝ち、ソ連崩壊から10年がたったロシアでは今では世界の悪役を一身に担っているプーチンが大統領となった。 ユーゴスラヴィアが東欧で最後に非社会主義独裁国となったのもこの年である。

 

ネパールではマオイストの戦線が東部に広がる中、ギリジャ・コイララ内閣が発足したが、何年にもわたって首相が毎年変わるという不安定な政局が続いた。カトマンズではマオイストが脅迫によって民間企業や個人から資金を調達するようになり、市民は恐怖におびえた。翌2001年には王宮惨殺事件が起きた。シャハ王朝の終わりの始まりの年であった。

 

では引き続きうんちく《ネパール》をご笑読ください。

 

チベットのカルマパ17世がネパール経由でインドに亡命しました。中央ヒマラヤに古代から開かれているインド・チベット交易路(18か所の峠道)のどれかをたどったものと思われます。カトマンズは最大の中継交易都市として栄えました。冬はヒマラヤの峠が雪で閉ざされ、夏の雨季にはインド国境のジャングルが通行不能となるため、中継デポットの役割を果たしたわけです。ポカラもその一つです。皆さんのトレッキング・ルートの一部もこの交易路です。ポカラからアンナプルナとダウラギリのはざまを流れるカリガンダキ河に出て、川沿いにムスタンに上がり、峠を越えてチベットに入ります。ひょっとしたら鈴を響かせたラバやヤギの隊商と出会うかもしれません。チベットからは羊毛や岩塩を輸入し、インド・ネパールからは穀類や香辛料が輸出されます。

 

この商権を握っているのがタカリー族です。日本人にそっくりで、チベット・ビルマ語系のタカリー語を話す民族ですが、せいぜい5万人くらいしかいません。本拠はカリガンダキ河上流のツクチェという小さな村です。富山県の利賀村と蕎麦が縁の姉妹村です。タカリーのスッバ(族長=徴税吏)だった故インドラ・マン・セルチャン氏から、河口慧海がチベットに潜入する前に彼の家で勉強したこと、大蔵経全巻を所有していることなどの自慢話を伺ったことがあります。商才に長け、教育熱心な民族です。

 

ネパールには100を超える言語があるといわれています。言語学者はこれらの言語の記録と、未知の言語の発見に力を注いでいます。ラジオや教育の普及とともに、民族固有の言語が忘れられているからです。ポカラや周辺にはグルン族という民族がいます。30年近く前、小生が農村調査で住んでいたグルン族の村がありますが、彼らは一言のグルン語も知りません。東部山地にグルン族の村があること自体が不思議ですが、プリトゥビ王のカトマンズ遠征の際、勢い余って東部のライ族の一派ルムダリライの土侯を滅ぼして定着したものです。200年余りで言語を忘れてしまった事例です。カトマンズから徒歩で7日かかります。

 

民族の話はつきないのですが、民謡の一つを紹介しておきましょう。『美人といえば、カトマンズのネワール娘、ルムジャタールのグルン娘、シンドゥーパルチョクのタマン娘、タコーラのタカリー娘、そしてテライのタルー娘といわれているよね、だけどこれら5つの村を訪ねてみたけど、一人の美人にも出会わなかったよ』本当はいるのです。これら4つの民族はチベット・ビルマ語のモンゴル系です。子どものお尻に蒙古斑もあれば、顔も日本人によく似ています。タルー族はちょっと違いますが。ご自分がどの民族に似ているか確かめてください。きっとソックリさんが見つかるはずです。素朴でお人好しであるのもよく似ているのでは。“ムク・エウテイチャ(顔がそっくりだ)”といってみてください。

 

ネパール語はインド・アーリア語系に属します。モンゴル系の民族が古い時代に北から南に移動したのに対し、比較的新しい時代に西から東に移動した民族がもたらしたものです。インドのヒンズー語やパキスタンのウルドゥ―語と兄弟語です。挨拶の“ナマステ”とありがとうの“ダンニャバード”、ご機嫌いかが“カストチャ”、元気です“ラムロチャ”、そして1から10の数くらいは覚えておいてください。エク、デュイ、ティン、チャール、パンツ……。

 

彼らはまたヒンズー教も持ち込みました。もともと土着信仰やラマ仏教を信仰していたモンゴル系民族もかなりヒンドゥー化しています。 二重三重の多重信仰をもっている民族も少なくありません。結婚式を神社で上げ、葬式をお寺で出す私たちには容易に理解できる信仰構造です。カトマンズのスワヤンブーナートとボードナートは見ものです。ヒンドゥー教の聖地パシュパティナートはインドからの多くの巡礼者でにぎわっています。(2000331日)

 

202326日)

2023年2月16日木曜日

逍遥 うんちく《ネパール》(上)#166

 うんちく《ネパール》(上)

 

今日は立春である。湯河原の我が家の陽だまりは眠気をもようすほど暖かい。昨日は節分で今どきはやりの「恵方巻」を食べた。この歳になってまだ「運気」を求めるほどあさましい自分がいる。

 

20005月に学生時代の仲間がゴラパニにトレッキングに行った。山登りはお手の物である彼らは、毎日の行程が短く体力を持て余して、持って行った酒が3日ともたなかった由である。いくつになっても若い時のままの不良中年であった。

 

彼らの山行企画書に寄稿したネパールのいろはをここに紹介する。20年前のネパールはこんなものであったと思いだす人がいてもよし、そんな時代だったのかと思いをはせる人がいることを期待しつつ。

 

世に「ネパキチ」と呼ばれる種族がいます。ネパールに魅了され、ほとんど中毒症状を呈している人たちです。今から「ネパキチ」候補生の皆さんに、ネパールの魅力を断片的ながらお教えします。ジグソーパズルをつくるように、旅行中に全体像を結んでください。

 

5月初旬のカトマンズです。強い日差しの中に紫の花をいっぱいに咲かせたジャガランタの大木が、街の通りに心地よい日陰をおとしています。大通りからアサントールに足を踏み入れましょう。ここからハヌマンドカ旧王宮まで今でも庶民経済の中心である中世の街並みをぶらぶらと歩いてみてください。買い物をしながら。“カティ・パイサ(いくら)”“マンゴチャ(高いじゃないか)”、“サスト・ガルノス(やすくしてよ)”で十分。

 

カトマンズ盆地には紀元前から多くの王朝の勃興がありました。今ご覧になった街は14世紀末期から18世紀に栄えたマラ王朝時代につくられたものです。この王朝は15世紀半ばに兄弟の相続争いで3つに分割されます。カトマンズ、パタン(ラリトプール)そしてバドガオン(バクタプール)です。ヴァスコダ・ガマがインドに達したのはこれより50年後のことです。

高台のパタン王宮の背景はゴサインクンドやランタンヒマールです。バドガオンは街全体が遺跡保存ではなく生活の場として体温が感じられます。ナガ―ルコットのニバニワロッジへの道筋ですので、皮膚感覚で味わってください。この頃の王朝の統治はまだカトマンズ盆地の外には及んでいませんでした。ムスタン王国を除くネパール全土を統一したのは、次のシャハ王朝(現王朝)の19世紀初頭です。地方の人たちは、いまだにカトマンズをさしてネパールといっています。

 

興味ある逸話をご紹介しましょう。シャハ王朝はカトマンズとポカラの中間に位置するゴルカの土侯でした。カトマンズまでの道のりは約100㎞です。カトマンズを征服したプリトゥビナラヤン王は、最初のカトマンズ侵攻で手痛い敗北を喫しました。ボロボロになって自国に引き上げる王に、茶店の老婆がタール(お盆上の皿)に満たした熱い粥をご馳走しました。空腹の王はいきなり粥に手を入れ、あまりの熱さに悲鳴を上げます。それを見ていた老婆が大笑いして、「粥はまわりからかき混ぜながら食べるもんだよ」、王は「カトマンズもいきなり攻めては落とせない」気が付きます。周辺の土侯を制圧し、カトマンズを制圧し遷都したのは王47歳の時でした。 (2000331日)

 

                           (202324日)