2023年2月16日木曜日

逍遥 うんちく《ネパール》(上)#166

 うんちく《ネパール》(上)

 

今日は立春である。湯河原の我が家の陽だまりは眠気をもようすほど暖かい。昨日は節分で今どきはやりの「恵方巻」を食べた。この歳になってまだ「運気」を求めるほどあさましい自分がいる。

 

20005月に学生時代の仲間がゴラパニにトレッキングに行った。山登りはお手の物である彼らは、毎日の行程が短く体力を持て余して、持って行った酒が3日ともたなかった由である。いくつになっても若い時のままの不良中年であった。

 

彼らの山行企画書に寄稿したネパールのいろはをここに紹介する。20年前のネパールはこんなものであったと思いだす人がいてもよし、そんな時代だったのかと思いをはせる人がいることを期待しつつ。

 

世に「ネパキチ」と呼ばれる種族がいます。ネパールに魅了され、ほとんど中毒症状を呈している人たちです。今から「ネパキチ」候補生の皆さんに、ネパールの魅力を断片的ながらお教えします。ジグソーパズルをつくるように、旅行中に全体像を結んでください。

 

5月初旬のカトマンズです。強い日差しの中に紫の花をいっぱいに咲かせたジャガランタの大木が、街の通りに心地よい日陰をおとしています。大通りからアサントールに足を踏み入れましょう。ここからハヌマンドカ旧王宮まで今でも庶民経済の中心である中世の街並みをぶらぶらと歩いてみてください。買い物をしながら。“カティ・パイサ(いくら)”“マンゴチャ(高いじゃないか)”、“サスト・ガルノス(やすくしてよ)”で十分。

 

カトマンズ盆地には紀元前から多くの王朝の勃興がありました。今ご覧になった街は14世紀末期から18世紀に栄えたマラ王朝時代につくられたものです。この王朝は15世紀半ばに兄弟の相続争いで3つに分割されます。カトマンズ、パタン(ラリトプール)そしてバドガオン(バクタプール)です。ヴァスコダ・ガマがインドに達したのはこれより50年後のことです。

高台のパタン王宮の背景はゴサインクンドやランタンヒマールです。バドガオンは街全体が遺跡保存ではなく生活の場として体温が感じられます。ナガ―ルコットのニバニワロッジへの道筋ですので、皮膚感覚で味わってください。この頃の王朝の統治はまだカトマンズ盆地の外には及んでいませんでした。ムスタン王国を除くネパール全土を統一したのは、次のシャハ王朝(現王朝)の19世紀初頭です。地方の人たちは、いまだにカトマンズをさしてネパールといっています。

 

興味ある逸話をご紹介しましょう。シャハ王朝はカトマンズとポカラの中間に位置するゴルカの土侯でした。カトマンズまでの道のりは約100㎞です。カトマンズを征服したプリトゥビナラヤン王は、最初のカトマンズ侵攻で手痛い敗北を喫しました。ボロボロになって自国に引き上げる王に、茶店の老婆がタール(お盆上の皿)に満たした熱い粥をご馳走しました。空腹の王はいきなり粥に手を入れ、あまりの熱さに悲鳴を上げます。それを見ていた老婆が大笑いして、「粥はまわりからかき混ぜながら食べるもんだよ」、王は「カトマンズもいきなり攻めては落とせない」気が付きます。周辺の土侯を制圧し、カトマンズを制圧し遷都したのは王47歳の時でした。 (2000331日)

 

                           (202324日)