2022年11月20日日曜日

逍遥  お釈迦様の聖地を詣でて#165

 お釈迦様の聖地を詣でて

 

モンスーンがダサインまで長びいたため、休暇明けに予定していた地方出張の予定変更を余儀なくされた。モンスーン末期の豪雨で山地部の道路が寸断されたためである。ロルパ、ダン、スルケット、ダイレク、カリコット、ジュムラを回る予定であった。

 

NPO法人日本ネパール女性教育協会がカピルバストゥ郡バンバンガで実施したポカラ「さくら寮」卒業の女性教師のフォローアップ研修に参加した。同協会が12年間で養成した女性教師100人のうちの任意の参加者である。この後ポカラでも実施されて、これにも参加した。この先生たちには私の「子どもの失明対策プロジェクト」を手伝ってもらっている。

 

カトマンズを出る前に、ロルパの道路事情を聴こうと、同郡から参加するカマラ・ダンギとバムクマリ・ブラマガールに電話をした。バムクマリとは電話がつながったがあいにくバスの中で聞こえが悪い。ロルパ郡の最奥地タバン村で診療所を経営している石田医師に電話をしたが普通である。メールの返事もない。あとでわかったが、豪雨で中継所の電源が切れた由。

 

山地部への出張をあきらめて空路バイラワ経由でバンバンガに向かう。空港から1時間半で着く。カマラもバムクマリもそれぞれ2歳と3歳の男の子を連れてきている。二人とも3年ぶりの再会である。バムクマリは道路寸断の写真を見せてくれた。村からのバスが不通となり危険な道を子連れでまる1日歩いてバスに乗ったという。彼女たちの子どもの頃は道路がなかったわけであるから歩くのが当たり前だったのだろうが、それにしてもタフな人たちである。

 

ポカラへの研修まで2日余裕があったのでカピルバストゥの仏跡を廻ることとした。前回訪れたのが1974年であったか1984年であったか思い出せない。当時ルンビニの聖地には曠野に摩耶夫人堂とそれに覆いかぶさるような菩提樹、お釈迦様が産湯を使ったといわれる聖なる池そして古代インドマウリヤ朝のアショカ王が建立した石塔しかなかった。訪れる人もほとんどいなかったように記憶している。聖地にたたずんだ私にとってはそれだけで十分すぎる祈りの場であった。ルンビニ聖地からティラウラコットのカピラ城跡までは当時は田んぼの中の細い未舗装の道路であったが、今ではタウリハワまで広い立派な道路が建設されており、途中にいくつかのバザール集落ができている。

 

ルンビニ復興が動き出すのは1967年当時の国連事務総長でビルマ(現ミャンマー)出身の仏教徒であるウ・タントがルンビニを訪れ、その荒廃ぶりに心を動かされたときに始まる。国連は丹下健三にマスタープランを依頼して78年に完成する。計画に沿って今では8割がた整備が終わっている。目を見張るような立派な施設が出来上がっている。だが新たに建設されたマヤ堂の前で無意識に昔のたたずまいを求める自分に戸惑った。

 

発掘作業終了後のマヤ堂再建については当初からの協力者である日本仏教会とユネスコのかつての祠のデザインに近いものとの案をネパール側が無視して通告もなしに現行の大型建造物としたようだ。内部は発掘後の状況が順路でみることができるようになっており、お釈迦様の誕生地を示すマーカーストーン(印石)の上まで導かれる。左上には摩耶夫人の釈迦誕生の石像が置かれている。

 

飲み友達であった考古学者上坂聡君の在りし日の姿が浮かんで目頭が熱くなる。2002年の彼が主導する調査隊による印石発掘は歴史に残る功績である。発掘作業におけるネパール側との調整作業は学者である彼の能力を超えたものであったと思われる。私の宿舎では泥酔するまで飲むのが常であった。彼の精神的ストレスを受け止めることができなかったことが悔やまれる。熱帯の厳しい作業環境も彼の体力を確実に奪っていった。翌年54歳で歴史に名を残して逝った。

 

ルンビニ開発をめぐる芳しからぬ噂は1970年代から耳にした。日本の政治家、怪しげな実業家そしてネパールの王室関係者。その後資金が集まるほどに利権をめぐる策動が繰り広げられてきたのだろう。近年ではロックフェラー財団の一員や米国不動産王、ネ王室の一員が名を連ねる香港を拠点とする中国のアジア太平洋協力財団なる団体にマオイスト党首が委員長につきルンビニ特別区開発構想がぶち上げられた。金の亡者たちが!

 

日が落ちようとしている聖地の「久遠の平和の炎」の向こうに伸びる運河、そしてさらにその先の日本山妙法寺大僧伽の世界平和仏舎利の白き輝きが示すものを想ってみたい。

 

2022113日)