2017年9月29日金曜日

9月29日

91日は関東大震災発災の日であり、防災記念日で、3日の日曜日には全国各地で防災訓練が行われました。わが町でも地区ごとに実施されわたしも参加しました。参加者は高齢者が多いのですが、長年不在にしていたので顔見知りは数人しかいません。

内容は、消火器の扱い方、放水訓練、三角巾の使い方、簡易担架の作り方や給水の実施方法でした。火災を対象にしたものです。たぶん全国一律のお仕着せプログラムなのでしょう。何か緊張感のないものでした。
この町は伊豆半島の付け根にあるところ、近い未来に必ず起こるであろう『東海地震』の震源地に近く、地震の揺れならびに津波による大きな被害が想定されています。海辺の地区には津波避難所が建設されました。我が家の位置は海抜18メートルで、東日本大震災規模の津波ですと、間違いなく被災します。

最近、北朝鮮は二度にわたり日本列島を飛び越えるミサイルを発射しました。ほんの数分の出来事です。政府は『Jアラート』なる避難情報を発出しました。瞬時に感知、発出する技術に覇驚嘆しましたが、受け手の国民の戸惑いも並大抵ではありません。
アラートの文言には避難すべき場所も含まれているのですが、一瞬の判断には『恐怖』の感情が先に立ちます。逃げることが判断の大きな部分を占めることは想像に難くありません。実際、対象地域の市民の中には「どうしたらいいのかわからなかった」という意見がありました。

瞬時の正しい判断は、日頃の広報と訓練の反復によるものが一番と思います。冒頭の訓練の中で、町長は『自助努力』を繰り返し説いていました。その通りなのですが、この行政の長は、行政がなすべきことがわかっているのだろうか、あるいは準備がすでにできているのだろうかと、少々頼りなさを感じたのも事実です。
2年前の地震で、我がカトマンズにおける震災に強いところ、弱いところが明確になりました。復興が徐々にではありますが進んでいる中で、私たち自身の身の守り方をもう一度考える時期に来たのではないかと思います。
(スガジイ)

2017年9月22日金曜日

9月22日


前回はナシ、カキのことを話しましたが、ジュナール(柑橘類)を語らなければ片手落ちになるでしょう。

ジュナールを初めて食べた時、その香り、ジューシーさにすっかり虜になってしまいました。当時はカトマンズの市場にたくさん出回っていたのですが、最近はとんと見かけません。

ジュナールはネパールの在来種ではありません。鎖国時代に政府高官が外国からひそかに持ち帰ったという話を聞いたことがあります。1971年に始まった『ジャナカプール農業開発計画(JADP)』は当時のジャナカプール県をテライから山岳部までを対象地域としていました。1976年にシンズリ郡で栽培されていたのをJADPの専門家が見つけて、のちに始まる『果樹開発計画(HDP) 』の対象果樹となりました。

シンズリ道路を北へ越えた北東斜面にシュレスタさんのジュナール農場があります。彼のお父さんがカブレのバネパからこの地に移住したのだそうです。近隣の農場と異なるのは、苗木の生産をしていることです。HDPが日本のカラタチを台木とした接ぎ木技術を教え、ウイルスフリーの苗木の量産化が可能になりました。

シュレスタさんはジュナール栽培技術を富安裕一さんから教わったと誇らしげです。富安さんは青年協力隊時代にカカニでダイコン栽培の普及に成功して、ダイコンは市場で「富安大根」と言い慣わされていました。ジュナール栽培で富安さんは15年間で100回以上の農村での巡回指導をしたそうです。富安さんの指導した技術は地元の篤農家に脈々と受け継がれています。

シンズリのジュナール組合では日本の援助でジュナールの冷蔵貯蔵庫を建設しましたが、おりしも電力不足で使われないままになっています。一方、シュレスタさんはエネルギーを使わない日本の伝統的な温州ミカンの貯蔵法を習得し、春の高値出荷に成功しています。

さて、ジュナールがカトマンズの市場に出回らないと言いましたが、それもそのはずです。インドのジュース業者が零細農家のジュナールを青田買いしているのです。農家にとっては出来高によらない安心感があるのでしょうが、適正価格が維持できないなかで農家経営が委縮しないか心配です。

(前回と今回は、JICAネパール事務所発行島田輝男著「日本人によるネパール農業開発協力の一断面」2006を参考にしました)

(スガジイ)

2017年9月15日金曜日

9月15日


8月に入ったら、果物屋の店先にカキやナシが並んでいました。いずれも小ぶりでした。
ナシはネパール語で《ナスパティ》、何となく連想しやすい語感です。村に行くと小さくて硬いイシナシがたわわに実っています。この季節、農家の庭先でごちそうしてくれます。

カキはネパール語で何というのでしょうか。私の古い友人の家の庭に渋柿があります。彼らは木に熟すまでおいておき渋を抜くようです。ある日、我が家に籠いっぱいのカキ持ってきてくれたので、妻が干し柿にしてお返ししました。この干し柿つくりは鳥との戦いだったようです。

ナシとカキの日本品種導入は、JICA果樹開発プロジェクト/フェーズ2で実施されました。1992-99年のことです。カトマンズ盆地とカブレ郡が対象です。ナシは豊水と長次郎、カキは甘柿が富有と次郎、渋柿が平核無です。

日本人会婦人部ではバクタプールになし狩りに行くのが恒例でしたが、いつのころからか病気が出て不作続きということで、立ち消えになってしまいました。せっかく根付いた高級果物なので技術を絶やさないようにしてほしいものです。

プロジェクトの後を継いだのが青年協力隊(JOCV)の諸君でした。毎年、盆踊りに秋の果物を出店してくれますが、今年が豊作であることを祈ります。

プロジェクトのリーダーが近藤亨さんでした。JICAプロジェクトに続いて、私財をなげうって「ムスタン開発協会」を設立運営し、ムスタン郡の果樹の普及に努められました。一昨年93歳で惜しまれながら亡くなりましたが、通称『コンジー』でした。『すがジー』は不遜にも跡を継いだものです。

コンジーのすがジー評は、「あんたはいい人なんだが、麻雀をやらないのがタマにきず」。80歳過ぎても徹夜麻雀にいそしんでいらしたそうで、妻は『起きたっきり老人』と揶揄していました。

店先で見たナシ、カキはネパールの在来種か、あるいは導入品種の管理が悪くて大きくならなかったものかもしれません。


(スガジイ)

2017年9月8日金曜日

9月8日

日本に帰ってきました。8月下旬です。あまりの暑さに体が動きません。カトマンズとは1-2度しか違わないのに、何かしたい気持ちが起こらないような意欲をそぐ気温です。体がこの気温と湿度に適応するまでどれくらいの時間が必要なのでしょうか。室内の冷房も影響しているのかもしれません。外気温との差に歳をとった体がすぐに対応できないのかもしれません。

そんな暑さの中、セミは勢いよくないています。アブラゼミです。ジージーゼミとも言っていました。ミンミンゼミもかまびすしく鳴いています。庭の地面には小さな穴がたくさん開いています。セミの幼虫が地中から這い出た穴です。脱皮した殻が気に残ります。夕方にはヒグラシがなきます。

アリは忙しそうにえさを地中の巣に運んでいます。炎天下を何するものぞとの勢いです。きっと地中の巣は涼しいのかもしれません。我が家のアリは黒くて大きめです。
庭の花たちも強い日差しを真っ向から受けて輝くように咲いています。夏の花は鮮やかで強く感じます。紫のサルビアは初夏からずっと咲き続けています。その色と姿は庭の花の中で静かにそして一段の存在感を誇示しています。モクセイは春の様ではなく控えめな香りをそっとにおわせています。

カキの実もだいぶ大きくなりました。今年はあまり実のつきが良くないようです。クワガタのメスがカキの実の汁を吸っています。夏ミカンの実も濃い緑色を少しずつ大きくしています。毎年、マーマレードになる果実です。ホームセンターでは鈴虫を売っていました。涼しげな音色で歌っています。秋が近くまで忍び寄っているのでしょう。カブトムシやクワガタはもう展示していません。無機質な店内ですが、季節の移り変わりがささやかながらもさわやかに感じられます。

10日たち、20日たち、1か月がたったら庭の様子がどのように変化するか、今から楽しみに待ちたいと思います。そしてもう少し涼しくなったら近くの山を歩いて、去りゆく夏と来るべき秋を肌で感じてみたいと願っています。

(スガジイ)

2017年9月1日金曜日

9月1日


標高4,000mのランシサカルカにてテントで2泊しました。一晩は星が降るように満天に輝いていました。ヤク(チベット牛)たちはどこをねぐらにしているのか周辺に見当たりません。

キャンジンゴンパのロッジに戻ります。チャン(ドブロク)がとてもおいしい家です。アルコール度数の高い上質の日本酒を飲んでいるようです。ストーブの周りで、だんだんと話がはずんできます。

主人チョテン・ラマ(45歳)は父親の跡を継いだゴンパの僧です。聖と俗の掛け持ちです。この村に専従の僧がいないのは歴史が新しいからでしょうか。1959年のチベット侵攻で逃げてきた人たちです。

やおらチョテンが懐から千ルピー札の束を出します。にやにやしながら「俺がバザールで稼いできた」と誇らしげです。何度も出し入れします。それをかわいげに見ている大柄な女性が50歳の年上の女房です。いかにも女将という感じです。この主人は下流のゴンパにも同名のロッジを持っています。なかなかの事業家と見ました。チベット族は家を妻が守り、夫は外で稼ぐのだそうです。

調理場を仕切っているのが主人の姉です。4人の子供の母で次女(20歳)が手伝っています。旦那さんを地震でなくしました。往路キャンジン村の入り口で待っていたのがこの人でした。ランタンから電話連絡があった由。商売上手です。

次女に「そろそろ嫁にいく歳ではないか」と尋ねると、チョテンが「村には若者がいない」と言います。確かに村外から来た建設作業員のほかに若い衆がいません。就学年齢の若いものはみなカトマンズのボーディングスクールで学んでいるのです。村に帰りません。

結婚相手はというと他民族のタマンやチベット族だと中国領の国境の町ケルンあたりの人になるようです。ケルンのチベット族の料理は辛すぎてかなわんと言います。まかない料理を見ていると、すっかりネパール化しています。

村は建設ラッシュです。さすがはビジネスに聡いチベット人だけあって、自力で再建しています。チョテンのロッジは1,000万ルピーかかったそうで、資金は姉さんから借りたといいます。すぐに融通できる人もすごいが、投資を決断するチョテンも偉いものです。

地震で三分の一以下に減ったトレッカーが復活する日も近いと感じました。

(スガジイ)