2022年3月18日金曜日

逍遥 ニマ  #156


ニマ

風は冷たいが陽の光は春を感じさせる。 先月聴いた読売交響楽団のシューマン交響曲第3番「ライン」は春の躍動感が体中に染み渡る。

 

ニマが死んで今日は6か月目の祥月命日。帰宅してドアを開けると迎えに出てくるような錯覚が去らない。癒えないまま遺骨はいまだ寺に納めていない。

 

200465日生まれのメスのミニチュアダックスフンドは、娘が一目ぼれして近所のホームセンターから買われて我が家にきた。生後3か月であった。このとき2002年に連れて行ったオスのミニチュアダックスフンドのポチはカトマンズの知り合いに預かってもらっている。猫3匹は遅れてきた妻が連れてきた。このうち家に居ついて子をなした野良猫の親アンは早く死んでしまったので、子のランとニャン太とがやはり預けられていた。ニマが先輩たちと合流したのは2005年に会社を退職してカトマンズに住み始めたときからである。

 

名前の由来は、197375年に日本大使館にお世話になったときの大使秘書アン・ニマ・タマン女史から拝借したものである。女史はダージリン生まれの清楚な人で当時のカトマンズの人たちにはない都会風の垢ぬけた人であった。病弱で若くして亡くなったと聞いている。初代ニマは当時タンボチェ僧院から頂いたチベッタンアプソーである。

 

のほほんとした心優しい性格だった。ニャン太は会社時代の社長からもらったメイクーン種の大型猫で、態度もでかく“社長猫”と呼んでいたが、23歳で家出するまでニマの親分であった。ニマも慕っていたようだ。人込みがあまり好きではなかった。シャイで人見知りしたのだろう。盆踊りには法被を着て参加した。補習校でも子どもたちにかわいがってもらった。迷惑そうな顔をしながら。家ではよく知人を招いて飲み会をしたが、この時はホステス然として愛嬌をふりまいていたので、自分の城を築いていたのかもしれない。

 

カトマンズでは病気らしい病気はしなかったが、ある時急に後ろ足に力が入らなくなった。パタンのかかりつけの獣医が鍼と電気治療を一週間続けて回復した。針は曲がっていて使いまわし歴然としていて心配したが、ネパールの獣医も捨てたものではない。ニャン太は耳に水泡ができ麻酔をして切開した。麻酔が効かないうちにメスを入れたため悲鳴を上げた。それ以降耳が立たなくなったが、のちにこれを見て、「誰がこんな手術をしたのだ…」、同じ獣医なのである。

 

亡くなる一週間前には箱根に遊びに行った。前日は庭に侵入した野良猫を勢いよく追いかけまわしていた。人間並みに三か月ごとに健康診断をしていた。獣医いわく「心臓が悪かったとはねー」

合掌

 

202235日)