2017年8月18日金曜日

8月18日


2015425日の地震によってランタン村は壊滅しました。ランタンリルン峰(標高7227m)の氷河の崩落によって村全体が氷で埋め尽くされてしまったのです。

この村には55軒のトレッカー用ロッジがあり435人が在住していました。行方不明者は403人、うち外国人131人と発表されましたが、トレッカーやそれに付随するガイド、ポーターなどがさらにいたものと思われます。

西の小高い丘の上の集落ゴンパは崩落時の突風によって建物が吹き飛ばされました。昼食をとったロッジの主人は大岩の陰に隠れて難を逃れたようです。ランタン川対岸の大木が根こそぎ倒れているのもこの突風によるものと思われます。このほか東のムンドゥやキャンジンゴンパも地震の揺れによる壊滅的被害がありました。4集落合計で131世帯671人の被災者です。

父親から引き継いだキャンジンゴンパの僧であるロッジのサウジ(主人)によると、この谷のチベット人は1959年に中国軍のチベット侵攻から逃れ、ケルン、ラスワガリ経由でこの地に来たといいます。地名の由来は、Lang: 牛、Tang:険しい道、牛が険しい道を上った、というところでしょうか。

それ以前400年ほど前にタマン族が入植していたとのことです。その後チベット人が入ってきたわけです。産業は牧畜と農業の半々です。80年代末からトレッキングが盛んになり、今ではほとんどすべての村人が観光関連業に携わっています。

キャンジンゴンパから上流部にはいくつもカルカ(放牧地)があったのですが、今では牧童小屋も崩れており、村人が言った通りカルカにいるのはヤクの類(チベット牛)ばかりです。

さて、これら4集落の復興ぶりといえば目をみはるばかりです。以前より数倍大型のロッジを鉄筋コンクリートでいち早く建設しています。石積みのロッジも政府の耐震設計に準じています。

規模によって200万から1000万ルピーかかったそうです。いずれも自己資金です。ソルクンブのシェルパも地震後いち早くロッジを立て直しましたが、さすがにチベット系の人はビジネスにさといと感じました。

(スガジイ)

2017年8月11日金曜日

8月11日


イギリスの登山家ティルマンが「世界一美しい谷の一つ」といったランタン谷にトレッキングしてきました。714日から9日間です。なぜモンスーンの天候不順期に?いえいえ、高山植物が真っ盛りなのです。ヒルの歓迎も受けましたが。

シャブルベシまで車で入ります。ここはすでにチベット人が多く見られるバザールです。そのまま歩き始め、午後4時にラハレのチベット人経営のロッジに着きました。この家族は翌朝カトマンズに行くということです。

二日目は急坂を登り切りリムチェで昼食後、リバーサイドで一泊。三日目はゴラタベラ付近から森林帯を抜け出し、いよいよ高山植物の世界に入ります。歩くのに苦しいのと、花をカメラに収めるのとなんとも落ち着かない日です。地震の災害から復興しつつあるランタン村に泊まります。

四日目はキャンジンゴンパ泊です。この村も地震の被害で全壊し本村のランタン村より大きなロッジを立てています。ランタンプランの貞兼綾子さんはゴンパの建設を支援しています。

五日目はランシサカルカにテントを張って二泊しました。キャンジンでカルカの様子を聞いたところ、「ヤクしかいないよ!」「牧童は?」「チャイナ(いない)!」その通りでした。

花々は私の文章表現力を超えて魅力的です。写真でお楽しみください。

(スガジイ)

        



  


2017年8月4日金曜日

8月4日

ここ何年か日本人の主婦からカトマンズの物価の値上がりをこぼされます。国際通貨基金(IMF)発表の消費者物価指数の推移をみると、2008年から毎年の上げ幅が大きくなっているのがわかります。名目GDPの急上昇もこの年から始まります。
この年はリーマンショックが起きた年ですが、ネパール経済と切っても切れないインドも2008年を境に同様の傾向を示しています。バングラデシュも同様です。他のアジア諸国では別のトレンドなので、インドを中心とする経済圏の特異現象なのかもしれません。
ちなみにネパールの経済学者は、リーマンショックのネパールへの影響について、グローバル経済から孤立した国だから影響はほとんどないと言っていました。
私は生活必需品の買い物をしないので、物価の値上がりを皮膚感覚でとらえることはできませんが、タクシーの料金の高くなったのは感じます。誰も料金メーターは使いません。運転手に聞いてみると、一日の売り上げは2,000から2,500ルピーのようです。オーナーからの車両借り賃が1,000ルピー、ガソリン代が700ルピー、粗利は300~800ルピーです。これでは生活も楽でありません。
カトマンズではほとんどの人がスマホを持っています。携帯電話契約数が1百万台を超えたのが2006年です。前年比500%増です。この年から急激に伸びて、2015年には2,751万台に達しました。国民一人1台の計算です。2006年はマオイスト内戦が終結した年です。
もう一方の通信革命の雄であるインターネットの普及率推移を見ます。2010年から急上昇します。この年一年で4倍の増加です。2009年に1.97%の普及率であったものが2015年には17.58%とこの間9倍に増えています。
おりしも連邦制に移行するに際し、情報通信技術の普及向上が地方自治体の発展を左右するように思われます。
また、これらの現象を見ると、平和になって経済発展の速度が促進されることが見て取れますし、政治が不安定でも国民はしたたかに富を追い求めているのではないでしょうか。
(スガジイ)

2017年7月28日金曜日

7月28日

ネパールで20年ぶりの地方選挙は第一フェーズが第346州の3州で514日に投票され結果が出ました。
候補者数のクオータ制で、女性とダリット(カースト制での弱者)が優遇措置を受けており、女性は候補者5人に2人と規定されています。開票結果ではクオータ制が不要と思われるほど女性の当選者が出ました。全議席13,400のうち5,44540%)が女性です。大統領も国会議長も女性の国です。
ちなみにこの国の男女平等度は144か国中110位(2016年)です。どこかに女系天皇云々を論争している国がありました。この国は111位です。
いつから女性の地位がこのように高くなったのでしょうか、あるいは真の意味での地位向上なのでしょうか。45年前になりますが、フィールドワークで暮らした東部山地の村では日々の暮らしの中心は女性でした。男性は昼日中博打に興じたり酒を飲んでいます。女性は薪とり、水汲み、畑仕事と大忙しです。女性の財産は金の装飾品で常時身に着けています。これではおいそれと追い出すわけにはいきません。
カトマンズでは様相が変わります。妻を買い物に出さず夫が代わってします。ある晩、拙宅で大勢と食事をしていた時、ネパール人の夫が突然入ってきて日本人の妻を無言で連れ帰ります。遅くまで外で男たちとなんてことだというのでしょう。カルチャーショックですが、ネパール人特有の《嫉妬》深さも感じられます。妻は夫の専有物であり、人格が尊重されないのではないかとさえ思えます。
《嫉妬》は、ネパール社会の合意形成や意思決定にも影を落としています。議論の中で如何にも「正論」風の持論を述べる人がいるのですが、多くの場合本質から外れています。屁理屈を並べて足を引っ張ります。《嫉妬》を隠した敵意のこもった反対論が展開されます。不毛な議論が延々と繰り広げられるのです。
役所の底意地悪い対応ぶりにも、我々外国人はひたすら耐えるしかないのでしょうか。
(スガジイ)

2017年7月21日金曜日

7月21日

623日付の新聞各紙は調理用ガス(LPG の供給が不安定になるかもしれないと報じています。一昨年、長期にわたってインド国境封鎖に伴ってLPGを含む石油製品などが大幅に不足したのが思い出されます。
おりしも地方選挙でマデシ系政党が憲法改正の先送りを理由に選挙ボイコットを宣言してプロビンス‐2の投票日が再延期されました。しかし今回のLPGの供給問題はこれとは関係が薄いように思われます。
これまでLPGのネパールの供給業者の貯蓄所(全国に46か所)までのインドからの輸送はインドの運送会社が請け負っていました。775台が稼働しています。インドの業者に物流を握られているのはネパール側としては不都合があったのでしょう。想像に難くありません。
ネパールの供給業者は輸送の不都合を解消するために自前のPLGローリーを持つこととして、55億ルピーを投じて400台のローリーをインドメーカーから調達し、さらに398台が発注済みとのことです。
供給不安定予測の理由はこういうことです。インドの法律によると、LPGローリーは危険物輸送に関するライセンスをインド保安当局が付与します。ところが外国ナンバーに付与する要件がありません。この調達したローリーはネパールナンバーです。
インドの国内法ですから外国ナンバーの車両への認可は想定していないのかもしれません。インド輸送業者やその恩恵を受けている人からすれば既得権を侵害するものと言えましょう。インドは最近の目覚ましい経済発展の陰に、グローバリズムに反する国内産業の保護政策があります。
それにしても、ネパール人の「思い込み」あるいは周りの「空気を読まない」というしばしばみられるビヘイビャーが出てしまったと残念に思うところです。消費者にツケを回さないようにしてもらいたいものです。
(スガジイ)

2017年7月14日金曜日

7月14日

ダディン郡の村に行ってきました。ククレチョール《ニワトリ村》。来年から始める「小児白内障対策プロジェクト」の予備調査です。 
2015年の地震から2年が経ちましたが、この村のほとんどの家はいまだにトタン板の仮設住宅です。ダディン郡は激甚14郡で2番目に多数の住民が被災認定を受けて補助金30万ルピーの対象になっているのですが、再建に着手したのは7%にも至りません。唯一学校が再建されていました。
Brahma S.J.B. Rana著〝The Great Earthquake in Nepal 1934 A.D" をみてみます。
1934115日午後230分に発生した地震の震源地は、エベレストから真南にインドのビハール州に入ったあたりです。推定マグニチュードは8.0です。ネパール東部・中部の被害が甚大です。死者が全土で8,519人、うちカトマンズ盆地で4,296人と人口密集ぶりがうかがえます。死者の数は2年前の地震と同程度ですが、当時の人口はいまの5分の一です。倒壊建物が207,704戸。ビハールの死者は人口150万のうち7,188人でした。
当時の人が信じていた地震の起因が紹介されています。一つ目は、占星術で7つの惑星が黄道上に近づくと戦争や自然災害が起こる。二つ目は、大地は大蛇や魚の肩が支えているものであり、人の罪が増すとその重さに耐えられなくなってもう一方の肩にかけ替える、その時に地震が起こる。三つめは、この年欧州人がシバ神の玉座であるエベレストの上空を飛行したことを罰したというものです。
地震後の人々の行動を類型化して、1)この世の終わりと考え、最後の晩餐を着飾ってとった、2)意気消沈して何もする気が起きなかった、3)一念発起して困っている人に援助の手を差し伸べた、4)災害時は自助努力が不可欠と考え食料品等の自家製造を心がけた。
私たちにとっての教訓が暗示されていると思われます。救助が受けられるまでの時間は、自分自身で生き延びる術を身に着け準備を怠らないことが肝要ではないでしょうか。
 (スガジイ)


2017年7月7日金曜日

7月7日


65日サウジアラビヤとエジプトがカタールと外交関係を断絶し、他に追随する国が出ました。湾岸産油国はネパールにとって経済の面で切っても切れない関係にあります。サウジとカタールは出稼ぎ労働者の最大受け入れ国なのです。
カタールで働くネパール人は40万人です。カタールの人口の20人に3人にあたります。カタールへの渡航者は一日当たり353人です。
海外出稼ぎ送金はすでに国内総生産の3割を超える規模に達しており、この国の経常収支に大きな貢献をしています。昨年のカタールからの送金は1,690万ルピーで、全体の17%です。生活水準向上への役割は決して小さくありません。しかし、この経済的な恩恵は彼らの大きな犠牲の上に成り立っているのです。
2014/15年度の死者は1,002人にのぼります。国別では、マレーシア427人、サウジ273人、カタール178人です。死因は、循環器疾病が358人、その他病死241人、交通事故119人、作業事故113人、自殺112人です。
病死が6割を占めているのは作業環境が過酷である証かと思われます。いずれの国も日中屋外で長時間作業するのはフィジカルに無理があります。さらに同情を禁じ得ないのが自殺です。なじめない異国で、過酷な労働の末に心の平衡を壊してしまうのでしょうか。いずれの死も、望郷の念に駆られながらの無念な結末であることは間違いありません。トリブバン空港で棺の到着を見るたびに同情を禁じえません。 
出稼ぎの増加は国内に雇用の受け皿が十分でないことですが、産業政策はこれにこたえようとしていません。外資の導入も経済成長を牽引する一方策ですが、投資者の要望に応えていません。その根っこにあるのは政治家、官僚、ビジネスマンの「甘え」といって過言ではないでしょう。
(スガジイ)


2017年6月30日金曜日

6月30日

624日、カトマンズ補習授業校で「七夕音楽会」が開かれました。生徒も保護者も皆さん素晴らしい腕前を披露していただきました。
補習校の音楽教育が充実しているのは、ネパール音楽の気鋭の研究者でいらっしゃる林裕士先生の惜しみないご指導によるところが大きいと思います。林先生の研究の成果も楽しみです。
七夕の願いを込めた短冊は『試験でいつも100点をとる』『水泳を浮き輪なしでしたい』等々身近な願いが多かった中で、『ほんをかく人になりたい』という人生をまっすぐ見据えたものが目を引きました。私が小中生のころの願い事はすっかり忘れてしまいましたが、皆さんはどんなことを願ったでしょうか。
音楽会に引き続き、退任される中野先生と河村先生の送別謝恩会がサネパのカフェUで持たれました。中野先生は大使館の中野書記官の夫人で、3年にわたり教鞭をとっていただきました。在校生からの色紙の贈呈時には思わず涙ぐんでいらっしゃいましたが、気持ちをこめてご指導いただいたものと感じ入りました。
河村先生には、トリブバン大学国際言語キャンパスで日本語を教えていらっしゃる傍ら、4年にわたり貴重な休日である土曜日を補習校に時間を割いていただきました。プロの教師でありとてもタフな方です。
両先生にはあらためてお礼申し上げるとともに、日本に帰られたのちもご健勝でご活躍されることをお祈りします。
私は校長とはいえイベントで挨拶をする程度の「名ばかり校長」でありますが、謝恩会では保護者の皆様と親しく話す機会をいただきました。
カトマンズ補習授業校の特色を一言でいえば「手づくり学校運営」であると思います。貧乏校であるがゆえに教員と保護者が物心両面でご苦労されながら、授業を充実させた上にイベント企画で生徒たちにネパールの学校にない体験をさせていただいています。ますますの充実をお祈りします。
(スガジイ)


2017年6月23日金曜日

6月23日

体のあちこちに不具合が出てきたのを機にウオーキングを始めました。早朝5時半にラジンパットを出発して一時間のコースです。3kmちょっとの距離でしょうか。路地と大通りを組み合わせます。
路地の塀のうちからはジャスミンの香りがまだ寝ぼけた頭を刺激します。そのうち小さい川沿いの道になります。川というより下水道で、強烈な匂いに瞬く間に不快になります。紀元前2500-1800年に栄えたモヘンジョダロの都市にはすでに汚水の排水システムができていたというのに、21世紀のこの街のありさまは何とも情けない思いがします。バガマティ川浄化キャンペーンの《口ばっかし》は国民性なのでしょうか。
大通りに出るとそこここにごみの山です。ビニール袋に入れたごみの山がカトマンズ市の収集車やごみ収集業者が集めに来るのを待ちますが、犬やカラスが袋を破り散乱しています。気温が上がると強烈な匂いです。道端に積み上げるのでなく、ごみを置く施設を設置できないでしょうか。ちなみに日本の我が町は堅牢な金網で囲ったごみ置き場がどこの家庭からでもアクセスしやすい距離にあります。
新聞店によって英字紙2紙を買い、一面をざっと見ます。昨日も何も起こらず、何も進まず、天下泰平であります。一方で、森友だ加計だと本質から外れた論争の国会やマスコミがどこの国の話であったか、世の中あまり変わらない気がします。
路上に牛乳の箱を積み上げて売っています。各メーカーが一次共同デポを主要な通りの各所に設定し、トラックで配送します。ここから個人業者が自転車でさらに小売店に配送するのです。女性がマネージしているデポが目立ちます。小売りもします。
薄めすぎた牛乳とヨーグルトを買って家にもどり、うっすらとかいた汗をシャワーで流して、相も変らぬ一日が始まるのです。
(スガジイ)

2017年6月16日金曜日

最初に行くのはびよういん??

5月を20日も過ぎると日本は30度前後まで気温があがり、子供や年寄りにとっては体への負担が心配されます。外出するときにはスポーツドリンクが必携です。

今回一時帰国して納得したのは、体をいたわらなければならない年になったということです。自覚症状から病院通いが始まりました。まずはひざの痛みを整形外科で見てもらいました。水が溜まっているということから湿布薬を処方してもらいます。次に鼻のアレルギーが持病であるところ耳鼻科に行きます。花粉症と蓄膿症を併発しているとのことです。
4月上旬にカトマンズで極度の食欲不振に陥りました。8日の補習授業校の入学式には下痢が重なりました。何とも力のない校長挨拶になってしまって、新入生や父兄には申し訳ない気持ちです。中旬に一時帰国を予定していたので、バナナと紅茶で過ごしました。酒が抜けた我が肝臓はびっくりしかもしれません。

かかりつけの内科での血液検査の諸数値は異常ありませんが、胃カメラ検査とピロリ菌検査を受けました。なんと大きな腫瘍があるではないですか。組織検査結果を待ちます。最悪の事態を考えます。進行中のプロジェクトをどうするか。我が家は曹洞宗だが、不信心の私がこんな小難しい宗旨をいまから理解するのは間に合わない。臨終のときに聞く音楽は前々から決めてあります。フォーレ「ラシーヌの雅歌」です。

この2週間、妻にはガンに違いないので今のうちにうまいものを食べさせろ、いい酒を買って来いと、普段に増して食事を楽しみました。食べる楽しみは不安を忘却させることを知りました。検査結果は「シロ」で、3か月後に再検査することになりました。

「病院で サミットしている 爺7」アキちゃん

「ばあちゃんが オシャレにキメる 通院日」ベラ (第30回サラリーマン川柳)

(スガジイ)

2017年6月9日金曜日

風月雨水

昨夜来の雨の音に目を覚ましうつらうつらしていると山鳩のなく声が聞こえてきます。山鳩は我が家の常連客なのですが、雨の日に来るはずはないので空耳であろうと思いつつ、カトマンズではそろそろカッコウが鳴き始める季節だと思いをはせるのです。
冬の季節には妻が庭に野鳥用のえさ場をしつらえます。夏ミカンや温州ミカンの輪切りが鳥たちのお気に入りで、つがいで来るヒヨドリがまずえさ場を席巻します。メジロは飽きもせずにミカンをつついています。群れでくるのはスズメです。強い鳥の間隙を縫ってえさをついばみます。
我が家から5分も歩くと神奈川と静岡の県境の千歳川に出ます。町内の下水道網を整備したので川の水は澄んでいます。廃棄物が流れることもなくなりました。この川で遊ぶゴイサギは大きさと姿勢の良さでとても威厳があります。カワセミは羽色が美しいことから川の女王といわれます。河口近くになるとユリカモメが群れています。
さて、我が家のお客様は桜の花が終わるころになるとだれとはなしにいなくなってしまいます。山に帰ってしまうのです。そこで繁殖の準備を始めます。この頃近所の低山に行くと鳥たちのラブコールがにぎやかです。若葉のむせかえるなか、自然のエネルギーが肌からしみこんでいくように錯覚します。
510日から「愛鳥週間」が始まりました。
(スガジイ)

2017年6月2日金曜日

クマさん大王の物語 完

16年前の61日、忌まわしい事件が起きました。10人の主要な王族が射殺された王宮の惨事です。
私はこの時東京の本社に勤務しており海外部門の総務的な仕事をしていたので、社員の安全を確保する立場にありました。事件の概要はわかっても真相が闇のままで対策に苦慮しました。カトマンズの街の平静さが唯一安心材料でした。
後日ニューデリーに出張した折に日本大使にお目にかかる機会がありましたが、カトマンズで何が起こっているかとのご下問があり経緯を説明したのちに、「終わりの始まりだな」とぽつりと言われました。2006年に国王の権限を制限され、2008年にはまさに退位に追い込まれたわけです。
シャハ王朝は、1769年にプリトゥビ大王がネパールに覇をとなえた時に緒をみますが、ラナ将軍家が19世紀半ばに権力を掌握した時に統治の一線から退きます。そして、1950年にインドの支援を得て王政復古を果たします。このときインドに亡命していたネパリ・コングレス党の政治家たちが活躍しますが、ネルー首相が王制を排することをしなかったのは、政党が国造りの受け皿となるには時期尚早とみたからと思われます。
パンチャヤト体制というネパール独自の議会システムを経て、1990年に新憲法を制定して議会制民主主義を導入しますが、10年間に9の政権が入れ代わり立ち代わりして安定しません。そしてマオイストの内戦時代に不安な日々を送ることになります。国王が政治の表舞台に再登場しました。和平成立後も政治の不安定は相変わらずです。そして連邦民主共和制の憲法が制定されたのちも政局に明け暮れる諸政党です。
今日、王制時代を良き時代と懐かしみ、再び国王をいただいた国体への回帰を夢見る国民が増えているとのことです。彼らは王政復古を望んでいるのでしょうか。私には、ビレンドラ国王の人柄をしのんで、良きリーダーの出現を心待ちにしていると思われてなりません。
(クマさん大王の物語 完)
(スガジイ)

2017年5月26日金曜日

やめられないとまらない

「酒は飲むべし百薬の長」などといいますが、飲み過ぎて翌日つらい思いをするのは私ばかりではないでしょう。ネパール人の酔っぱらいともずいぶん付き合いました。

もう45年も前の話ですが、オカルドゥンガ郡ルムジャタール村に一年間住んで農村調査をしたときのことです。東部ネパールでは珍しいグルン族の村です。グルン族の故郷は中部ネパールです。ルムジャタールはその名からもわかるようにもともとはルムダリライ族の村でしたが、プリトゥビ・ナラヤン・シャハ王がカトマンズ盆地を征服した折に、いくつかのグルン族の部隊が勢い余ってそのまま東征し、もともとライ族の領地をこの村のほかに隣のコタン郡にも三村を占領して住み着いたようです。このグルンの人たちは母語をすっかり忘れています。

私の下宿先はグルン族の家でしたが、同じ敷地にネワール族の未亡人とその母親の婆さんが住んでいて、ロキシー(ヒエの蒸留酒)を造って村人相手に居酒屋(?)をしていました。夕方ここにいると村ののんべい連中から情報収集ができるのでとても便利なのです。私と同年代で村一番のインテリであるバフンのジャイナラヤンは、カトマンズで教育を受けた数少ない一人で、村で自分の能力を生かす場が見つからず不満が鬱積して酒浸りの毎日です。

年配のグルン族のイシュワルも常連の一人です。この人は村の男の例にもれず博打も大好きです。酒と博打の借金がかさんで自作地を切り売りして、今では小作に転落していますが、酒をやめることはできません。字が読めない彼は金貸しのバフンに借用証を捏造されて田地をだまし取られたといううわさもあります。

ある日、居酒屋の婆さんが病をえて寝たきりになりました。4時間ほど歩いたところにミッション系の病院があるので連れて行こうとしましたが、病院に行くと殺されるといって祈祷師のジャンクリを呼びました。祈祷が終わってうんちくを傾けながらロキシーを飲み過ぎたジャンクリは、突然椅子から落ちそのまま大いびきです。婆さんはといえば祈祷が効いたのか、その後すっかり元気になりました。

(スガジイ)

2017年5月19日金曜日

経済交流再始動元年

先日、北海道十勝の経済ミッションが来ネされました。ジョシ工業大臣主催のレセプションでは、お持ちになった製品の展示会がとても好評でした。ハイテク製品でなくネパールの人たちにも身近に感じられる商品を中心としていたからであると思われます。

ジョシ大臣は、パルバティヒンディー(山地部のインド起源の人々でバフン、チェットリ等)が主要ポストを占めるネパールの政界にあって、数少ないネワール族の有力政治家として期待を背負っている人です。また、高潔な性格をもって国民の信頼を得ています。私も当日親しくお話しさせていただきましたが、政府開発援助にも精通されていらして話題が尽きませんでした。

日本人会商工部会が今年度は安藤ハザマの猪狩所長を部会長として出発しました。

10年ほど前の部会活動は、日本フェアを催したり、ネパール商工会議所連合会(FNCCI)をはじめとする財界幹部と意見交換の場を持ったりしました。旅行業分科会が観光大臣に空港施設改善提案をして、いくつかが間もなく実施に移された成果もありました。このようなウインウインの関係を築くことで部会がますます発展していきます。猪狩部会長はじめ会員の皆様のご健闘をお祈りする次第です。

さて、十勝経済ミッションの皆様とは、大使閣下のお計らいで大使公邸にて日本人ビジネス界の皆さんが意見交換しました。私もネパールへの投資を中心にビジネス事情をご進講申し上げる機会をいただきました。このような機会を通じてネパールへの投資の機運が促進されれば、在住日本人のビジネスのプレゼンスも大いに隆盛することに違いありません。

(スガジイ)


2017年5月12日金曜日

カトマンズの風物詩

霧の中から天秤棒を担いだ農夫が近づくにつれてだんだんはっきり姿をあらわす、そんな観光プロモーション映像がありました。冬から春になる一歩手前のカトマンズ盆地の風物詩でした。かごの中は新鮮な野菜であったり、素焼きの器に入ったダヒ(ヨーグルト)です。ティミやバドガオン(バクタプール)の人たちです。南の郊外のチャパガオンやルブでも野菜作りは盛んでした。ジャープーと呼ばれるネワール族の農民です。
2000年代初めから首都圏に宅地造成ブームが始まります。都市が外周に広がるにつれて農地が蚕食されます。都市住民の核家族化に伴う住宅の実需と、金余りによる投資の行く先のない金が住宅産業に流れ込むのと、農業を敬遠する農家の若い世代が増える中で農地を手放したいという事情がマッチングしたのでしょう。
首都圏の人口が増加するにつれて野菜の供給地は盆地の外に広がっていきます。20年ほど前からでしょうか、チトワンやテライに野菜生産地が広がり始めます。インドのビハール州で野菜栽培が急速に伸びた時期と軌を一にしています。ビハール州の野菜栽培技術を持った農民がチトワンで請負栽培をしています。野菜の流通が季節を通じてバラエティ豊かになったのは、低地の気候と栽培技術の進歩によるところです。
一方、首都圏ティミの農民も意気軒昂です。一家族で持っている20-50アールという狭い耕地を有効に使って通年栽培しています。労力を惜しまず、緻密な栽培技術で健闘しているジャープーの野菜農業は、都市化に負けずにまだまだカトマンズの食卓を潤すものと思われます。
我が町湯河原のスーパーマーケットで地場産の野菜や果物を見つけました。生産者の名前が付されています。相模湾の新鮮な魚も潤沢です。「地産地消」で地域を豊かにするのが私流の町おこしの原点です。
(スガジイ)

2017年5月5日金曜日

金氏弁的旧市街

アサントールは古い時代からの商店街です。

バサンタプール旧王宮からまっすぐ北東に延びる近世の街並みの東の端にあたります。寺院を中心としたトール周辺は乾物屋の常設店が密集し、朝夕には野菜の市が立ちます。インドラチョークへのメイン通りは荒物、金物の店が並び長年景観が変わらないように思えます。

アサントールの南裏路地にはサリーの問屋がひしめいています。薄暗い路地が華やかです。近年はデザインの変化が激しくなっています。ラメが流行ったり、刺繍であったり、ここ数年はインド映画に出てくるような派手なデザインがこの路地でも見られるようになりました。私にはインド絹の伝統的な落ち着いた色合いのデザインや、夏用の羽根のように薄く軽やかな木綿や麻のオリッササリーが好ましく感じます。

このまた南のニューロードまでの広い地域は、新しいビルがぎっしりと立ち並ぶ細い路地の既製服問屋街です。カトマンズっ子はもとより地方の小売店主が大きな荷物を抱えて店から店へと買い出しに精を出す様子はネパールで一番忙しい街といっても言い過ぎではないでしょう。この街がにぎやかになったのは中国の縫製業の発展と無縁ではないと思われます。

アサントールの寺院の脇からマハボーダに抜ける細い路地をご存知でしょうか。カトマンズの秋葉原といわれている電器屋街です。既製服問屋街を日本橋馬喰町、浅草橋とすると、この地域の特性がわかります。

昭和30-40年代の家庭の三種の神器というとテレビ、冷蔵庫、洗濯機でした。

アサントールの電器屋街のいまどきはやりの家電は、液晶テレビ、冷蔵庫、音響機器です。スーパーマーケットやショッピングモールがいくつもできましたが、アサンの路地裏は私の長年の定点観測マーケットです。

(スガジイ)

2017年4月28日金曜日

ゴルフ

日本で十数年ぶりにゴルフをしました。ゆったりとしたフェアウエー、芝が熟練的に管理されたグリーン、新緑が燃え花の咲き乱れるコースの中で18ホールがあっという間に過ぎてしまいました。大学の体育会クラブのOB会コンペです。
体育会には「新人哀歌」というこんな歌がありました。


〽部長先輩雲の上、三年四年はお偉くて、二年の餓鬼ども山の上、お山の大将で大威張り
〽威張りなさるな二年生、一年無駄飯先に食い、そろいもそろって穀つぶし、一年前を忘れたか


私の学生時代のことですが、一年生はひたすら「雑巾がけ」に汗を流しました。シゴキに耐えました。二年生は中間管理職です。一年生の面倒を見ながら、鍛えながら、そのうえで三年四年生の意向を「忖度」して部の運営の円滑化を図るという微妙な立場にあります。三年四年時は幹部として運営や活動時の危機管理に神経をすり減らします。口うるさいOBの眼があります。


会社組織を見ているようです。「過労死」や「ブラック」と言われる企業の報道が後を絶ちません。企業活動の理念や目的を意識していないこともあるのでしょうが、経営者や管理職として労務管理の「こころ」が抜け落ちているように思われます。早い時期に人の上に立つ訓練が必要であると思われます。大学の4年間は勉強をあまりしませんでしたが、組織運営を身をもって学んだことで良しと言い訳しています。


さて、ゴルフのスコアですが、久しぶりにしてはまあまあであったとしておきましょう。


「一打ごと何のかんのとヘボゴルフ」(鎌田ほづみ、平成サラリーマン川柳傑作選)

(スガジイ)

2017年4月21日金曜日

金さん、ごかんべん

414日に日本に一時帰国しました。早朝の成田着便です。空港敷地に沿って満開の桜が続きます。成田空港は羽田に比べて自宅まで遠いのでいつもは羽田を使います。

私といえば成田空港のほうが好きなのです。空港から千葉までの鉄道にしろ高速道路沿線にしろ、日本の原風景ともいえる里山の趣に、ああ帰ってきたのだという癒される気持ちになるのです。

東海道線、子供のころは湘南電車と言っていましたが、大船を過ぎると両側は野菜畑の風景になります。大磯にいたるとますます気持ちが和らぎ、西行の秋をうたった『鴫立つ沢』旧跡のある二宮を過ぎ、小田原の先は相模湾が春の色に光ります。この間、沿線にはいろいろな種の桜木が花を散らせているのです。

我が家の枝垂れ桜はとうに花を終わらせましたが、3月の寒さで開花が遅れたソメイヨシノは満開です。華やかさに心を奪われながら、モミジの若葉のやわらかな あおさに心が向きます。

西行の桜花をうたった「はなのしたにて春死なむ」は有名ですが、白洲正子『西行』(新潮文庫)は、晩年の「地獄の猛火の中で苦しんでいる男女を描いた」歌をあげて、「地獄絵の歌のほうがはるかに真に迫っており、なぜ晩年になってこのように凄惨な情景を詠まねばならなかったのか」と問うています。

桜花に浮かれるとき、西行の懊悩に比べるべきもありませんが、私も若いころの浅はかなできごとが夢に出て脂汗をかくような歳になってしまいました。


(スガジイ)

2017年4月14日金曜日

クラス仲間はいつまでも

2月の当欄で「寒さももう少しの辛抱です」と書きました。

例年なら、2月のシバラトリ(シバ神の夜祭)から3月のホーリー祭を過ぎると一雨ごとに温かさが増し、2530度の気温になります。今年の3月は20度以下の気温で長袖がなかなか手放せませんでした。

4月になるとそれでも温かさが増して、やっと入学式日和となりました。

8日がカトマンズ補習授業校の入学式でした。校長を拝命している私は式辞を述べるのですが、去年の入学式では、学校は勉強するばかりでなく長く付き合える友達を作る場であると話しました。その話を生徒が覚えているかと卒業式で問うたところ、23人しか覚えていません。そこで、今年も同じ話題にしました。

私が日本に帰ると小学校の同級生が飲み会を開いてくれます。いくつになっても〇〇ちゃんと子供のころの呼び名ではなしています。生まれ育った故郷の友はいいものです。たまさかに街で旧友にばったり出会ったときなど、長年会っていなくとも面影が残っているもので、すぐさま思い出します。時々名前が出てこないのは年のせいかもしれません。

私は会社時代には海外事務所の単身赴任が長かったため、自分の子供たちの学校行事にはほとんどといっていいほど参加したことがありません。いまでも妻や子供から非難されます。補習授業校の父兄の皆さんが学校の運営や行事に積極的に参加されるのを見ては自責の念にさいなまれるのです。校長とは名ばかりで、行事の挨拶ぐらいしか役に立たない《イベント校長》です。運営委員会の皆さん、父兄の皆さんお役に立てずにすみません。

さて、このコラムですが、もう一年おつきあいいただくこととなりました。よろしくご笑読のほどを。

(スガジイ)

2017年3月17日金曜日

御礼

315日、日本人会総会が開催されました。ご多忙にもかかわらず多くの会員にご参集いただきました。ありがとうございます。

去年の4月に会長に推挙いただいてからもう一年たったのかというのが意外に思える感慨です。盆踊りや運動会と楽しい思い出ばかりです。この間、多くの会員や理事の方々に助けていただきながら無事運営できたことに素直に喜んでいます。

実際、それぞれの行事における理事やご支援いただいた会員のご苦労は大変なものでした。まさにこの方々の獅子奮迅の活躍によって日本人会が運営されてきました。

さて、年間を通して会員が一堂に会する機会はあまり多くありません。総会後の懇親会は普段お会いできない方とお会いする絶好に機会で、あちこちで団欒の輪ができ盛り上がっていました。

講話サロンもこのような会員の交流を活発にする機会と考えています。「サロン」と名付けるゆえんです。今期も講師諸賢の興味の尽きないお話を拝聴して、そのあとで講師を囲んで、また参加者の温かい交流の場を持てたものと思います。

最後に、小生のつたない会の運営を温かく支えてくださった会員、理事の皆様に改めてお礼申し上げます。そして来期も変わらぬご厚情を賜りますようお願い申し上げます。

(スガジイ)

2017年3月10日金曜日

Himalayan Black Snow

菊池法純さんの論文『藤井日達上人のネパール開教と王制崩壊』に主題とは離れてもう一人興味ある人が登場します。マヘンドラ国王の秘書として信頼の厚かったロク・ダルシャン・バジュラチャルヤ氏です。国王の命により憲法制度の研究のため日本に派遣されます。

ラナ専制から王権を取り戻し、父王の後を継いだマヘンドラ国王は、議会制民主主義を試みますが、未成熟の政党間の混乱を理由にクーデターによって政党なき議会政治を確立しました。ロク・ダルシャン氏の派遣はこのころのことです。マヘンドラ国王は、このころすでに、象徴天皇をいただいた日本や英国のような立憲君主制国家の構想をお持ちだったのでしょうか。国王亡き後の王室内の統治形態の路線をめぐる争いがあったといわれますが、民主化後20年来の政治の混迷を思うとき、歴史のアイロニーを感ぜざるを得ません。
そして、今また国の統合の象徴としての国王待望論が出てきたのは、単なる国民のノスタルジーばかりではなさそうです。

ロク・ダルシャン氏はその後マヘンドラ国王に遠ざけられたものの引き続き宮務についており、引退後も最近まで日本大使公邸の天皇誕生日レセプションでお会いしていました。

氏の隠れた一面は、日本の登山界の面倒を見られたことです。当時は、《一季一山一隊許可》の原則があり、ヒマラヤ登山を志す人は日本山岳協会の推薦を得て、日本大使館経由でネパール外務省に許可申請をしていました。人気のある山の許可をとることが難しい時代でした。「ヒマラヤの雪は黒い」などと言われたのもこのころのことです。

(スガジイ)

2017年3月3日金曜日

特務機関とパゴダ ~戦争と平和~

ポカラのフェワタールの丘の上にある世界平和パゴダをご覧になったことがあると思います。藤井日達上人が起こした日本山妙法寺が建立したものです。

外務省OBで在ネパール大使館にも再三勤務された菊池法純さんが「藤井日達上人のネパール開教と王制崩壊」という氏の論文を送ってくださいました。上人は1974年ビレンドラ国王に謁見し、ルンビニとカトマンズでの宝塔等の建設許可を得たのですが、まもなく取り消されました。上人一行はポカラの有力者と仏塔を建設することとし、仏像奉安直前まで至ったところで警察によって破壊され、逮捕ののち国外退去の処分を受けました。王宮前に整列しうちわ太鼓で法名を唱えて抗議する等の行動をとっていました。

同じころ、太平洋戦争中F機関と称する旧日本軍特務機関を指揮し、自衛隊創設にも加わった藤原岩市氏が妙法寺の僧侶とともにカトマンズを訪れています。私は両氏とお会いする機会を得ました。日達上人には、開祖日蓮上人のアグレッシブな教えを伝道すべく、何事にも動じない謹厳なお顔そのもののご性格を感じました。一方の藤原氏は、シンガポールやビルマ戦線で縦横に活躍された軍人とは思えぬ好々爺然とした方で、特務機関とはかくなるものかという思いがしました。

菊池さんは妙法寺とF機関の結びつきに思いをされますが、なぞとしています。

日達上人の1930年代からのインドでの布教活動と、F機関のインド人指導者ボースとのつながりとその任務を考えれば、両者の間に何もなかったはずがありません。そして1979年代のネパール会議派と両氏の企図していたのは何か、興味の尽きないところです。

この辺りの事情をご存知の方がいらしたら、ご教授いただければ幸いです。


(スガジイ)​​


2017年2月24日金曜日

クマさん大王の物語3

さて、森の生活を決めるのがクマさん大王からゾウさんたちに移ったのですが、一部のゾウさんたちが自分たちは別の考えがあると森の奥深くに去ったことまでお話ししました。
このゾウさんたちは奥の森の小さな動物たちと一緒に、森の真ん中にいるクマさんやゾウさんを力でねじ伏せて自分たちのやり方を見せてやろうと、近くの森でキツネさんたちを襲うようになりました。真ん中のゾウさんたちもこれに抵抗しますが、仲間割れが続いたために、奥の森のゾウさんたちの力がどんどん広がります。
森の混乱は収まりません。クマさん大王は長いこと兄弟たちと森の在り方を話し合っていたのですが、混乱の中突然死んでしまいます。兄弟が大王になって、大王の部下の強いトラさんチームを混乱地域に送って昔の生活を取り戻そうとしましたが、多くの動物たちが抵抗してなかなか収まりそうにありません。
そんな中、お兄さんの跡を継いだクマさん大王は、一度ゾウさんや小さな動物たちに譲った森の生活を決める仕組みですが、森が混乱しているのはゾウさんに力がないからだとして、やっぱり大王がすべてを決めるんだと言い出したのです。また昔のようになってしまいました。小さな動物たちは失望して打ちひしがれます。中央の森のゾウさんたちは、それでも自分勝手なことを言い合って仲たがいが続きます。
新しいクマさん大王はいつまでたっても小さな動物たちのことを考えてくれません。動物たちの不満はどんどん大きくなります。さすがのクマさん大王もこれ以上威張ってもいられません。中央の森のゾウさんと小さな動物たちは、やはり自分たちのことは自分たちで決めようと、一緒になって遠くの森のゾウさんと話し合いで混乱を収めることに決めました。(つづく)
(スガジイ)

2017年2月17日金曜日

東風吹かば・・・

216日伊豆河津の桜祭りに行ってきました。特急踊り子号10両編成の大半の乗客が河津でおります。天城山から流れ下る川に沿って緋寒桜が満開です。この季節の桜は春を待ちきれない人々を魅了しています。平日にもかかわらず1万人は下らない人たちです。出店も大賑わいです。
一方、わが湯河原では梅まつりが始まりました。24日の開園日に早速行ってきましたが、梅はまだ3分咲でした。会場は幕山のふもとです。ハイキングコースでもあり、ロッククライミングのゲレンデとして人気があります。出店の数も集客力も河津には遠く及びません。それでもJR駅からのバスは満員です。地味ながら健闘しているといっていいでしょう。
湯河原や河津に共通しているのは、高度成長期に団体客で栄えた成功体験を持つ温泉場の「町おこし」です。旅行の形態が団体から個人に移り変わって久しいものがあります。また、両地とも首都圏から日帰りで楽しむことができるほど交通事情がよくなりました。温泉旅館の中には、温泉と夕食を提供し宿泊はしないというサービスも出てきました。まさに知恵の勝負といえるでしょう。
河津に比べて湯河原の梅まつりは規模も小さくイベントも地味です。桜と梅の華やかさの違いもあることと思われます。しかし、河津では、華やかさを演出するがために、地元の産物とかけ離れたお祭り気分のイベント出店を他所から集めているという印象がぬぐい切れませんでした。その点で湯河原の産物のみを出店している梅まつりには好感します。
がんばれ湯河原。17日は梅園に「狂言」を鑑賞に行ってきます。

(スガジイ)

2017年2月10日金曜日

松本榮一くんとの邂逅

高校の同級生で仏教研究家の松本榮一君とお会いしました。1974年にカトマンズで偶然に出会ってから長い付き合いが始まりました。松本君は写真家として出発し、1971年から3年間インドのブッダガヤで僧院生活を体験し、その後文筆活動も加えてインド、チベット、中国の仏教文化を紹介しています。
写真集では『チベット世界 極奧の大地』(小学館)等の仏教の伝搬過程、著書では『聞き書き ダライラマの言葉』、『聞き書き ダライラマの真実』(NHK出版)等、ダライラマ14世に知己を得てから40年にわたる親交の成果です。今般贈呈いただいたのは、昨年出版したイギリス人考古学者アレキサンダー・カニンガム著『マハボーディ寺』の翻訳とその解説をラームスループ・シン教授に取材・執筆した『カニンガムを読み解く』という稀覯本製作の大業です。原著の出版は1882年です。
マハボーディ寺の初期の寺院は、今から2,550年ほど前ブッダが苦行僧時代を6年過ごし、やがて成道された地である「ブッダガヤ」に、アショーカ王によって建立されました。インドにおける仏教の衰退とともに1,000年も放置され朽ち果てかけていた寺院を修復したのが、植民地時代にインド考古局を設立したカニンガムでした。カニンガムは、玄奘三蔵の『大唐西域記』を資料に修復したとのことです。
考古学の門外漢の私にとっては読み進めるのは苦痛と思いきや、古代から近代にかけてのインド社会の様子や周辺国との交わりがあたかも現地にいるような思いにさせるがごとくに書かれており、見知らぬ地への興奮がわいてきました。
(スガジイ)

2017年2月3日金曜日

大寒、立春そして雨水

先週は楽しい催しがありました。

まず、カナダ人「噺家(はなしか)」桂三輝さんの落語です。

一日目は日本語、二日目は英語の話「動物園」を演じてくれました。上方落語の大名跡「文枝」師匠のお弟子さんで、師匠の新作落語に共感を得て入門したのだそうです。上方落語の異才「桂枝雀」師匠の芸風も取り入れているとのことです。そういえば派手なアクションが入ります。

落語の魅力は何といっても噺家の「話芸」の力に尽きるのでしょう。長い歴史に洗練された「話の筋」はもちろんですが、何度も聞いてすっかり知り尽くした「はなし」でも思わず笑ってしまいます。

土曜日は運動会でした。

子供たちの元気な姿を見るのは楽しいものです。まして、広いグラウンドで陽をさんさんと浴びながら走る姿には次世代の躍動を感じさせます。大人たちも負けていません。私もパン食い競争に出走しましたが、残念ながらビリでした。年齢のハンディキャップはくれないのかなあ?

ポリスアカデミーのグラウンドは前日の雨で程よく湿っています。芝はまだ目覚めていませんが、土のにおいが心地よいのです。「もうすぐ春ですよ」と話しかけているようです。空の色は春の明るさでした。

ネパール月ファルグン(2月中旬~3月中旬)になると一雨ごとに温かくなります。

マハシバラトリ(シバ神の夜祭)がやってきます。パシュパティ寺院にはインド各地からも大勢の参拝者が集まります。サドゥー(ヒンドゥー教の行者)は大麻を吸って瞑想にふけります。気温は一気に春らしくなります。ホーリーの色粉かけ祭りになると初夏の陽気です。

寒さももう少しの辛抱です。

(スガジイ)


大寒