2017年11月17日金曜日

11月17日

この度、小川大使閣下より在外公館長表彰をいただきました。在ネパール日本人会の活動を通して日本とネパールの友好増進に貢献したとの評価をいただいたものです。

もとより日本人会は会員の皆様、理事の皆様の献身的な活動によって支えられているものであり、『言うだけ番長』の私がいただくのもおこがましいのですが、皆様を代表していただいたことで、喜びを分かち合いたいと思います。

本会は1979年に設立されました。まだまだ在留邦人も数少ないころなので、皆さん顔見知りの方ばかりでした。家族帯同の赴任者の増加する時期でもありました。子女の教育の要求が出始め、日本人相互の親睦はもとより、子女教育の場を設ける目的が設立に向けて動き始めたものでした。補習授業校が設立されたのは翌年の1980年です。
歴代の会長や理事は運営に腐心されました。任期中にたくさんのことができるわけではありません。私は一任期一テーマとしました。

2002年度は行事の充実に力を入れました。1996年以来のマオイスト事案のため大きな行事を執り行うことが難しい時期が続きました。識者の講話と会員の親睦食事会を兼ねた『講話サロン』を始めたのがこの頃です。毎回70人ほどの参加を得て盛況でした。
2003年度は補習授業校の改革に取り組みました。本邦で授業を受けたことのない児童生徒が増えたため、最適な授業運営を検討し実施に移しました。森運営委員長のご努力が大きいものでした。

2016年度に思いがけなく再度仰せつかった折には、会員の皆様の行事への参加が少なくなっているとのご指摘をいただき、会員と理事会の距離を縮めるために広報を強化すべくホームページを立ち上げました。会員の皆様との双方向コミュニケーションの場とすることを望んでいます。

2017年度は商工部会の再建です。猪狩部会長には社業ご繁多のところご無理申し上げていますが、積極的に取り組んでいただいています。

賛助会員の皆様には会費値上げにもかかわらず快く財政のご支援をいただきました。貧乏所帯にはなくてはならない貴重な財源となっています。

さらには歴代大使閣下に名誉会長として、また館員の皆様にも絶大なご支援をいただいていることに付言しなければなりません。微力な組織にとってこれほど力強いことはありません。

最後に、会員の皆様におかれては行事に多数ご参加いただくとともに、未会員の在留邦人の方をお誘いいただき、本会が心地よい集いであるようともに歩みたいと思います。


(スガジイ)

2017年11月10日金曜日

11月10日

久々に小説を読みました。村田喜代子著「蕨野行」(文春文庫)です。ある雪の深い村の60歳を超えた村民を蕨野という丘へ棄てる掟、いわゆる棄老伝説を姑と嫁の心の対話で進行する江戸時代末期の話です。

本の帯をそのまま転載すると、「処(ところ)を隔てて心を通わせあう方途(みち)はあるか?死してなお魂の生き永らえる方途はあるか?答えは応なり!蕨野。そこは六十を越えると誰もが赴くところ。ジジババたちの悲惨で滑稽で、どこか高貴な集団生活があった。」
読んでいて鳥肌立つものがありました。人間の『生』の本質とはかくも壮絶なものかと、齢七十にしてようやく考えさせられる私がありました。

9月の末に一人で八ヶ岳を登ってきました。赤岳、キレット、阿弥陀岳を経て青年小屋に至るルートです。南八ヶ岳は火山群です。どの山も頂上に近づくと急峻な岩場になります。
自分では若いつもりでいても、足腰は弱くなりバランスも悪くなっているのです。ここで落ちたら間違いなく死ぬ、ここで足を滑らせたら大けがをするだろうが登山者の少ない今の時期は発見されないまま幾晩も過ごせるだろうか、どちらにしても迷惑をかけてしまいます。奇妙なことに生への執着より恥の意識が勝ちます。

途中で出会った人からは「お元気ですね」と声をかけられ、そんなに年寄りに見られたのかと憮然とします。下山後に会った以前カトマンズに暮らしていたKさんからは「最近こういう高齢者の遭難事故が多いんだよね」と冷かされる始末です。

その足で大学のクラブのOB会に参加しました。甲州勝沼の大善寺の宿坊です。ご本尊はブドウをもった阿弥陀如来で、ワイン発祥の地として知られています。本堂の前にぬかずくと『まだ生かされている』という霊示めいたものがあります。

人の生の終着点はだれにもわかりません。久しぶりに会った古い友等と酒を酌み交わしながら、『一期一会』茶の湯のことわりが身に沁みました。


(スガジイ)

2017年11月4日土曜日

11月3日

4月から不調の胃にできた腫瘍が9月の内視鏡検査でも思わしくなく、がんセンター送りとなりました。ここでのさらに精度の高い内視鏡でもがんの疑いはないとしながら、経過観察とのことで12月に再度検査することにしています。

今まで大病院で診てもらうほどの大病をしたことのない私は、病院に入ったとたんに何をしたらいいのか戸惑います。まずは案内で尋ねます。受付で内視鏡科の書類と呼び出しの端末をもらいます。

内視鏡科で待つことかれこれ1時間、数ある内視鏡室の前で待つよう端末に表示されます。愈々順番が来て部屋に入り検査の準備をしますが、数多いスタッフは淡々と処置を進めます。その有様が余りにも無機質に感じられ、屠殺場に送られた動物になったような不思議な感じになります。

1週間後の検査結果診断でもやはり案内に立ち寄らなければわかりません。予約時間がインプットされた診察券を自動受付機に登録すると予約表と担当科(私の場合は消化器科)受付で手続する指示が出ます。もちろん呼び出しの端末機も出てきます。待合室には担当医の診察状況がモニターに出ます。私の担当医に受診者が集中しています。

支払は自動支払機で済ませます。領収証とともに薬の受取証と次回予約表が出てきます。かくのごとき病院のシステム化の進展には驚かされました。事務分野のシステム化はこれでよくわかりますが、患者データの共有化もかなり進んでいるものと推察されます。診察室には医師と看護師の二人でしたが、看護師がすべての情報を入力しているように見受けられました。私がかかりつけの街のクリニックからがんセンター担当医への紹介状は書簡形式でしたが、逆方向は電子情報の送付も可能なのでしょう。

最近の医療はほとんどが物理的生理的データから診断される様で、診断精度も向上しているのでしょう。一方で、医師が弱者としての患者とどう向き合うかという問題が残ります。幸いにしてがんセンターの担当医は懇切丁寧に説明してくださったし、患者を気遣う配慮もあり安心して話を伺うことができました。

つまるところ『医は仁術なり』ということなのではないでしょうか。


(スガジイ)

2017年10月27日金曜日

10月27日

真鶴半島のうっそうとした自然林の中に瀟洒な「真鶴町立中川一政美術館」があります。人口7千人の小さな町の素晴らしい文化施設です。

中川一政は明治26年(1893年)に東京都文京区に生まれ、昭和24年に50代半ばで真鶴町にアトリエを移します。それから20年間福浦漁港からの風景を連作します。悪天候以外は毎日通ったといいます。

当時の福浦村はその後湯河原町、吉浜町と合併して今の湯河原町となります。私が生まれたのは中川が漁村を描き始める2年前で、漁港を見下ろす丘の上の母の実家です。最近母の戸籍謄本をとる必要があり祖父の代まで知る機会がありました。

母は9人兄弟の一番上に生まれました。2人が夭逝しています。父は7人兄弟の末っ子でしたが、時代は国威発揚の膨張政策の時なので『産めよ増やせよ』と子作りを奨励したことでしょう。少子化の現代では考えられない子供の数です。

祖父は網元の次男坊です。本家は戦後カツオ遠洋漁業に進出しますが事故でとん挫します。次男の冷や飯食いといいます。祖父は一丁櫓の小さな船で一人漁に出かけていました。よく子沢山の家計収入が得られたものと不思議でなりません。雛にはまれな端正な顔立ちでした。

家もそれほど大きくありませんが、伯父の一人は内湯があり家井戸がある家庭は村では希少だったといいます。子供心にトイレが外にあったのには夜に恐ろしい思いをしました。
祖母は湯河原の大百姓で二人姉妹の次女でした。貧しい漁師の家に嫁いで、さぞやさみしい思いをしたのではないでしょうか。

昔の田舎のことなので旅行をする楽しみもなく、祖父などはただ一度の日光旅行の思い出話をしていました。祖父母ともに町内の私の家に年に数回遊びに来るのが数少ない娯楽であったようです。私も夏祭りを楽しみにしていました。『けんか山車』や『神輿の海渡』など、荒っぽい漁師町ならではのものです。

中川の「福浦」の連作の時期は私の幼少期から思春期と重なるところ、今後ゆっくりと私の心象風景と重ね合わせて鑑賞したいと思います。


(スガジイ)

2017年10月20日金曜日

10月20日


日本では1022日の投票日に向けて衆院議員選挙の選挙戦がたけなわです。終盤戦の世論調査では、自民党が圧倒的な支持を集めており、自公の与党で三分の二を超える勢いです。

この選挙の直前に、都知事選挙及び都議会選挙で圧勝した小池百合子さんが希望の党を立ち上げて民進党衆院議員が合流しました。一方で、合流を拒否された同党議員が立憲民主党を立ち上げるという目まぐるしい展開がありました。

希望の党は立党当初こそ多くの支持を得ていたのですが、2週間もしないうちに陰りが生じてきました。その理由の一つが、合流する民進党議員を政策によって選別する際に「排除」という言葉を使ったというものです。先の都議会議員選挙の時に安倍首相が街頭演説で聴衆のヤジに過度に反応したことが敗因の一つとして取りざたされたこともありました。

私も不快を感じた一人ですが、それによって支持が左右されようとは思えません。マスメディアが私たちの情緒をあおっている一面があるのではないでしょうか。「排除」された議員の新党が「筋を通した」と支持率を高めています。政策以前の選択がなされているのがよくわかります。

ネパールでは、夏に20年ぶりの市町村議会選挙が実施され、11月には州議会と下院の議員選挙が予定されています。不安視されているデウバ政権下で成功裏に実施されれば大きな政治的成果といえましょう。

ネパールの選挙では政策論争は全く期待できません。かつて、選挙運動の時に、わが党が政権をとれば『嫁がもらえる』、『家を建てられる』というようなキャンペーンを張った候補がいました。わが国の選挙マニフェストもかみ砕いていえばこのようなことなのかもしれません。

ただ、いただけないのは、有権者に飲み食いさせる等の供応や、金を渡す等の買収が当選を決定づけることかもしれません。

(スガジイ)

2017年10月13日金曜日

10月13日


《萬鐵五郎展》が葉山の神奈川県立美術館で開催されました。萬は明治末期から大正期にかけて活躍した画家で、当時の前衛であったフォービスムを導入したことで知られています。

私の目当ては重要文化財に指定されている『裸体美人』(1912年)でした。力強い輪郭やはっきりした顔立ち、コントラストの強い色使いは東京美術学校の卒業制作にふさわしいものでしたが、当時はあまり評価されなかったようです。

明治維新後、新政府を担う人材を欧米に派遣して政治、社会経済、文化等の導入を試み、短い時間で近代化を成し遂げます。1905年(明治38年)に日本海海戦でロシア艦隊を破り、大韓帝国に統監府を設置し国威発揚に沸く時代でした。

大正期は、大正デモクラシーといわれるように普通選挙運動、社会主義運動、労働運動、女性解放運動などの社会運動が活発となった時代です。第一次世界大戦が勃発して、日本は大戦景気に沸きます。一方で経済大恐慌の時代でもありました。ロシア革命によって社会主義国が誕生しました。関東大震災が発災したのは1923年です。まさに激動の時代でした。

時を経ずして一転して暗い画風になります。会場ではこの時代を『沈潜期』としていました。『雲のある自画像』等の自画像が数多く作成されています。故郷岩手に帰郷して風景画も多く見られます。

1919年には結核療養のため神奈川県に転居します。この頃南画の研究を進めますが、湘南の風土のように明るい洋画を残しています。自身の娘たちを描いた肖像画はいとおしさがにじみ出ていて父親の情が感じられます。展示の最後にこのような絵に巡り合ったことで、鑑賞者として幸せに感じるものがあります。

葉山といえば天皇家の御用邸で有名です。もともと相模湾に面した静かな漁村でしたが、最近ではマリンスポーツの基地としてにぎわっています。美術館は市街地から少し離れた海辺の松林にあります。海を見渡すレストランでくつろげますし、松林の遊歩道も木々のにおいが心を和ませます。
(スガジイ)

2017年10月6日金曜日

10月6日

9月半ばの強い風と雨で玄関先の木犀の満開の花がすべて散ってしまいました。樹下は一面の薄黄色の花でおおわれています。夜中に起きて明るさに驚かされました。この樹は8月中旬にも花を咲かせました。年々花が小さくなって、色も薄くなったような気がします。

春に散る桜花にはかなさを感じますが、秋の寂しさを感じるのは私にとって木犀の花の芳香です。15年も我が家を留守にして、季節の移ろいにも感性がくるってしまった私ですが、この秋にはもう一つの思いがけない自然からのプレゼントがありました。

ある朝起きると、以前にもまして木犀の強い香りが漂っています。庭先の桜の大木の陰にもう一本あったのです。先の花が散った後、数日をおいてかおりをたて始めました。それは先の花より色も濃く香りも強いものです。何かご褒美をいただいたようです。

留守のあいだの荒れ放題の庭に萩が残っていました。もう朽ちてしまったとあきらめていましたが、今年は元気を取り戻して花をつけています。

辻邦生の短編集「花のレクイエム」の9月の花は《マツムシソウ》です。夏の淡い恋の終わりを語ります。『八月も半ばを過ぎると、草原いちめんにまつむし草が淡青い花をひろげた。「もうまつむし草が咲いている。夏も間もなく終わるのね」れいは草原に足を投げ出して坐った。』

この秋の初めには信州の蓼科や霧ケ峰高原にタカネマツムシソウをめでに行こうかと迷いながらも、9月の末に信州と甲斐の境の八ヶ岳連峰を縦走しました。麓の針葉樹の森にはトリカブトの紫の花です。

山稜ではゴゼンタチバナが赤い実を結び、エーデルワイスの仲間のウスユキソウがまだ白く群生しています。森林限界高度ではダケカンバの葉が斜面一面を黄色く彩ります。風が冷たい稜線です。

私は夏の終わりの山を一人静かに歩くことを好みます。残りの花を惜しみながら。

(スガジイ)

2017年9月29日金曜日

9月29日

91日は関東大震災発災の日であり、防災記念日で、3日の日曜日には全国各地で防災訓練が行われました。わが町でも地区ごとに実施されわたしも参加しました。参加者は高齢者が多いのですが、長年不在にしていたので顔見知りは数人しかいません。

内容は、消火器の扱い方、放水訓練、三角巾の使い方、簡易担架の作り方や給水の実施方法でした。火災を対象にしたものです。たぶん全国一律のお仕着せプログラムなのでしょう。何か緊張感のないものでした。
この町は伊豆半島の付け根にあるところ、近い未来に必ず起こるであろう『東海地震』の震源地に近く、地震の揺れならびに津波による大きな被害が想定されています。海辺の地区には津波避難所が建設されました。我が家の位置は海抜18メートルで、東日本大震災規模の津波ですと、間違いなく被災します。

最近、北朝鮮は二度にわたり日本列島を飛び越えるミサイルを発射しました。ほんの数分の出来事です。政府は『Jアラート』なる避難情報を発出しました。瞬時に感知、発出する技術に覇驚嘆しましたが、受け手の国民の戸惑いも並大抵ではありません。
アラートの文言には避難すべき場所も含まれているのですが、一瞬の判断には『恐怖』の感情が先に立ちます。逃げることが判断の大きな部分を占めることは想像に難くありません。実際、対象地域の市民の中には「どうしたらいいのかわからなかった」という意見がありました。

瞬時の正しい判断は、日頃の広報と訓練の反復によるものが一番と思います。冒頭の訓練の中で、町長は『自助努力』を繰り返し説いていました。その通りなのですが、この行政の長は、行政がなすべきことがわかっているのだろうか、あるいは準備がすでにできているのだろうかと、少々頼りなさを感じたのも事実です。
2年前の地震で、我がカトマンズにおける震災に強いところ、弱いところが明確になりました。復興が徐々にではありますが進んでいる中で、私たち自身の身の守り方をもう一度考える時期に来たのではないかと思います。
(スガジイ)

2017年9月22日金曜日

9月22日


前回はナシ、カキのことを話しましたが、ジュナール(柑橘類)を語らなければ片手落ちになるでしょう。

ジュナールを初めて食べた時、その香り、ジューシーさにすっかり虜になってしまいました。当時はカトマンズの市場にたくさん出回っていたのですが、最近はとんと見かけません。

ジュナールはネパールの在来種ではありません。鎖国時代に政府高官が外国からひそかに持ち帰ったという話を聞いたことがあります。1971年に始まった『ジャナカプール農業開発計画(JADP)』は当時のジャナカプール県をテライから山岳部までを対象地域としていました。1976年にシンズリ郡で栽培されていたのをJADPの専門家が見つけて、のちに始まる『果樹開発計画(HDP) 』の対象果樹となりました。

シンズリ道路を北へ越えた北東斜面にシュレスタさんのジュナール農場があります。彼のお父さんがカブレのバネパからこの地に移住したのだそうです。近隣の農場と異なるのは、苗木の生産をしていることです。HDPが日本のカラタチを台木とした接ぎ木技術を教え、ウイルスフリーの苗木の量産化が可能になりました。

シュレスタさんはジュナール栽培技術を富安裕一さんから教わったと誇らしげです。富安さんは青年協力隊時代にカカニでダイコン栽培の普及に成功して、ダイコンは市場で「富安大根」と言い慣わされていました。ジュナール栽培で富安さんは15年間で100回以上の農村での巡回指導をしたそうです。富安さんの指導した技術は地元の篤農家に脈々と受け継がれています。

シンズリのジュナール組合では日本の援助でジュナールの冷蔵貯蔵庫を建設しましたが、おりしも電力不足で使われないままになっています。一方、シュレスタさんはエネルギーを使わない日本の伝統的な温州ミカンの貯蔵法を習得し、春の高値出荷に成功しています。

さて、ジュナールがカトマンズの市場に出回らないと言いましたが、それもそのはずです。インドのジュース業者が零細農家のジュナールを青田買いしているのです。農家にとっては出来高によらない安心感があるのでしょうが、適正価格が維持できないなかで農家経営が委縮しないか心配です。

(前回と今回は、JICAネパール事務所発行島田輝男著「日本人によるネパール農業開発協力の一断面」2006を参考にしました)

(スガジイ)

2017年9月15日金曜日

9月15日


8月に入ったら、果物屋の店先にカキやナシが並んでいました。いずれも小ぶりでした。
ナシはネパール語で《ナスパティ》、何となく連想しやすい語感です。村に行くと小さくて硬いイシナシがたわわに実っています。この季節、農家の庭先でごちそうしてくれます。

カキはネパール語で何というのでしょうか。私の古い友人の家の庭に渋柿があります。彼らは木に熟すまでおいておき渋を抜くようです。ある日、我が家に籠いっぱいのカキ持ってきてくれたので、妻が干し柿にしてお返ししました。この干し柿つくりは鳥との戦いだったようです。

ナシとカキの日本品種導入は、JICA果樹開発プロジェクト/フェーズ2で実施されました。1992-99年のことです。カトマンズ盆地とカブレ郡が対象です。ナシは豊水と長次郎、カキは甘柿が富有と次郎、渋柿が平核無です。

日本人会婦人部ではバクタプールになし狩りに行くのが恒例でしたが、いつのころからか病気が出て不作続きということで、立ち消えになってしまいました。せっかく根付いた高級果物なので技術を絶やさないようにしてほしいものです。

プロジェクトの後を継いだのが青年協力隊(JOCV)の諸君でした。毎年、盆踊りに秋の果物を出店してくれますが、今年が豊作であることを祈ります。

プロジェクトのリーダーが近藤亨さんでした。JICAプロジェクトに続いて、私財をなげうって「ムスタン開発協会」を設立運営し、ムスタン郡の果樹の普及に努められました。一昨年93歳で惜しまれながら亡くなりましたが、通称『コンジー』でした。『すがジー』は不遜にも跡を継いだものです。

コンジーのすがジー評は、「あんたはいい人なんだが、麻雀をやらないのがタマにきず」。80歳過ぎても徹夜麻雀にいそしんでいらしたそうで、妻は『起きたっきり老人』と揶揄していました。

店先で見たナシ、カキはネパールの在来種か、あるいは導入品種の管理が悪くて大きくならなかったものかもしれません。


(スガジイ)

2017年9月8日金曜日

9月8日

日本に帰ってきました。8月下旬です。あまりの暑さに体が動きません。カトマンズとは1-2度しか違わないのに、何かしたい気持ちが起こらないような意欲をそぐ気温です。体がこの気温と湿度に適応するまでどれくらいの時間が必要なのでしょうか。室内の冷房も影響しているのかもしれません。外気温との差に歳をとった体がすぐに対応できないのかもしれません。

そんな暑さの中、セミは勢いよくないています。アブラゼミです。ジージーゼミとも言っていました。ミンミンゼミもかまびすしく鳴いています。庭の地面には小さな穴がたくさん開いています。セミの幼虫が地中から這い出た穴です。脱皮した殻が気に残ります。夕方にはヒグラシがなきます。

アリは忙しそうにえさを地中の巣に運んでいます。炎天下を何するものぞとの勢いです。きっと地中の巣は涼しいのかもしれません。我が家のアリは黒くて大きめです。
庭の花たちも強い日差しを真っ向から受けて輝くように咲いています。夏の花は鮮やかで強く感じます。紫のサルビアは初夏からずっと咲き続けています。その色と姿は庭の花の中で静かにそして一段の存在感を誇示しています。モクセイは春の様ではなく控えめな香りをそっとにおわせています。

カキの実もだいぶ大きくなりました。今年はあまり実のつきが良くないようです。クワガタのメスがカキの実の汁を吸っています。夏ミカンの実も濃い緑色を少しずつ大きくしています。毎年、マーマレードになる果実です。ホームセンターでは鈴虫を売っていました。涼しげな音色で歌っています。秋が近くまで忍び寄っているのでしょう。カブトムシやクワガタはもう展示していません。無機質な店内ですが、季節の移り変わりがささやかながらもさわやかに感じられます。

10日たち、20日たち、1か月がたったら庭の様子がどのように変化するか、今から楽しみに待ちたいと思います。そしてもう少し涼しくなったら近くの山を歩いて、去りゆく夏と来るべき秋を肌で感じてみたいと願っています。

(スガジイ)

2017年9月1日金曜日

9月1日


標高4,000mのランシサカルカにてテントで2泊しました。一晩は星が降るように満天に輝いていました。ヤク(チベット牛)たちはどこをねぐらにしているのか周辺に見当たりません。

キャンジンゴンパのロッジに戻ります。チャン(ドブロク)がとてもおいしい家です。アルコール度数の高い上質の日本酒を飲んでいるようです。ストーブの周りで、だんだんと話がはずんできます。

主人チョテン・ラマ(45歳)は父親の跡を継いだゴンパの僧です。聖と俗の掛け持ちです。この村に専従の僧がいないのは歴史が新しいからでしょうか。1959年のチベット侵攻で逃げてきた人たちです。

やおらチョテンが懐から千ルピー札の束を出します。にやにやしながら「俺がバザールで稼いできた」と誇らしげです。何度も出し入れします。それをかわいげに見ている大柄な女性が50歳の年上の女房です。いかにも女将という感じです。この主人は下流のゴンパにも同名のロッジを持っています。なかなかの事業家と見ました。チベット族は家を妻が守り、夫は外で稼ぐのだそうです。

調理場を仕切っているのが主人の姉です。4人の子供の母で次女(20歳)が手伝っています。旦那さんを地震でなくしました。往路キャンジン村の入り口で待っていたのがこの人でした。ランタンから電話連絡があった由。商売上手です。

次女に「そろそろ嫁にいく歳ではないか」と尋ねると、チョテンが「村には若者がいない」と言います。確かに村外から来た建設作業員のほかに若い衆がいません。就学年齢の若いものはみなカトマンズのボーディングスクールで学んでいるのです。村に帰りません。

結婚相手はというと他民族のタマンやチベット族だと中国領の国境の町ケルンあたりの人になるようです。ケルンのチベット族の料理は辛すぎてかなわんと言います。まかない料理を見ていると、すっかりネパール化しています。

村は建設ラッシュです。さすがはビジネスに聡いチベット人だけあって、自力で再建しています。チョテンのロッジは1,000万ルピーかかったそうで、資金は姉さんから借りたといいます。すぐに融通できる人もすごいが、投資を決断するチョテンも偉いものです。

地震で三分の一以下に減ったトレッカーが復活する日も近いと感じました。

(スガジイ)

2017年8月25日金曜日

8月25日


盆踊りが大盛会でした。会員の皆様もこれまでになくお楽しみいただいたことと思います。。

はじめの踊りから盛り上がりました。日本語を学ぶネパール人に浴衣貸出サービスを行ってから何年になるでしょうか。やっと定着して、学生の皆様に喜んで参加いただけるようになりました。実は浴衣の貸し出しや、その後の管理には大変な労力がかかるのです。お世話いただいた皆さんに感謝します。

我が補習授業校の幼児部によるお神輿かつぎは参加者を一気に一つにまとめました。《可愛い力》がこんなに大きな役割を果たしたとは驚きです。父兄の皆さん、幼児部の先生方、見事でした。

補習授業校お得意の生徒、父兄による合唱はお手の物で何度聞いても感激です。林先生のもと、ますます歌唱力を磨いてください。次は忘年会が出番です。

スイカ割りも例年より力が入りました。見物人も含めてエクサイトしていました。こんな単純なゲームですが、人々の目線がスイカ一点に集まるとはこれまた驚きでした。

出店の皆様ご苦労様でした。早くからご準備いただいて、気合が入っているのがよくわかりました。昨年程度の参加人数を予測されての仕込みだったと思いますが、今年の参加者数では最後までに売り切れてしまう店が続出でした。来年もよろしくお願いします。

さて、本番の踊りですが、例年の〽月が出た出た『炭坑節』、〽踊り踊るなら『東京音頭』、〽えらいやっちゃえらいやっちゃ『阿波踊り』に加えて、今年は『ドラえもん音頭』が登場しました。小さい子にも大好評。

二回目の踊りも遅くまで熱く踊りました。三回目のイクストラの要求が出るほどまでにノリノリでした。こんな夢中になって大勢が最後まで楽しんだ盆踊り大会は、当地日本人会の歴史始まって以来かと思います。

参加者の皆さんありがとう。JUANJAANJALTANNAASの皆さん来年も参加してください。準備運営してくれたスタッフの皆さんありがとう。
(スガジイ)

2017年8月18日金曜日

8月18日


2015425日の地震によってランタン村は壊滅しました。ランタンリルン峰(標高7227m)の氷河の崩落によって村全体が氷で埋め尽くされてしまったのです。

この村には55軒のトレッカー用ロッジがあり435人が在住していました。行方不明者は403人、うち外国人131人と発表されましたが、トレッカーやそれに付随するガイド、ポーターなどがさらにいたものと思われます。

西の小高い丘の上の集落ゴンパは崩落時の突風によって建物が吹き飛ばされました。昼食をとったロッジの主人は大岩の陰に隠れて難を逃れたようです。ランタン川対岸の大木が根こそぎ倒れているのもこの突風によるものと思われます。このほか東のムンドゥやキャンジンゴンパも地震の揺れによる壊滅的被害がありました。4集落合計で131世帯671人の被災者です。

父親から引き継いだキャンジンゴンパの僧であるロッジのサウジ(主人)によると、この谷のチベット人は1959年に中国軍のチベット侵攻から逃れ、ケルン、ラスワガリ経由でこの地に来たといいます。地名の由来は、Lang: 牛、Tang:険しい道、牛が険しい道を上った、というところでしょうか。

それ以前400年ほど前にタマン族が入植していたとのことです。その後チベット人が入ってきたわけです。産業は牧畜と農業の半々です。80年代末からトレッキングが盛んになり、今ではほとんどすべての村人が観光関連業に携わっています。

キャンジンゴンパから上流部にはいくつもカルカ(放牧地)があったのですが、今では牧童小屋も崩れており、村人が言った通りカルカにいるのはヤクの類(チベット牛)ばかりです。

さて、これら4集落の復興ぶりといえば目をみはるばかりです。以前より数倍大型のロッジを鉄筋コンクリートでいち早く建設しています。石積みのロッジも政府の耐震設計に準じています。

規模によって200万から1000万ルピーかかったそうです。いずれも自己資金です。ソルクンブのシェルパも地震後いち早くロッジを立て直しましたが、さすがにチベット系の人はビジネスにさといと感じました。

(スガジイ)

2017年8月11日金曜日

8月11日


イギリスの登山家ティルマンが「世界一美しい谷の一つ」といったランタン谷にトレッキングしてきました。714日から9日間です。なぜモンスーンの天候不順期に?いえいえ、高山植物が真っ盛りなのです。ヒルの歓迎も受けましたが。

シャブルベシまで車で入ります。ここはすでにチベット人が多く見られるバザールです。そのまま歩き始め、午後4時にラハレのチベット人経営のロッジに着きました。この家族は翌朝カトマンズに行くということです。

二日目は急坂を登り切りリムチェで昼食後、リバーサイドで一泊。三日目はゴラタベラ付近から森林帯を抜け出し、いよいよ高山植物の世界に入ります。歩くのに苦しいのと、花をカメラに収めるのとなんとも落ち着かない日です。地震の災害から復興しつつあるランタン村に泊まります。

四日目はキャンジンゴンパ泊です。この村も地震の被害で全壊し本村のランタン村より大きなロッジを立てています。ランタンプランの貞兼綾子さんはゴンパの建設を支援しています。

五日目はランシサカルカにテントを張って二泊しました。キャンジンでカルカの様子を聞いたところ、「ヤクしかいないよ!」「牧童は?」「チャイナ(いない)!」その通りでした。

花々は私の文章表現力を超えて魅力的です。写真でお楽しみください。

(スガジイ)

        



  


2017年8月4日金曜日

8月4日

ここ何年か日本人の主婦からカトマンズの物価の値上がりをこぼされます。国際通貨基金(IMF)発表の消費者物価指数の推移をみると、2008年から毎年の上げ幅が大きくなっているのがわかります。名目GDPの急上昇もこの年から始まります。
この年はリーマンショックが起きた年ですが、ネパール経済と切っても切れないインドも2008年を境に同様の傾向を示しています。バングラデシュも同様です。他のアジア諸国では別のトレンドなので、インドを中心とする経済圏の特異現象なのかもしれません。
ちなみにネパールの経済学者は、リーマンショックのネパールへの影響について、グローバル経済から孤立した国だから影響はほとんどないと言っていました。
私は生活必需品の買い物をしないので、物価の値上がりを皮膚感覚でとらえることはできませんが、タクシーの料金の高くなったのは感じます。誰も料金メーターは使いません。運転手に聞いてみると、一日の売り上げは2,000から2,500ルピーのようです。オーナーからの車両借り賃が1,000ルピー、ガソリン代が700ルピー、粗利は300~800ルピーです。これでは生活も楽でありません。
カトマンズではほとんどの人がスマホを持っています。携帯電話契約数が1百万台を超えたのが2006年です。前年比500%増です。この年から急激に伸びて、2015年には2,751万台に達しました。国民一人1台の計算です。2006年はマオイスト内戦が終結した年です。
もう一方の通信革命の雄であるインターネットの普及率推移を見ます。2010年から急上昇します。この年一年で4倍の増加です。2009年に1.97%の普及率であったものが2015年には17.58%とこの間9倍に増えています。
おりしも連邦制に移行するに際し、情報通信技術の普及向上が地方自治体の発展を左右するように思われます。
また、これらの現象を見ると、平和になって経済発展の速度が促進されることが見て取れますし、政治が不安定でも国民はしたたかに富を追い求めているのではないでしょうか。
(スガジイ)

2017年7月28日金曜日

7月28日

ネパールで20年ぶりの地方選挙は第一フェーズが第346州の3州で514日に投票され結果が出ました。
候補者数のクオータ制で、女性とダリット(カースト制での弱者)が優遇措置を受けており、女性は候補者5人に2人と規定されています。開票結果ではクオータ制が不要と思われるほど女性の当選者が出ました。全議席13,400のうち5,44540%)が女性です。大統領も国会議長も女性の国です。
ちなみにこの国の男女平等度は144か国中110位(2016年)です。どこかに女系天皇云々を論争している国がありました。この国は111位です。
いつから女性の地位がこのように高くなったのでしょうか、あるいは真の意味での地位向上なのでしょうか。45年前になりますが、フィールドワークで暮らした東部山地の村では日々の暮らしの中心は女性でした。男性は昼日中博打に興じたり酒を飲んでいます。女性は薪とり、水汲み、畑仕事と大忙しです。女性の財産は金の装飾品で常時身に着けています。これではおいそれと追い出すわけにはいきません。
カトマンズでは様相が変わります。妻を買い物に出さず夫が代わってします。ある晩、拙宅で大勢と食事をしていた時、ネパール人の夫が突然入ってきて日本人の妻を無言で連れ帰ります。遅くまで外で男たちとなんてことだというのでしょう。カルチャーショックですが、ネパール人特有の《嫉妬》深さも感じられます。妻は夫の専有物であり、人格が尊重されないのではないかとさえ思えます。
《嫉妬》は、ネパール社会の合意形成や意思決定にも影を落としています。議論の中で如何にも「正論」風の持論を述べる人がいるのですが、多くの場合本質から外れています。屁理屈を並べて足を引っ張ります。《嫉妬》を隠した敵意のこもった反対論が展開されます。不毛な議論が延々と繰り広げられるのです。
役所の底意地悪い対応ぶりにも、我々外国人はひたすら耐えるしかないのでしょうか。
(スガジイ)

2017年7月21日金曜日

7月21日

623日付の新聞各紙は調理用ガス(LPG の供給が不安定になるかもしれないと報じています。一昨年、長期にわたってインド国境封鎖に伴ってLPGを含む石油製品などが大幅に不足したのが思い出されます。
おりしも地方選挙でマデシ系政党が憲法改正の先送りを理由に選挙ボイコットを宣言してプロビンス‐2の投票日が再延期されました。しかし今回のLPGの供給問題はこれとは関係が薄いように思われます。
これまでLPGのネパールの供給業者の貯蓄所(全国に46か所)までのインドからの輸送はインドの運送会社が請け負っていました。775台が稼働しています。インドの業者に物流を握られているのはネパール側としては不都合があったのでしょう。想像に難くありません。
ネパールの供給業者は輸送の不都合を解消するために自前のPLGローリーを持つこととして、55億ルピーを投じて400台のローリーをインドメーカーから調達し、さらに398台が発注済みとのことです。
供給不安定予測の理由はこういうことです。インドの法律によると、LPGローリーは危険物輸送に関するライセンスをインド保安当局が付与します。ところが外国ナンバーに付与する要件がありません。この調達したローリーはネパールナンバーです。
インドの国内法ですから外国ナンバーの車両への認可は想定していないのかもしれません。インド輸送業者やその恩恵を受けている人からすれば既得権を侵害するものと言えましょう。インドは最近の目覚ましい経済発展の陰に、グローバリズムに反する国内産業の保護政策があります。
それにしても、ネパール人の「思い込み」あるいは周りの「空気を読まない」というしばしばみられるビヘイビャーが出てしまったと残念に思うところです。消費者にツケを回さないようにしてもらいたいものです。
(スガジイ)

2017年7月14日金曜日

7月14日

ダディン郡の村に行ってきました。ククレチョール《ニワトリ村》。来年から始める「小児白内障対策プロジェクト」の予備調査です。 
2015年の地震から2年が経ちましたが、この村のほとんどの家はいまだにトタン板の仮設住宅です。ダディン郡は激甚14郡で2番目に多数の住民が被災認定を受けて補助金30万ルピーの対象になっているのですが、再建に着手したのは7%にも至りません。唯一学校が再建されていました。
Brahma S.J.B. Rana著〝The Great Earthquake in Nepal 1934 A.D" をみてみます。
1934115日午後230分に発生した地震の震源地は、エベレストから真南にインドのビハール州に入ったあたりです。推定マグニチュードは8.0です。ネパール東部・中部の被害が甚大です。死者が全土で8,519人、うちカトマンズ盆地で4,296人と人口密集ぶりがうかがえます。死者の数は2年前の地震と同程度ですが、当時の人口はいまの5分の一です。倒壊建物が207,704戸。ビハールの死者は人口150万のうち7,188人でした。
当時の人が信じていた地震の起因が紹介されています。一つ目は、占星術で7つの惑星が黄道上に近づくと戦争や自然災害が起こる。二つ目は、大地は大蛇や魚の肩が支えているものであり、人の罪が増すとその重さに耐えられなくなってもう一方の肩にかけ替える、その時に地震が起こる。三つめは、この年欧州人がシバ神の玉座であるエベレストの上空を飛行したことを罰したというものです。
地震後の人々の行動を類型化して、1)この世の終わりと考え、最後の晩餐を着飾ってとった、2)意気消沈して何もする気が起きなかった、3)一念発起して困っている人に援助の手を差し伸べた、4)災害時は自助努力が不可欠と考え食料品等の自家製造を心がけた。
私たちにとっての教訓が暗示されていると思われます。救助が受けられるまでの時間は、自分自身で生き延びる術を身に着け準備を怠らないことが肝要ではないでしょうか。
 (スガジイ)


2017年7月7日金曜日

7月7日


65日サウジアラビヤとエジプトがカタールと外交関係を断絶し、他に追随する国が出ました。湾岸産油国はネパールにとって経済の面で切っても切れない関係にあります。サウジとカタールは出稼ぎ労働者の最大受け入れ国なのです。
カタールで働くネパール人は40万人です。カタールの人口の20人に3人にあたります。カタールへの渡航者は一日当たり353人です。
海外出稼ぎ送金はすでに国内総生産の3割を超える規模に達しており、この国の経常収支に大きな貢献をしています。昨年のカタールからの送金は1,690万ルピーで、全体の17%です。生活水準向上への役割は決して小さくありません。しかし、この経済的な恩恵は彼らの大きな犠牲の上に成り立っているのです。
2014/15年度の死者は1,002人にのぼります。国別では、マレーシア427人、サウジ273人、カタール178人です。死因は、循環器疾病が358人、その他病死241人、交通事故119人、作業事故113人、自殺112人です。
病死が6割を占めているのは作業環境が過酷である証かと思われます。いずれの国も日中屋外で長時間作業するのはフィジカルに無理があります。さらに同情を禁じ得ないのが自殺です。なじめない異国で、過酷な労働の末に心の平衡を壊してしまうのでしょうか。いずれの死も、望郷の念に駆られながらの無念な結末であることは間違いありません。トリブバン空港で棺の到着を見るたびに同情を禁じえません。 
出稼ぎの増加は国内に雇用の受け皿が十分でないことですが、産業政策はこれにこたえようとしていません。外資の導入も経済成長を牽引する一方策ですが、投資者の要望に応えていません。その根っこにあるのは政治家、官僚、ビジネスマンの「甘え」といって過言ではないでしょう。
(スガジイ)


2017年6月30日金曜日

6月30日

624日、カトマンズ補習授業校で「七夕音楽会」が開かれました。生徒も保護者も皆さん素晴らしい腕前を披露していただきました。
補習校の音楽教育が充実しているのは、ネパール音楽の気鋭の研究者でいらっしゃる林裕士先生の惜しみないご指導によるところが大きいと思います。林先生の研究の成果も楽しみです。
七夕の願いを込めた短冊は『試験でいつも100点をとる』『水泳を浮き輪なしでしたい』等々身近な願いが多かった中で、『ほんをかく人になりたい』という人生をまっすぐ見据えたものが目を引きました。私が小中生のころの願い事はすっかり忘れてしまいましたが、皆さんはどんなことを願ったでしょうか。
音楽会に引き続き、退任される中野先生と河村先生の送別謝恩会がサネパのカフェUで持たれました。中野先生は大使館の中野書記官の夫人で、3年にわたり教鞭をとっていただきました。在校生からの色紙の贈呈時には思わず涙ぐんでいらっしゃいましたが、気持ちをこめてご指導いただいたものと感じ入りました。
河村先生には、トリブバン大学国際言語キャンパスで日本語を教えていらっしゃる傍ら、4年にわたり貴重な休日である土曜日を補習校に時間を割いていただきました。プロの教師でありとてもタフな方です。
両先生にはあらためてお礼申し上げるとともに、日本に帰られたのちもご健勝でご活躍されることをお祈りします。
私は校長とはいえイベントで挨拶をする程度の「名ばかり校長」でありますが、謝恩会では保護者の皆様と親しく話す機会をいただきました。
カトマンズ補習授業校の特色を一言でいえば「手づくり学校運営」であると思います。貧乏校であるがゆえに教員と保護者が物心両面でご苦労されながら、授業を充実させた上にイベント企画で生徒たちにネパールの学校にない体験をさせていただいています。ますますの充実をお祈りします。
(スガジイ)


2017年6月23日金曜日

6月23日

体のあちこちに不具合が出てきたのを機にウオーキングを始めました。早朝5時半にラジンパットを出発して一時間のコースです。3kmちょっとの距離でしょうか。路地と大通りを組み合わせます。
路地の塀のうちからはジャスミンの香りがまだ寝ぼけた頭を刺激します。そのうち小さい川沿いの道になります。川というより下水道で、強烈な匂いに瞬く間に不快になります。紀元前2500-1800年に栄えたモヘンジョダロの都市にはすでに汚水の排水システムができていたというのに、21世紀のこの街のありさまは何とも情けない思いがします。バガマティ川浄化キャンペーンの《口ばっかし》は国民性なのでしょうか。
大通りに出るとそこここにごみの山です。ビニール袋に入れたごみの山がカトマンズ市の収集車やごみ収集業者が集めに来るのを待ちますが、犬やカラスが袋を破り散乱しています。気温が上がると強烈な匂いです。道端に積み上げるのでなく、ごみを置く施設を設置できないでしょうか。ちなみに日本の我が町は堅牢な金網で囲ったごみ置き場がどこの家庭からでもアクセスしやすい距離にあります。
新聞店によって英字紙2紙を買い、一面をざっと見ます。昨日も何も起こらず、何も進まず、天下泰平であります。一方で、森友だ加計だと本質から外れた論争の国会やマスコミがどこの国の話であったか、世の中あまり変わらない気がします。
路上に牛乳の箱を積み上げて売っています。各メーカーが一次共同デポを主要な通りの各所に設定し、トラックで配送します。ここから個人業者が自転車でさらに小売店に配送するのです。女性がマネージしているデポが目立ちます。小売りもします。
薄めすぎた牛乳とヨーグルトを買って家にもどり、うっすらとかいた汗をシャワーで流して、相も変らぬ一日が始まるのです。
(スガジイ)

2017年6月16日金曜日

最初に行くのはびよういん??

5月を20日も過ぎると日本は30度前後まで気温があがり、子供や年寄りにとっては体への負担が心配されます。外出するときにはスポーツドリンクが必携です。

今回一時帰国して納得したのは、体をいたわらなければならない年になったということです。自覚症状から病院通いが始まりました。まずはひざの痛みを整形外科で見てもらいました。水が溜まっているということから湿布薬を処方してもらいます。次に鼻のアレルギーが持病であるところ耳鼻科に行きます。花粉症と蓄膿症を併発しているとのことです。
4月上旬にカトマンズで極度の食欲不振に陥りました。8日の補習授業校の入学式には下痢が重なりました。何とも力のない校長挨拶になってしまって、新入生や父兄には申し訳ない気持ちです。中旬に一時帰国を予定していたので、バナナと紅茶で過ごしました。酒が抜けた我が肝臓はびっくりしかもしれません。

かかりつけの内科での血液検査の諸数値は異常ありませんが、胃カメラ検査とピロリ菌検査を受けました。なんと大きな腫瘍があるではないですか。組織検査結果を待ちます。最悪の事態を考えます。進行中のプロジェクトをどうするか。我が家は曹洞宗だが、不信心の私がこんな小難しい宗旨をいまから理解するのは間に合わない。臨終のときに聞く音楽は前々から決めてあります。フォーレ「ラシーヌの雅歌」です。

この2週間、妻にはガンに違いないので今のうちにうまいものを食べさせろ、いい酒を買って来いと、普段に増して食事を楽しみました。食べる楽しみは不安を忘却させることを知りました。検査結果は「シロ」で、3か月後に再検査することになりました。

「病院で サミットしている 爺7」アキちゃん

「ばあちゃんが オシャレにキメる 通院日」ベラ (第30回サラリーマン川柳)

(スガジイ)

2017年6月9日金曜日

風月雨水

昨夜来の雨の音に目を覚ましうつらうつらしていると山鳩のなく声が聞こえてきます。山鳩は我が家の常連客なのですが、雨の日に来るはずはないので空耳であろうと思いつつ、カトマンズではそろそろカッコウが鳴き始める季節だと思いをはせるのです。
冬の季節には妻が庭に野鳥用のえさ場をしつらえます。夏ミカンや温州ミカンの輪切りが鳥たちのお気に入りで、つがいで来るヒヨドリがまずえさ場を席巻します。メジロは飽きもせずにミカンをつついています。群れでくるのはスズメです。強い鳥の間隙を縫ってえさをついばみます。
我が家から5分も歩くと神奈川と静岡の県境の千歳川に出ます。町内の下水道網を整備したので川の水は澄んでいます。廃棄物が流れることもなくなりました。この川で遊ぶゴイサギは大きさと姿勢の良さでとても威厳があります。カワセミは羽色が美しいことから川の女王といわれます。河口近くになるとユリカモメが群れています。
さて、我が家のお客様は桜の花が終わるころになるとだれとはなしにいなくなってしまいます。山に帰ってしまうのです。そこで繁殖の準備を始めます。この頃近所の低山に行くと鳥たちのラブコールがにぎやかです。若葉のむせかえるなか、自然のエネルギーが肌からしみこんでいくように錯覚します。
510日から「愛鳥週間」が始まりました。
(スガジイ)

2017年6月2日金曜日

クマさん大王の物語 完

16年前の61日、忌まわしい事件が起きました。10人の主要な王族が射殺された王宮の惨事です。
私はこの時東京の本社に勤務しており海外部門の総務的な仕事をしていたので、社員の安全を確保する立場にありました。事件の概要はわかっても真相が闇のままで対策に苦慮しました。カトマンズの街の平静さが唯一安心材料でした。
後日ニューデリーに出張した折に日本大使にお目にかかる機会がありましたが、カトマンズで何が起こっているかとのご下問があり経緯を説明したのちに、「終わりの始まりだな」とぽつりと言われました。2006年に国王の権限を制限され、2008年にはまさに退位に追い込まれたわけです。
シャハ王朝は、1769年にプリトゥビ大王がネパールに覇をとなえた時に緒をみますが、ラナ将軍家が19世紀半ばに権力を掌握した時に統治の一線から退きます。そして、1950年にインドの支援を得て王政復古を果たします。このときインドに亡命していたネパリ・コングレス党の政治家たちが活躍しますが、ネルー首相が王制を排することをしなかったのは、政党が国造りの受け皿となるには時期尚早とみたからと思われます。
パンチャヤト体制というネパール独自の議会システムを経て、1990年に新憲法を制定して議会制民主主義を導入しますが、10年間に9の政権が入れ代わり立ち代わりして安定しません。そしてマオイストの内戦時代に不安な日々を送ることになります。国王が政治の表舞台に再登場しました。和平成立後も政治の不安定は相変わらずです。そして連邦民主共和制の憲法が制定されたのちも政局に明け暮れる諸政党です。
今日、王制時代を良き時代と懐かしみ、再び国王をいただいた国体への回帰を夢見る国民が増えているとのことです。彼らは王政復古を望んでいるのでしょうか。私には、ビレンドラ国王の人柄をしのんで、良きリーダーの出現を心待ちにしていると思われてなりません。
(クマさん大王の物語 完)
(スガジイ)

2017年5月26日金曜日

やめられないとまらない

「酒は飲むべし百薬の長」などといいますが、飲み過ぎて翌日つらい思いをするのは私ばかりではないでしょう。ネパール人の酔っぱらいともずいぶん付き合いました。

もう45年も前の話ですが、オカルドゥンガ郡ルムジャタール村に一年間住んで農村調査をしたときのことです。東部ネパールでは珍しいグルン族の村です。グルン族の故郷は中部ネパールです。ルムジャタールはその名からもわかるようにもともとはルムダリライ族の村でしたが、プリトゥビ・ナラヤン・シャハ王がカトマンズ盆地を征服した折に、いくつかのグルン族の部隊が勢い余ってそのまま東征し、もともとライ族の領地をこの村のほかに隣のコタン郡にも三村を占領して住み着いたようです。このグルンの人たちは母語をすっかり忘れています。

私の下宿先はグルン族の家でしたが、同じ敷地にネワール族の未亡人とその母親の婆さんが住んでいて、ロキシー(ヒエの蒸留酒)を造って村人相手に居酒屋(?)をしていました。夕方ここにいると村ののんべい連中から情報収集ができるのでとても便利なのです。私と同年代で村一番のインテリであるバフンのジャイナラヤンは、カトマンズで教育を受けた数少ない一人で、村で自分の能力を生かす場が見つからず不満が鬱積して酒浸りの毎日です。

年配のグルン族のイシュワルも常連の一人です。この人は村の男の例にもれず博打も大好きです。酒と博打の借金がかさんで自作地を切り売りして、今では小作に転落していますが、酒をやめることはできません。字が読めない彼は金貸しのバフンに借用証を捏造されて田地をだまし取られたといううわさもあります。

ある日、居酒屋の婆さんが病をえて寝たきりになりました。4時間ほど歩いたところにミッション系の病院があるので連れて行こうとしましたが、病院に行くと殺されるといって祈祷師のジャンクリを呼びました。祈祷が終わってうんちくを傾けながらロキシーを飲み過ぎたジャンクリは、突然椅子から落ちそのまま大いびきです。婆さんはといえば祈祷が効いたのか、その後すっかり元気になりました。

(スガジイ)

2017年5月19日金曜日

経済交流再始動元年

先日、北海道十勝の経済ミッションが来ネされました。ジョシ工業大臣主催のレセプションでは、お持ちになった製品の展示会がとても好評でした。ハイテク製品でなくネパールの人たちにも身近に感じられる商品を中心としていたからであると思われます。

ジョシ大臣は、パルバティヒンディー(山地部のインド起源の人々でバフン、チェットリ等)が主要ポストを占めるネパールの政界にあって、数少ないネワール族の有力政治家として期待を背負っている人です。また、高潔な性格をもって国民の信頼を得ています。私も当日親しくお話しさせていただきましたが、政府開発援助にも精通されていらして話題が尽きませんでした。

日本人会商工部会が今年度は安藤ハザマの猪狩所長を部会長として出発しました。

10年ほど前の部会活動は、日本フェアを催したり、ネパール商工会議所連合会(FNCCI)をはじめとする財界幹部と意見交換の場を持ったりしました。旅行業分科会が観光大臣に空港施設改善提案をして、いくつかが間もなく実施に移された成果もありました。このようなウインウインの関係を築くことで部会がますます発展していきます。猪狩部会長はじめ会員の皆様のご健闘をお祈りする次第です。

さて、十勝経済ミッションの皆様とは、大使閣下のお計らいで大使公邸にて日本人ビジネス界の皆さんが意見交換しました。私もネパールへの投資を中心にビジネス事情をご進講申し上げる機会をいただきました。このような機会を通じてネパールへの投資の機運が促進されれば、在住日本人のビジネスのプレゼンスも大いに隆盛することに違いありません。

(スガジイ)


2017年5月12日金曜日

カトマンズの風物詩

霧の中から天秤棒を担いだ農夫が近づくにつれてだんだんはっきり姿をあらわす、そんな観光プロモーション映像がありました。冬から春になる一歩手前のカトマンズ盆地の風物詩でした。かごの中は新鮮な野菜であったり、素焼きの器に入ったダヒ(ヨーグルト)です。ティミやバドガオン(バクタプール)の人たちです。南の郊外のチャパガオンやルブでも野菜作りは盛んでした。ジャープーと呼ばれるネワール族の農民です。
2000年代初めから首都圏に宅地造成ブームが始まります。都市が外周に広がるにつれて農地が蚕食されます。都市住民の核家族化に伴う住宅の実需と、金余りによる投資の行く先のない金が住宅産業に流れ込むのと、農業を敬遠する農家の若い世代が増える中で農地を手放したいという事情がマッチングしたのでしょう。
首都圏の人口が増加するにつれて野菜の供給地は盆地の外に広がっていきます。20年ほど前からでしょうか、チトワンやテライに野菜生産地が広がり始めます。インドのビハール州で野菜栽培が急速に伸びた時期と軌を一にしています。ビハール州の野菜栽培技術を持った農民がチトワンで請負栽培をしています。野菜の流通が季節を通じてバラエティ豊かになったのは、低地の気候と栽培技術の進歩によるところです。
一方、首都圏ティミの農民も意気軒昂です。一家族で持っている20-50アールという狭い耕地を有効に使って通年栽培しています。労力を惜しまず、緻密な栽培技術で健闘しているジャープーの野菜農業は、都市化に負けずにまだまだカトマンズの食卓を潤すものと思われます。
我が町湯河原のスーパーマーケットで地場産の野菜や果物を見つけました。生産者の名前が付されています。相模湾の新鮮な魚も潤沢です。「地産地消」で地域を豊かにするのが私流の町おこしの原点です。
(スガジイ)