2017年11月10日金曜日

11月10日

久々に小説を読みました。村田喜代子著「蕨野行」(文春文庫)です。ある雪の深い村の60歳を超えた村民を蕨野という丘へ棄てる掟、いわゆる棄老伝説を姑と嫁の心の対話で進行する江戸時代末期の話です。

本の帯をそのまま転載すると、「処(ところ)を隔てて心を通わせあう方途(みち)はあるか?死してなお魂の生き永らえる方途はあるか?答えは応なり!蕨野。そこは六十を越えると誰もが赴くところ。ジジババたちの悲惨で滑稽で、どこか高貴な集団生活があった。」
読んでいて鳥肌立つものがありました。人間の『生』の本質とはかくも壮絶なものかと、齢七十にしてようやく考えさせられる私がありました。

9月の末に一人で八ヶ岳を登ってきました。赤岳、キレット、阿弥陀岳を経て青年小屋に至るルートです。南八ヶ岳は火山群です。どの山も頂上に近づくと急峻な岩場になります。
自分では若いつもりでいても、足腰は弱くなりバランスも悪くなっているのです。ここで落ちたら間違いなく死ぬ、ここで足を滑らせたら大けがをするだろうが登山者の少ない今の時期は発見されないまま幾晩も過ごせるだろうか、どちらにしても迷惑をかけてしまいます。奇妙なことに生への執着より恥の意識が勝ちます。

途中で出会った人からは「お元気ですね」と声をかけられ、そんなに年寄りに見られたのかと憮然とします。下山後に会った以前カトマンズに暮らしていたKさんからは「最近こういう高齢者の遭難事故が多いんだよね」と冷かされる始末です。

その足で大学のクラブのOB会に参加しました。甲州勝沼の大善寺の宿坊です。ご本尊はブドウをもった阿弥陀如来で、ワイン発祥の地として知られています。本堂の前にぬかずくと『まだ生かされている』という霊示めいたものがあります。

人の生の終着点はだれにもわかりません。久しぶりに会った古い友等と酒を酌み交わしながら、『一期一会』茶の湯のことわりが身に沁みました。


(スガジイ)