2022年11月20日日曜日

逍遥  お釈迦様の聖地を詣でて#165

 お釈迦様の聖地を詣でて

 

モンスーンがダサインまで長びいたため、休暇明けに予定していた地方出張の予定変更を余儀なくされた。モンスーン末期の豪雨で山地部の道路が寸断されたためである。ロルパ、ダン、スルケット、ダイレク、カリコット、ジュムラを回る予定であった。

 

NPO法人日本ネパール女性教育協会がカピルバストゥ郡バンバンガで実施したポカラ「さくら寮」卒業の女性教師のフォローアップ研修に参加した。同協会が12年間で養成した女性教師100人のうちの任意の参加者である。この後ポカラでも実施されて、これにも参加した。この先生たちには私の「子どもの失明対策プロジェクト」を手伝ってもらっている。

 

カトマンズを出る前に、ロルパの道路事情を聴こうと、同郡から参加するカマラ・ダンギとバムクマリ・ブラマガールに電話をした。バムクマリとは電話がつながったがあいにくバスの中で聞こえが悪い。ロルパ郡の最奥地タバン村で診療所を経営している石田医師に電話をしたが普通である。メールの返事もない。あとでわかったが、豪雨で中継所の電源が切れた由。

 

山地部への出張をあきらめて空路バイラワ経由でバンバンガに向かう。空港から1時間半で着く。カマラもバムクマリもそれぞれ2歳と3歳の男の子を連れてきている。二人とも3年ぶりの再会である。バムクマリは道路寸断の写真を見せてくれた。村からのバスが不通となり危険な道を子連れでまる1日歩いてバスに乗ったという。彼女たちの子どもの頃は道路がなかったわけであるから歩くのが当たり前だったのだろうが、それにしてもタフな人たちである。

 

ポカラへの研修まで2日余裕があったのでカピルバストゥの仏跡を廻ることとした。前回訪れたのが1974年であったか1984年であったか思い出せない。当時ルンビニの聖地には曠野に摩耶夫人堂とそれに覆いかぶさるような菩提樹、お釈迦様が産湯を使ったといわれる聖なる池そして古代インドマウリヤ朝のアショカ王が建立した石塔しかなかった。訪れる人もほとんどいなかったように記憶している。聖地にたたずんだ私にとってはそれだけで十分すぎる祈りの場であった。ルンビニ聖地からティラウラコットのカピラ城跡までは当時は田んぼの中の細い未舗装の道路であったが、今ではタウリハワまで広い立派な道路が建設されており、途中にいくつかのバザール集落ができている。

 

ルンビニ復興が動き出すのは1967年当時の国連事務総長でビルマ(現ミャンマー)出身の仏教徒であるウ・タントがルンビニを訪れ、その荒廃ぶりに心を動かされたときに始まる。国連は丹下健三にマスタープランを依頼して78年に完成する。計画に沿って今では8割がた整備が終わっている。目を見張るような立派な施設が出来上がっている。だが新たに建設されたマヤ堂の前で無意識に昔のたたずまいを求める自分に戸惑った。

 

発掘作業終了後のマヤ堂再建については当初からの協力者である日本仏教会とユネスコのかつての祠のデザインに近いものとの案をネパール側が無視して通告もなしに現行の大型建造物としたようだ。内部は発掘後の状況が順路でみることができるようになっており、お釈迦様の誕生地を示すマーカーストーン(印石)の上まで導かれる。左上には摩耶夫人の釈迦誕生の石像が置かれている。

 

飲み友達であった考古学者上坂聡君の在りし日の姿が浮かんで目頭が熱くなる。2002年の彼が主導する調査隊による印石発掘は歴史に残る功績である。発掘作業におけるネパール側との調整作業は学者である彼の能力を超えたものであったと思われる。私の宿舎では泥酔するまで飲むのが常であった。彼の精神的ストレスを受け止めることができなかったことが悔やまれる。熱帯の厳しい作業環境も彼の体力を確実に奪っていった。翌年54歳で歴史に名を残して逝った。

 

ルンビニ開発をめぐる芳しからぬ噂は1970年代から耳にした。日本の政治家、怪しげな実業家そしてネパールの王室関係者。その後資金が集まるほどに利権をめぐる策動が繰り広げられてきたのだろう。近年ではロックフェラー財団の一員や米国不動産王、ネ王室の一員が名を連ねる香港を拠点とする中国のアジア太平洋協力財団なる団体にマオイスト党首が委員長につきルンビニ特別区開発構想がぶち上げられた。金の亡者たちが!

 

日が落ちようとしている聖地の「久遠の平和の炎」の向こうに伸びる運河、そしてさらにその先の日本山妙法寺大僧伽の世界平和仏舎利の白き輝きが示すものを想ってみたい。

 

2022113日)









2022年11月10日木曜日

逍遥  久々のカトマンズの空気 (2) #164

 

久々のカトマンズの空気(2

 

ダサイン大祭の後半は雨にたたられた。9日目のナワミの早朝にハヌマンドカで軍による水牛やヤギの供犠を見る。着飾って供物をいただきドゥルガ寺院に詣でる女性の列に「やはりカトマンズ盆地はネワール族の地だ」との思いがしてくる。キチャポカリのバザールを通り、新しく建てられた塔のわきに地震で倒壊して基部のみのビムセン塔が残されているのを見ると、カトマンズの歴史的建造物の倒壊もさりながら、山地部の村落でなすすべもなく困窮していた人たちに思いをはせる。

 

新聞報道によると、今年のダサイン商戦は低調だという。目抜き通りの商店街を歩いてもあまり熱気が伝わってこない。4月に発した外貨準備高減少による輸入規制とか金融引き締めによる購買意欲の減退なのだろうか。この時期が商機の高額商品の品薄もあるのだろう。久しぶりのカトマンズでは街の人々の気持ちの持ちようまでうかがい知ることはできない。

 

そんな悩ましい気持ちを抱きつつも2年半の不在の後の変化には驚くものがある。まずネパールの消費文化の象徴ともいえるバトバティーニ・スーパーマーケットの本店で驚いた。駐車場が拡張されている。この地価が天井知らずに高騰しているカトマンズで駐車場に投資するのか。立体駐車場も建設されている。車社会になりつつある今なら郊外店を拡充した方がよさそうな気がするのだが。エレベーターも新設されている。余談になるが、50年前にはネパールで唯一のエレベーターがソルティホテルにあった。

 

商品にも新鮮な刺激がある。これまた50年前からあるロングセラー商品〈ククリラム〉酒。栓を開ける際にナイフが必要なくなった驚きである。ひねれば簡単に開く。手のけがも心配する必要がない。ホワイトラムの新商品もある。なんでこんな簡単なことを今までしなかったのだろうか。古手のネパール企業にしたら上出来というべきか。対して、来るとき乗ってきたネパール航空のサービスは30年この方少しの「カイゼン」もない。

 

またまた飲み助の話で恐縮だが、ビールがおいしくなっている。飲み味にバラエティが出てきた。数年前にシェルパビールが登場したときも衝撃的であったが、この度は選択の広がりが出てきた。酒を飲まないマルワリの経営努力か。はたまたネパール商人の勇気ある参戦か。ネパールのスタービールとインドのゴールデンイーグルのぼやけた風味に悩まされていた時代は遠い昔話になった。

 

ポテトチップスのパッケージがしゃれている。輸入物かと思ったがなんと国産である。品質ではインド製にかなわないが、ここにも進歩の跡が見られる。飲食店のインテリアがおしゃれになった。若い人が海外に出て見聞した成果であろう。ポカラでもレイクサイドの通りは変わりようがないが、一足枝道に入ると素敵な外観のホテルやレストランが増えている。はやりのパブに入ると広い店が地元の人たちでむせ返っている。料金の高いのに驚く。

 

カトマンズの中の下程度のレストタンで昼食をとった。カレーとナンで500ルピーであった。タカリー料理店でダルバートを注文すれば800ルピーだ。おいしかったので不平はないが、やはり高値感は残る。果物屋の店先は輸入果物が幅を利かせている。果物の9月の前年同期比の値上がり率は17.29%とラストラバンクの発表。全体のインフレ率は8.64%で前年の3.94%の倍以上で74か月ぶりの高騰という。

 

外貨準備高の減少や対外債務の急速な増加から、スリランカの経済破綻の二の舞にはさせじと金融の引き締めを図るが、一度味わった消費の蜜の味は忘れられない。出稼ぎ送金に依存するしか解決策は見当たらない。18世紀にネパールを統一したプリトゥビ・ナラヤン大王がカトマンズ盆地を攻略した動機の一つにチベット・インド交易の利権があったといわれる。さらに交易に経済基盤を限定することなく地場産業振興を奨励した。国土開発の青写真を描ける優秀なブレーンがいたものと思われる。

 

20221030日)


2022年9月29日木曜日

逍遥  久々のカトマンズの空気#163

 

久々のカトマンズの空気

 

カトマンズに着いて10日が過ぎた。新型コロナ感染が増加する兆しを見せる中、ムスタン、バンケ、バルディア、シャンジャ各郡の子どもたちの眼の治療を済ませ、2020216日に慌ててカトマンズを発った。2年半の間、ネパールに渡航できない苛立たしさが募るばかりであった。高齢者である私がネパールで感染したときに周囲に迷惑をかけることを恐れた。

 

成田空港の出発ロビーはあたかもネパールにいるようであった。同時間帯の出発便がランカエアー、マレーシア航空、中国南西航空と少なかったせいか、閑散とする中でネパール航空のカウンターはダサイン大祭を母国で祝うネパール人乗客でむせ返っていた。ここからもうダサインが始まっているかのように体中から歓びが発露している。チェックインカウンターの職員に帰りたくないかと聞くと、本当は帰りたいのだと正直に答える。ジャパ郡出身の好青年である。   

 

トリブバン空港到着ロビーは混雑していない。手荷物のX線検査は相変わらず長蛇の列。預け荷物のターンテーブルが一基増設されている。どこに出てくるか案内がない。タクシー乗り場まで新しい施設の長い坂を下る。この工事に何年かかったのだろう。雨の日はどうすればいいのだろうか。モンスーンの強い雨は「春雨じゃ、濡れてまいろう」と芝居気取りにはいくまい。観光立国を謳うのならば利用者の便宜を考えるべきだが、いつになったら顧客志向のサービスが生まれるのだろうか。外国の生活を経験した人が増えたので「井の中の蛙」とはもはやいえないが、母国に戻るとどういうわけか元のヒトに戻ってしまうのが残念である。

 

翌日食事をとりに外に出る。ラジンパットの交通量に眼をむく。横断歩道を渡るのに勇気がいる。交通量は増える一方なのだろう。幹線道路の拡張後あっという間に飽和状態になった。次に打つ混雑緩和の一手を早急に講じなければならないが簡単ではなさそうである。信号機が新たに設置されている。20年ほど前に日本の援助で実施した信号機を含む交差点の改善計画は、まもなく警察官による交通整理に代わった。この指導をしたのも日本のシニアボランティアであった。

 

26日はダサイン初日のガタスタパナである。インドラチョークからアサントール、ダルバールマルグを歩いてみた。ダサイン商戦は思ったほど賑わいを見せていない。この日は家庭でお祝い行事をしていたのかもしれない。ラジンパットのスーパーマーケットは店頭の飾りつけすらない。お菓子屋さんの店先も普段より折詰が多い程度で客はそれほど見られない。何か白けた気持ちでアパートに戻った。

アサントールの野菜市場が消えている。聞けば新市長が路上販売を禁じたのだという。交通の妨げや町の美観を損なうからだというが、市民の生活に影響はないのであろうか。交通の問題であればむしろ狭い路地の交通規制をするべきではなかろうか。タメル地域しかりである。一時期規制を実施したことがあったが、相変わらずの朝令暮改である。クラクションの騒音にも辟易とする。この規制も続かない。新しい市長の意欲はわかるが、整合性のとれた政策と実効ある対策と辛抱強い実施を期待したい。

 

この日、2時間ほど歩いて帰りつけば、以前この地に住んでいた当時の鼻炎が再発したのであろう鼻のむずむず感とのどの痛みを感じた。車の排気ガスと埃による大気汚染が原因と思われる。廃棄物は想像していたほどひどくなかった。大型トラックが精力的に回収している。

 

都市の様々な問題を抱えるカトマンズであるが、放置するにつれてその解消にコストと時間がかかる。早急に整合性のとれた再開発のマスタープランを策定して実施に移すことが期待される。

 

2022927日)








2022年6月30日木曜日

逍遥  またかの航空機事故 #162

 

またかの航空機事故

 

関東地方の梅雨入りが発表された。
翌日から梅雨寒ともいえる低温で長袖を着込んだ。
庭のクチナシは今年は花が多く甘い香りも強いようだ。
サルビアも毎年同じ梅の根元で濃い紫の花を咲かせている。

 

もう10年も前になるが、宮原巍さんのヒマラヤ観光開発トレッキンググループのガイドを依頼されてカトマンズ発ルクラ便のイエティ航空に乗った。

この航路はネパールヒマラヤの景観を心行くまで楽しむことができる。
人気のエベレスト方面のトレッキングの玄関口空港であるが、
谷間に伸びるわずかな緩斜面を切り開いた世界でも有数の離着陸が難しい空港として知られている。
天候の安定している
11時ごろまでには離着陸しなくてはならない。

シーズンにはカトマンズ間に30往復便があるという。外国人乗客が多いためドル建てでネパール人の数倍高い航空賃が航空会社にとってはまさにドル箱路線なのである。

 

この日のフライトはパプルー上空までは快適であった。
その先のドゥードゥコシ川手前のタキシンド峠では川から吹き上げる猛烈な上昇気流で小型の双発機トゥインオッターは胆が冷えるほど揺れる。
谷筋に入ると一面の雲に覆われている。

これでは着陸は無理だろう、カトマンズに引き返すに違いないと、
半ば祈るように期待した。
あにはからんや機は上流に向かって進むと、雲海の裂け目から雲の下に出る。
滑走路の侵入方向は下流方向に開いているので、上流方向からは左に急旋回しなければならない。無事着陸して心配は杞憂に終わったが、かつての事故の残骸が滑走路わきに残置されているのを知っている身としては心穏やかではなかった。

 

「まさかの」ではない、「またかの」航空機事故である。

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29日にポカラ発ジョムソン行きのタラエアーのトゥインオッター機が
8,000m峰アンナプルナとダウラギリの間を流れるカリガンダキ河の谷間の標高4,000mの岩壁に墜落した。

この路線もアンナプルナ連山一周トレッキングやヒンズー教、仏教の聖地であるムクチナート寺院へのアクセスとして外国人に人気のルートである。この事故でも犠牲となった乗客乗員22人のうちインド人4人、ドイツ人2人がいる。

 

この路線は20分のフライトだが、ジョムソンに近い三分の一の上流部区間は午前10時を過ぎると毎日決まって強風が吹く。
ポカラよりの三分の二は地形が複雑であり天候が急変する危険がある。
30年間で7度目の事故となった。

タラエアーは2016年にもこの路線で乗客乗員23人が死亡する墜落事故を起こしている。Aviation Safety Networkによると副操縦士が操縦してゴラパニ峠を越えたあたりで対地接近警報装置(GPWS)が鳴ったが操縦士は警報を無視して雲の中で高度を下げるよう指示をし、再び警報が鳴ったところで操縦を代わって上昇したが斜面に墜落したとしている。

今回の事故の調査結果は出ていないが、新聞報道によると
この路線を長年経験した退役パイロットはレーダーの航跡から同様のCFIT事故を推測している。カリガンダキの狭い谷間で雲を避けようとして急旋回したところGPWSの警報を聞いて急上昇した結果急峻な斜面に激突したものであるという。

 

CFITはパイロットの技量や経験にかかわらず起きるものであり、その原因の多くは疲労や睡眠不足によるパイロットの注意力の低下や方向感覚の喪失によるもので、共通する状況として雲天や濃霧による視界不良、山や給料などの隆起した地形への衝突をあげ、現在の航空機事故の死者の約4割がこれに起因するとしている。(WIKIPEDIA

 

ネパールの航空機事故はそのほとんどが小型機によるもので、2000年から2009年までの10年間に6件の事故があったが、2010年から2020年までの10年間で13件と倍増している。中間山地の多くの空港は1960年代から70年代初めに建設されている。道路建設に先駆けて航空路を開発したものである。地方の道路が多く建設された現在では多くの定期航路が閉鎖されたが、一部の地域では観光開発に伴って外国からの旅行客が増加し、地場産業振興の恵みを受ける人たちが利用するようになった。

 

国際民間航空機関(ICAO)の2017年の各国の航空事業にかかる監査報告書は、法制度、運営組織、免許制度、運営、整備、事故調査、ナビゲーションシステム、空港施設の8項目で評価している。法制度、運営、整備は世界標準より上位に評価されている。問題は運営組織と事故調査で、前者は100点満点の50、後者は18.68と悲惨な水準にある。この辺りが今のネパールの行政および産業全般に共通する問題点のように思える。企業経営者にビジネスフレームワークのPDCAPlan:計画、Do:実行・実績、Check:評価・気づき、Action:改善策)について話す機会があった。CAを企業活動に考慮すべしと助言したところ不評をかった。ネパールの企業経営者の多くは独裁者である。CAも沽券にかかわるか?どこかの国の「ゼロコロナ政策」に似ていなくもない。

 

 

2022610日)










2022年6月16日木曜日

逍遥 新型コロナワクチン接種会場事情(2)#161

 新型コロナワクチン接種会場事情(2

 

花屋の店先にはアジサイの鉢植えがならべられている。沖縄は梅雨入りした。

関東地方はもう少し後になるだろうと思っていたが、本州南岸にはやばやと梅雨前線が停滞しぐずついた天気である。

母の日には娘からアジサイの鉢が届いた。
ビジネスは季節の先取りにせわしない。

 

湯河原町のワクチン接種は3回目もほぼ終わりに近づいている。

65歳以上高齢者の85%が終わった。12歳以上では70%ほどである。
全人口23,700人の町の年齢構成は日本の地方の例にもれず高齢化が顕著だ。
高齢者が
10,500人、1217歳が1,000人、511歳が850人と逆ピラミッドを呈している。

 

さて、接種会場の手伝いに行った動機だが、わが町にはどんな人たちが住んでいるのかを知りたかったのがそのうちの一つである。

1955年に湯河原町、吉浜町、福浦村が合併して湯河原町となったが、
小学校は旧3町村に分かれていたし、中学校は湯河原と吉浜にあったため湯河原以外に知人もなく、その湯河原も高校を卒業すると長く住んでいなかったのである。
今でも近所付き合いのほかはよそ者のような暮らしをしている。

 

会場ではねぎらいの言葉をかけてくれる人がいる。

ある日老婆が
「あんたも
大変てーへんだね、同じことをいちんち(一日)何回言うずら?」、
わたし「400回だら」、

年寄りとは土地の言葉で話すようにしている。


高齢者ほど他人の話なぞ聞いていない、わが道を疑いもなく進む人たちなのである。
注意を引くには慣れ親しんだ言葉がいい。
体温を測っても書類の提出部署に行くまでに忘れる。
部署の係りから問い合わせがあるので危ういと思われる人の体温は覚えておく。

 

かと思えば皮肉たっぷりの老人がいる。
わたし「コロナワクチンですか?」、
老婆「ほかにこんな所へ何の用で来るだら」、

隣に総合病院がある。定期健康診断と間違える人、インフルエンザワクチンと間違える人、予約日を間違える人、年寄りには勘違いが多いのだという言葉を飲み込む。

 

湯河原は温泉があり気候が温暖なことから首都圏に住む人の別荘やマンションが多い。
定年退職後に移住する人もいる。もともと都市部でも近所付き合いが希薄であった人たちだろう。なかには町のボランティア組織で活動する人もいるが、大半はコミュニティになじむつもりはさらさらない。
この人たちの対応を間違えるとたちまち最強の〈クレーマー〉に変身する。
感染を極度に恐れる人がいた。会場に着くと医療用手袋を二重にし、
マスクとフェースシールド、消毒液も自前。
説明するため話しかけると「近づくな」とすごい剣幕である。

 

外国人が思ったより大勢が住んでいるのがわかった。


ネパール人もいる。
スーパーのレジや倉庫係、旅館、アマゾンの従業員などである。
日本語の書類の記入を代行したり、医師、看護師との通訳をしたり重宝されている。

ネパールでは医療用語が英語なのでわかりやすくていい。

ひさしぶりにネパール語を話す機会ができたのがうれしい。
ネパール料理のおいしいレストラン情報を聞く。
彼らにとっても身近にネパールのことを知っているものがいて心強いのだろう、
さっそく
SNSが届く。少しは力になれると思う。


一方でネパール渡航が待ち遠しくなってフラストレーションがたまるこの頃である。。 

 

2022525日)

      

2022年5月30日月曜日

逍遥  頼朝と實平と土肥会  # 160

 

頼朝と(さね)(ひら)土肥(どい)

 

朝起きるとジャスミンの甘い香りが部屋に流れ込んでくる。

庭に出ると夏ミカンの花の匂いがすがすがしい。

夜が明けるのが随分と早くなった。庭のえさ場には野鳥がはやくから来て待っている。

この季節、ほとんどの野鳥は山に帰ってしまい、

キジバトとスズメくらいになってしまった。

キジバトは繁殖期とみえてつがいである。

 


NHKで「鎌倉殿の13人」を放映している。

鎌倉や伊豆の配所はもちろんのことわが湯河原もこの機を逃さじと観光客誘致に力が入る。なぜ湯河原かと疑問に思われる方もいらっしゃると思われるので頼朝とのかかわりを話しておこう。

 

永井路子はNHK大河ドラマ「草燃える」の原作「相模のもののふたち…中世史を歩く」(1978年有隣堂)の中で書いている。〈旗揚げの折に頼朝を助けて働いたのは土肥実平である。彼は頼朝の命の恩人といってもよい。実平なかりせば、果たして彼は命を全うして征夷大将軍になれたかどうかもわからないくらいなのだから〉〈伊豆で旗揚げした頼朝は、石橋山の合戦に敗れると、土肥実平にかくまわれて真鶴半島に逃れ、海路房総半島を目指した〉〈このとき、沈着かつ果敢に頼朝を守りぬいたのは、ほかならぬ土肥実平だった〉

 

實平は土肥郷(湯河原、真鶴町)の武士団の棟梁であった。相模の南西部を統べる中村宗平(小田原市国府津、足柄上郡中井町旧中村原村)の次男で、三男が平塚市土屋、四男が足柄那中郡二宮町に勢力を張っていた。所領は土肥郷のほかに箱根から流れる早川右岸の早川荘があり、息子の遠平には左岸の小早川荘が与えられた。

 

館はJR湯河原駅のあたりに構えた。駅の上方にある我が家の菩提寺萬年山(じょ)願寺(がんじ)には土肥一族66基の墓石がある。還暦を過ぎた実平が相模、伊豆の有力者とともに頼朝を担いだわけは必ずしも明らかにされていないが、平家を頼む近隣の勢力との軋轢であったといわれる。頼朝は生まれてから勝ち戦を経験していない。旗揚げ直後の石橋山の合戦で惨敗して生来のものか育ちからか性格の弱さをさらしている。湯河原の山中に自鑑水という小さな池があるが、敗走の途中この池にわが身の無残な姿を見て自害しようとする。また近くの小道地蔵堂の縁の下にかくれていたところ、平家の追手がかくまった純海上人を拷問して気絶しているのを頼朝の涙で息を吹き返させたという言い伝えがある。頼朝は實平ら7騎で真鶴半島の付け根の岩の浦から舟で房総半島に逃れる。謡曲「七騎落ち」に描かれている。

 

頼朝が鎌倉に政権を構えた後、木曽義仲、平家討伐に義経の参謀として出陣しており、その後中国地方の守護に任ぜられ、安芸の沼田荘(三原市)に地頭として移りここでなくなり長男遠平が後を継ぐ。鎌倉では頼朝の長男頼家の代になって「鎌倉殿の13人」衆議による幕府運営が始まるが動乱の時代に入り、北条により孫の惟平が打たれて土肥郷、早川荘は没収される。遠平の養子景平の子孫が安芸の小早川氏として続くことになる。

 

石橋山合戦(1180年、治承4年)から750年目にあたる1930年(昭和5年)に源頼朝・土肥實平郷土史研鑽の会として土肥会が発足する。子どもの頃には城願寺で催される「土肥祭」に父に連れられて詣でた。直会(なおらい)のタケノコ飯がなつかしい。土肥会の事業に實平夫妻の銅像建立がある。湯河原駅前広場に伊豆を向いて立っている。妻はかがんで風呂敷包みを持つが、石橋山合戦の敗走中に潜伏した湯河原の山中「しとどの(いわや)」に運んだ食料である。實平没後、頼朝はこの妻を鎌倉にしばしば招いて昔話を懐かしんだといわれる。

 

観光振興の「武者行列」が一大事業である。今年は大河ドラマの俳優を招いて行い、私も準備、後片付けに初めて参加した。会の役員がみな高齢者で口は滑らかだが体を動かす人が少ない。私も今年後期高齢者の仲間入りというのに若手とおだてられて駆けずり回る羽目となった。田舎の高齢者社会は年功序列である。新米には容赦がない。

 

時々の行事には「焼亡(じょうもう)の舞」が披露される。小道地蔵堂から脱出した頼朝主従は、岩の浦に下る山中で實平館のあたりの火の手を見る。實平は「主君の危機を逃れることができたからは、源氏再興は目前である。自分の館が灰になっても何ほどのことがあろうか」と扇を振り舞い踊った。この故事により創作された「焼亡の舞」は琵琶の語りで力強くかつ粛々と演じられる。

 

202257日)

2022年5月11日水曜日

逍遥  少々匂う話  # 159

 

少々匂う話

 

家のさくらはすっかり散ってしまった。花の盛りをあと何回見ることができるだろうかと神のみぞ知る余命を詮方なく思ったりした。八重桜はちょうど見ごろだが、花びらの感じがあまり好みでない。やはり桜ははかなさがある方がいい。


散ればこそいとど桜はめでたけれ うき世になにかひさしかるべき(在原業平)

 

せっかくのそこはかとない情緒に浸っておられるところ恐縮だがいささか匂う話をする。「13億人のトイレ 下から見た経済大国インド」(佐藤大介著、角川新書)はトイレをつくりましょうというモディ政権看板の保健衛生政策「スワッチ・バーラト(クリーンインド)」の現実を書いたものである。インド全体の農村部人口の約四割を占めている4州での野外排せつの割合はこの政策が始まった2014年で70%、ところが4年後の18年でも依然として44%であったということだ。しかもこのうち半数が自宅にトイレを設置しているという。理由は、清掃や管理が面倒で野外の方が楽で便利とのことである。

 

翻ってネパールではどうだろうか。今日の農村部を歩いてみるとかなりの普及している印象で、いずれも清潔に管理している。WHO2017年統計では普及率は62%でインドより上位にある。50年前のオカルドゥンガ郡ルムジャタール村では岩村昇医師が普及活動をされており少数ではあるが作っていた。大半の村人は「他人の使った後に気持ち悪くて使う気がしない」であった。ヒンズー教の「マヌ法典」では体から出される大小便を含む12のものを不浄としているという。ポカラで観光客が増加してきて手飲料水が不足し始めた1990年に水供給の実態を調べに行った時の水道局の技術者の話だと、取水堰を建設したときに水源の水質を保全するために流域の村にトイレをつくる指導をしたようだ。

 

50年前のカトマンズはどんな状況であったであろうか。一休さんの頓智話ではないが、「この橋を渡るべからず」、「ならば真ん中を歩くべし」、道のわきには排せつ物が点々としており、特に夜道は気を付けなければならなかった。1973-75年に大使館に勤務していたときはガイリダラに住んでいたが、バルワタール通りとラジンパット通りの間の首相官邸の南側はすべて田んぼだった。寝坊をすると近道であるあぜ道を突っ切るのであるが、フレッシュな産物に鼻をつまみ嘔吐しそうになるのをこらえてかけるのが常であった。

 

首都圏の伝統的な集合住宅の共同トイレは今でもカギをかけてある。チェトラパティのそのような家に住んだことがある。屋外の一人用のトイレは粗末なトタン囲いで床を高くして下には石油缶を置いてある。入口はドングロス懸けである。あるとき隣の棟に鍵をかけていない水洗トイレがあったのでのぞいてみると排せつ物がてんこ盛りであった。鍵が必要なわけである。この石油缶を管理するのはダリット(不可触カースト)の人たちである。1984年に無償資金協力のカトマンズ盆地一円の配電網整備計画に関わったときのことである。パタンの旧市街の路地で地中線工事の掘削中にかなり古い時代の下水管をこわしてしまった。トイレの汚水が混じっており、ネパール人作業員は自分の仕事ではないという。日本人の職人が手を汚しながら汚物の処理をすることになるが、見物の住民は日本にもダリットがいるのかと得心顔であった。

 

カトマンズに行くたびに路上のごみの山に閉口する。1970年代にはごみがなかった、というより捨てるものがなかった経済だった。拡大する経済と宿命的に起きる都市の負の課題を解決する知恵も意欲もない。他人ごと政治「ケ・ガルネ(どうすりゃいいんだ)」は開き直りにしか聞こえない。ネパールのビジネス人との懇談会で話すのは「あなたたちは“NATO”だ、軍事同盟ではない、“No Action Talking Only”である」と。

 

2022423日)


2022年4月23日土曜日

逍遥  神原達さん  #158

 

神原達さん

 

庭のシダレザクラが5分咲きとなり、モクレンは満開である。春に三日の晴れなしとはよくいったもので、20度を越したと思えばコートを羽織る日が繰り返されるが、お彼岸ともになると一日が長く感じられて冬の気鬱が晴れる。

 

ちょうど50年前の514日、私は初めてネパールの地を踏んだ。タイ国際航空のDC8機はその先が崖の滑走路ぎりぎりで止まる。トリブバン空港の掘立小屋然としたターミナルビルにここは首都ではあるまいと疑ったものである。同じ便に乗っていらした農林省からアジア開発銀行に出向されている中原さんにディリバザールのゲストハウス「ラリグラス」まで送っていいただく。ゲストハウスのオーナーはタカリ族の重鎮インドラ・マン・シェルチャン氏である。受付では高校生のラマ・ジョシが初々しい笑顔で迎える。のちに日本大使館の職員になり定年まで勤めた。その晩は同宿の日本人に連れられてバグバザールで食事をしたが、油のにおいが鼻について半分も食べることができなかった。

 

ネパールでの目的は農村調査である。UMNの岩村昇医師やジャクプール農業開発プロジェクト島田輝男専門家の助言を得て調査地をオカルドゥンガ郡ルムジャタール村に決める。紹介状を持って国家計画委員会のハルカ・グルン副委員長に面会して長期ビザや種々の便宜を依頼する。196829歳でこの職に就かれた。シンガダルバール正面のビルの3階、とてつもなく大きな執務室である。田舎のオヤジ風の風貌に多少緊張がほぐれる。紹介状を書いてくださったのは神原達さんである。

 

神原さんは口の重い方で、何度もお会いしながらご本人のことはほとんどお話にならなかった。一方で奥様の直子さんはあけっぴろげな方で旦那様を補って余りある。ある時ホテルヒマラヤのレセプションでスタッフが不在のところ、奥様が大声で「エー、マンチェ(おーい、だれか)」と呼んでいる。古いネパール語の会話教科書には人を呼ぶときの表現としてあったが、今日このような呼び方をするだろうか。とにかく古い時代にカトマンズで過ごしたお二人である。 

 

山岳部員であった高校時代にネパールにのめりこむ。ちょうどマナスル登山で盛り上がっていた時期である(第一回調査隊1952年、第三次登山隊登頂成功1956年)。入学した早稲田大学ではネパール研究を思うようにできず、東洋学者のメッカである駒込の東京文庫に入りびたって卒業まで7年かけた。4年生の時ネパールに行って一年余り滞在したときに英文のネパール文献目録を作成する(のちに日本ネパール協会編集の「ネパール研究ガイド…解説と文献目録」の基礎となる)。この労作がネパールの元老カイゼル・シャムシェル・JB・ラナ元帥に認められて門外不出のカイゼル図書館(ナラヤンヒティ王宮西門の向い)に入館を許される。私は入ったことはないが、神原さんいわくことネパールに関する蔵書は世界に類を見ない。会うたびに最後の仕事としてカイゼル図書館の蔵書整理をしたいとおっしゃていた。

 

卒業後は外務省研究生として1962年から65年まで3年間ご夫婦でカトマンズに滞在する。                                                                                                                                   日本との国交樹立は1956であるがまだ大使館のない時代で、ほかには国連の正垣さんという方がいらしたようである。1960年~63年に私が勤めていた日本工営が国連の委託でカルナリ河のチサパニハイダム水力発電計画の調査をしている。

 

1960年のネパールの人口が1千万人強であった。70年の首都圏の人口が60万人程であったので、当時もその程度であろう。のどかな町であった。地方ではカトマンズをネパールと呼んでいた。ネパール語が国語として普及し始めるのがラジオの短波放送の始まったこの時代という。山道ではトランジスタラジオのボリュームを大にして歩く人たちがいた。地方のほとんどの村が電化されていなかった。明かりは菜種油に綿の芯でともしたものや樹脂の強い松の幹を削ったものだった。

 

宮原巍さんと三人で会ったときに昔話で「1966年にネパール工業省家内工業局に赴任するとき自転車でビルガンジからシンバンジャンを越えてきたんだ」、私「まさか、あの道を?なんでまた?」宮原さん「神原さんがカトマンズでは自転車が必須だというから」神原さんは自慢の口ひげをぴくぴくさせながらも素知らぬ顔である。

 

20202月の宮原さんのお別れの会にでは神原さんがあいさつされた。私はカトマンズに出張中で出席できなかったが、妻が車いすの神原さんとお会いした。今年は賀状が届かないので心配していると、奥様からご逝去の知らせがあった。また一人古き良きネパールを知る人がいなくなった。 合掌

 

2022323日)

2022年4月13日水曜日

 逍遥 田舎町のワクチン接種事情(1)#157

 

田舎町のワクチン接種事情(1

 

 

ネパールの新型コロナ感染は急速に収束に向かっているようだ。何が要因であろうか。疫学的原因究明が他の国の参考になると思われる。

 

昨年5月の連休明けから始まった町の新型コロナワクチン接種会場の手伝いに通っている。

わが町でも政府の方針に従ってまず医療従事者から接種をはじめ、その後65歳以上の高齢者に並行して接種を始めた。町の人口は昨年末で23,454人である。高齢者の割合はせいぜい3割程度であろうと推測していたが、なんと15百人もいるという。高齢者率45%である。老人養護施設が温泉を売りに増えているし、退職者が都市部から移住しているが、そればかりではないであろう。わが団塊世代のトップランナーは今年「後期高齢者」入りする。

 

外の入場整理の係りをかってでた。外のフレッシュな空気が望ましいのとコロナ禍の巣ごもりで増えた体重を落とす意図があった。ゼッケンには「誘導」の文字。民間の感覚なら案内係とするのであろう。マニュアルができている。だがこの種の事業は初めてなのでやってみなければわからないことが多いはずだ。走りながら適正行動に修正するしかない。国からのお仕着せなのだろうが、今では修正を重ねて第7版となっている。

 

第一日目から直面したのが強烈なクレームであった。接種は予約制であるが、とにかく予約が取れないのである。第一クールは電話予約である。私も9時の時報とともにダイヤルする。その後10回試みたが受付のコールセンターにつながらない。第二クールの予約からは電話に加えてインターネットも可能になった。インターネット予約も2-3分でうまったようだ。私は第三クールにインターネットで予約が取れた。この間、町役場で接種を主管する保健センターへの攻撃はすさまじかったようだが、集団接種会場の前線にいる私もあたかも苦情受付係になった。隣町は対象者に日時指定の予約券を送ったようである。人口はわが町の三分の一なのだが順位の正当化には苦心したと思われる。

 

こうした苦情が多いということはワクチン接種希望者が多いということであって、欧米のようにワクチン忌避者が少ないともいえる。新宿駅の広場ではワクチン陰謀論を奉ずるグループが連日キャンペーンを張っているが、田舎町にではそのような行動は見られない。とはいえワクチンを危険視する人はいるもので、わが妻もそのような友人の影響を受けて自分で予約をとろうとしなかった。

 

会場では高齢化社会のあり様やそれぞれの家庭の事情を垣間見る思いがある。老夫婦そろって来る人、いたわりあう姿や妻に叱咤されながらゆったり歩く夫。一人暮らしの老人、急病や緊急事態にはどうするのか心配になる。付き添いも高齢者の老々介護、他人ごとではなく妻の実家も96歳の老母と私と同級生の長男の2人暮らしである。嫁に邪険にされながらもしたがうばかりの老人、このような嫁を「鬼嫁」というのだそうだ。実の娘や優しい嫁に面倒を見てもらっている老人を見ると心が和む。

 

2022320日)

2022年3月18日金曜日

逍遥 ニマ  #156


ニマ

風は冷たいが陽の光は春を感じさせる。 先月聴いた読売交響楽団のシューマン交響曲第3番「ライン」は春の躍動感が体中に染み渡る。

 

ニマが死んで今日は6か月目の祥月命日。帰宅してドアを開けると迎えに出てくるような錯覚が去らない。癒えないまま遺骨はいまだ寺に納めていない。

 

200465日生まれのメスのミニチュアダックスフンドは、娘が一目ぼれして近所のホームセンターから買われて我が家にきた。生後3か月であった。このとき2002年に連れて行ったオスのミニチュアダックスフンドのポチはカトマンズの知り合いに預かってもらっている。猫3匹は遅れてきた妻が連れてきた。このうち家に居ついて子をなした野良猫の親アンは早く死んでしまったので、子のランとニャン太とがやはり預けられていた。ニマが先輩たちと合流したのは2005年に会社を退職してカトマンズに住み始めたときからである。

 

名前の由来は、197375年に日本大使館にお世話になったときの大使秘書アン・ニマ・タマン女史から拝借したものである。女史はダージリン生まれの清楚な人で当時のカトマンズの人たちにはない都会風の垢ぬけた人であった。病弱で若くして亡くなったと聞いている。初代ニマは当時タンボチェ僧院から頂いたチベッタンアプソーである。

 

のほほんとした心優しい性格だった。ニャン太は会社時代の社長からもらったメイクーン種の大型猫で、態度もでかく“社長猫”と呼んでいたが、23歳で家出するまでニマの親分であった。ニマも慕っていたようだ。人込みがあまり好きではなかった。シャイで人見知りしたのだろう。盆踊りには法被を着て参加した。補習校でも子どもたちにかわいがってもらった。迷惑そうな顔をしながら。家ではよく知人を招いて飲み会をしたが、この時はホステス然として愛嬌をふりまいていたので、自分の城を築いていたのかもしれない。

 

カトマンズでは病気らしい病気はしなかったが、ある時急に後ろ足に力が入らなくなった。パタンのかかりつけの獣医が鍼と電気治療を一週間続けて回復した。針は曲がっていて使いまわし歴然としていて心配したが、ネパールの獣医も捨てたものではない。ニャン太は耳に水泡ができ麻酔をして切開した。麻酔が効かないうちにメスを入れたため悲鳴を上げた。それ以降耳が立たなくなったが、のちにこれを見て、「誰がこんな手術をしたのだ…」、同じ獣医なのである。

 

亡くなる一週間前には箱根に遊びに行った。前日は庭に侵入した野良猫を勢いよく追いかけまわしていた。人間並みに三か月ごとに健康診断をしていた。獣医いわく「心臓が悪かったとはねー」

合掌

 

202235日)