2022年5月11日水曜日

逍遥  少々匂う話  # 159

 

少々匂う話

 

家のさくらはすっかり散ってしまった。花の盛りをあと何回見ることができるだろうかと神のみぞ知る余命を詮方なく思ったりした。八重桜はちょうど見ごろだが、花びらの感じがあまり好みでない。やはり桜ははかなさがある方がいい。


散ればこそいとど桜はめでたけれ うき世になにかひさしかるべき(在原業平)

 

せっかくのそこはかとない情緒に浸っておられるところ恐縮だがいささか匂う話をする。「13億人のトイレ 下から見た経済大国インド」(佐藤大介著、角川新書)はトイレをつくりましょうというモディ政権看板の保健衛生政策「スワッチ・バーラト(クリーンインド)」の現実を書いたものである。インド全体の農村部人口の約四割を占めている4州での野外排せつの割合はこの政策が始まった2014年で70%、ところが4年後の18年でも依然として44%であったということだ。しかもこのうち半数が自宅にトイレを設置しているという。理由は、清掃や管理が面倒で野外の方が楽で便利とのことである。

 

翻ってネパールではどうだろうか。今日の農村部を歩いてみるとかなりの普及している印象で、いずれも清潔に管理している。WHO2017年統計では普及率は62%でインドより上位にある。50年前のオカルドゥンガ郡ルムジャタール村では岩村昇医師が普及活動をされており少数ではあるが作っていた。大半の村人は「他人の使った後に気持ち悪くて使う気がしない」であった。ヒンズー教の「マヌ法典」では体から出される大小便を含む12のものを不浄としているという。ポカラで観光客が増加してきて手飲料水が不足し始めた1990年に水供給の実態を調べに行った時の水道局の技術者の話だと、取水堰を建設したときに水源の水質を保全するために流域の村にトイレをつくる指導をしたようだ。

 

50年前のカトマンズはどんな状況であったであろうか。一休さんの頓智話ではないが、「この橋を渡るべからず」、「ならば真ん中を歩くべし」、道のわきには排せつ物が点々としており、特に夜道は気を付けなければならなかった。1973-75年に大使館に勤務していたときはガイリダラに住んでいたが、バルワタール通りとラジンパット通りの間の首相官邸の南側はすべて田んぼだった。寝坊をすると近道であるあぜ道を突っ切るのであるが、フレッシュな産物に鼻をつまみ嘔吐しそうになるのをこらえてかけるのが常であった。

 

首都圏の伝統的な集合住宅の共同トイレは今でもカギをかけてある。チェトラパティのそのような家に住んだことがある。屋外の一人用のトイレは粗末なトタン囲いで床を高くして下には石油缶を置いてある。入口はドングロス懸けである。あるとき隣の棟に鍵をかけていない水洗トイレがあったのでのぞいてみると排せつ物がてんこ盛りであった。鍵が必要なわけである。この石油缶を管理するのはダリット(不可触カースト)の人たちである。1984年に無償資金協力のカトマンズ盆地一円の配電網整備計画に関わったときのことである。パタンの旧市街の路地で地中線工事の掘削中にかなり古い時代の下水管をこわしてしまった。トイレの汚水が混じっており、ネパール人作業員は自分の仕事ではないという。日本人の職人が手を汚しながら汚物の処理をすることになるが、見物の住民は日本にもダリットがいるのかと得心顔であった。

 

カトマンズに行くたびに路上のごみの山に閉口する。1970年代にはごみがなかった、というより捨てるものがなかった経済だった。拡大する経済と宿命的に起きる都市の負の課題を解決する知恵も意欲もない。他人ごと政治「ケ・ガルネ(どうすりゃいいんだ)」は開き直りにしか聞こえない。ネパールのビジネス人との懇談会で話すのは「あなたたちは“NATO”だ、軍事同盟ではない、“No Action Talking Only”である」と。

 

2022423日)