2022年5月30日月曜日

逍遥  頼朝と實平と土肥会  # 160

 

頼朝と(さね)(ひら)土肥(どい)

 

朝起きるとジャスミンの甘い香りが部屋に流れ込んでくる。

庭に出ると夏ミカンの花の匂いがすがすがしい。

夜が明けるのが随分と早くなった。庭のえさ場には野鳥がはやくから来て待っている。

この季節、ほとんどの野鳥は山に帰ってしまい、

キジバトとスズメくらいになってしまった。

キジバトは繁殖期とみえてつがいである。

 


NHKで「鎌倉殿の13人」を放映している。

鎌倉や伊豆の配所はもちろんのことわが湯河原もこの機を逃さじと観光客誘致に力が入る。なぜ湯河原かと疑問に思われる方もいらっしゃると思われるので頼朝とのかかわりを話しておこう。

 

永井路子はNHK大河ドラマ「草燃える」の原作「相模のもののふたち…中世史を歩く」(1978年有隣堂)の中で書いている。〈旗揚げの折に頼朝を助けて働いたのは土肥実平である。彼は頼朝の命の恩人といってもよい。実平なかりせば、果たして彼は命を全うして征夷大将軍になれたかどうかもわからないくらいなのだから〉〈伊豆で旗揚げした頼朝は、石橋山の合戦に敗れると、土肥実平にかくまわれて真鶴半島に逃れ、海路房総半島を目指した〉〈このとき、沈着かつ果敢に頼朝を守りぬいたのは、ほかならぬ土肥実平だった〉

 

實平は土肥郷(湯河原、真鶴町)の武士団の棟梁であった。相模の南西部を統べる中村宗平(小田原市国府津、足柄上郡中井町旧中村原村)の次男で、三男が平塚市土屋、四男が足柄那中郡二宮町に勢力を張っていた。所領は土肥郷のほかに箱根から流れる早川右岸の早川荘があり、息子の遠平には左岸の小早川荘が与えられた。

 

館はJR湯河原駅のあたりに構えた。駅の上方にある我が家の菩提寺萬年山(じょ)願寺(がんじ)には土肥一族66基の墓石がある。還暦を過ぎた実平が相模、伊豆の有力者とともに頼朝を担いだわけは必ずしも明らかにされていないが、平家を頼む近隣の勢力との軋轢であったといわれる。頼朝は生まれてから勝ち戦を経験していない。旗揚げ直後の石橋山の合戦で惨敗して生来のものか育ちからか性格の弱さをさらしている。湯河原の山中に自鑑水という小さな池があるが、敗走の途中この池にわが身の無残な姿を見て自害しようとする。また近くの小道地蔵堂の縁の下にかくれていたところ、平家の追手がかくまった純海上人を拷問して気絶しているのを頼朝の涙で息を吹き返させたという言い伝えがある。頼朝は實平ら7騎で真鶴半島の付け根の岩の浦から舟で房総半島に逃れる。謡曲「七騎落ち」に描かれている。

 

頼朝が鎌倉に政権を構えた後、木曽義仲、平家討伐に義経の参謀として出陣しており、その後中国地方の守護に任ぜられ、安芸の沼田荘(三原市)に地頭として移りここでなくなり長男遠平が後を継ぐ。鎌倉では頼朝の長男頼家の代になって「鎌倉殿の13人」衆議による幕府運営が始まるが動乱の時代に入り、北条により孫の惟平が打たれて土肥郷、早川荘は没収される。遠平の養子景平の子孫が安芸の小早川氏として続くことになる。

 

石橋山合戦(1180年、治承4年)から750年目にあたる1930年(昭和5年)に源頼朝・土肥實平郷土史研鑽の会として土肥会が発足する。子どもの頃には城願寺で催される「土肥祭」に父に連れられて詣でた。直会(なおらい)のタケノコ飯がなつかしい。土肥会の事業に實平夫妻の銅像建立がある。湯河原駅前広場に伊豆を向いて立っている。妻はかがんで風呂敷包みを持つが、石橋山合戦の敗走中に潜伏した湯河原の山中「しとどの(いわや)」に運んだ食料である。實平没後、頼朝はこの妻を鎌倉にしばしば招いて昔話を懐かしんだといわれる。

 

観光振興の「武者行列」が一大事業である。今年は大河ドラマの俳優を招いて行い、私も準備、後片付けに初めて参加した。会の役員がみな高齢者で口は滑らかだが体を動かす人が少ない。私も今年後期高齢者の仲間入りというのに若手とおだてられて駆けずり回る羽目となった。田舎の高齢者社会は年功序列である。新米には容赦がない。

 

時々の行事には「焼亡(じょうもう)の舞」が披露される。小道地蔵堂から脱出した頼朝主従は、岩の浦に下る山中で實平館のあたりの火の手を見る。實平は「主君の危機を逃れることができたからは、源氏再興は目前である。自分の館が灰になっても何ほどのことがあろうか」と扇を振り舞い踊った。この故事により創作された「焼亡の舞」は琵琶の語りで力強くかつ粛々と演じられる。

 

202257日)