2021年2月22日月曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #155

 

もうすぐ春です

 

ビクラム歴のファーグン月になった。カトマンズはもう春の陽気になっただろうか。わが町は好天が続いており、日向は春のように暖かい。幕山のふもとの梅園の木々も五分ほど花をつけている。梅の香りが山の斜面を下ってくる。

 

梅が香にのつと日の出る山路かな  芭蕉

 

自宅の仕事場が書類や本でごった返している。前稿で始末のいい友人のことを書いたのがきっかけになって整理する気になった。片づけるより昔の書類を読み返す時間が長い。そんな中にいくつかのはがきがあった。

 

199911月のSさんからの喪中欠礼はがきであった。1984-5年に無償資金協力事業のカトマンズ送配電網整備計画で仕事をしていた時をおなじくして、SさんはK商社の所長として奥様帯同で駐在しておられた。お宅では日本から持ってこられた食器とともに奥様の手料理にネパールにいることをしばし忘れた。このころから日本の商社が社員を駐在させるようになりその後十数年間は商社のネパールビジネスの華やいだ時期であった。

 

はがきは奥様のご父君Aさんの逝去の知らせであった。お会いしたのはカトマンズ出張に際しS家への託送品をお届けいただいたとき一度のみである。Aさんは長年国連開発計画(UNDP)に奉職されており、ガーナ駐在時に日本工営の世話になったと話されたが、むしろ逆であったであろう。日本工営は1964年にガーナ政府からボルタ川を中心とした水資源総合開発計画調査を受注している。

 

Aさんはニューヨーク郊外を終の棲家とされたようだ。Sさん曰く〈アメリカのボランティア活動はしっかり生活に溶け込んでいる。末期癌を患って自宅で人生の終焉を迎える義父に、ベッドから酸素吸入器まで無償貸与され看護婦は毎日のように通ってくれたそうな。真摯なボランティア活動は宗教や文化の違いだけでは説明しきれないものがある。生き様そのものなのであろう。〉昨今の見るに堪えないアメリカ社会にもかかわらず自助、共助は忘れられていない。建国以来のピューリタンの心が底流にあるのであろう。

 

O君からは異動の連絡であった。199710月に毎日新聞の編集委員になり宮内庁クラブ所属になったとのことである。O君とは大学の運動部の同期である。同期は40人くらい入部した。当時の運動部は体育会体質そのもの、一年違えば反論もできない世界であった。新人哀歌という歌がある。   

♪部長先輩雲の上、三年四年はお偉くて、二年のガキども大威張り、一年前を忘れたか♪

O君はこのような理屈に合わない世界を嫌ったのだと思う。2年時に退部した。

 

私がカトマンズに駐勤していた年の毎日新聞元日一面トップを飾った彼の昭和天皇秘録の署名記事はまさにスクープであった。旧友の活躍はわがことのようにうれしいものである。今年の年賀状ではいまだ第一線で活躍しているとあった。宮内庁にしても新聞社にしても手放せない存在なのであろう。

 

ジャカルタ事務所にネパールからはがきが届いた。19963月、なんと宮原巍さんからである。前年秋にエベレストに挑戦して南峰まで達したとのことであるが、到達標高を8,893メートルと誤記している。〈今年は一所懸命仕事をするつもり〉と書いてあるところを見ると、前年は遠征の準備で仕事どころではなかったとみえる。一事に打ち込むところは宮原先輩の人生そのものではないか。

 

2001年に3度目のカトマンズ駐在の機会に恵まれ9年ぶりにお会いできた。1973年にエベレスト街道ペリチェの下でお会いしてから長いお付き合いになった。一昨年11月の逝去に際し、5日間の葬儀に弔問にいらした人々の顔触れはこんな人まで付き合いがあったのかと驚いた。ネパールの人々に親しまれまた事績を評価されたのだ。後にも先にも宮原さんのような日本人は出ないであろう。

 

2021213日)

2021年2月5日金曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #154

『野の春』

 

昨日節分で豆をまく真似して恵方巻を食べた。今年の縁起よい方向は南南東だそうだ。

   節分の火の粉を散らす孤独の手  鈴木六林男

一日たった今日は立春である。

   立春の米こぼれをり葛西橋    石田波郷

 

節分は冬の季語、立春は春の季語なのだが、一日違いで心が躍るような気分になる。雲一つない晴天でそこそこ暖かく、老嬢ニマを連れて小一時間ほど散歩した。家に帰ると汗ばんでいる。

 

波郷の句は終戦の翌年に東京葛飾で詠まれた。荒川にかかっている橋か。私は終戦2年後の昭和22年の生まれである。いわゆるベビーブーマーの先頭で、何かとお騒がせ世代でもある。実は子どもの頃のことはあまり覚えていない。小学校のクラス会などで話題になることも、そんなこともあっただろうかとかと胡乱な記憶しかなく、覚えのいい人をうらやむことが再々である。

 

暮れに近くの本屋で宮本輝「流転の海 第1‐5部」を手にとり、明治生まれの作者の父親を描く大河小説であることもあるが、昭和22年に50歳にして初めて設けた子ども(作者自身)の育った社会背景をなぞってみようと読み始めた。全九部の大作である。ちなみに宮本輝の小説は30年以上も前になるだろうか「ドナウの旅人」を読んだが、ドナウ川にひかれたのが動機である。そしてネパール滞在時代の78年前に紀行文「ひとたびはポプラに臥す 16」であるが、これまた憧れの中国西域のエッセイである。

 

主人公松坂熊吾は戦時中一時軍隊にとられるが、ビジネスで大成功する。体の弱い息子と妻のため資産を整理して生まれ故郷の愛媛南宇和郡の田舎に移り住む。健康も回復を見て再び大阪に出てビジネスを始めるが、ある程度成功するとそれに満足できない。次々に始めるビジネスは必ずしも成功したとはいえない。くじけない主人公の根性と灰汁の強さが魅力であるし、まわりを彩るバイプレーヤーも波瀾万丈の人生を過ごす人たちである。私は大阪の街も人たちもあまりなじみがないが、素手で飛び込むには勇気のいる社会であろうと思うと腰が引ける。

 

バイプレーヤーたちは出会いそして次々に死んでいくのであるが、作者はあとがきで次のようにいう。〈私は今七十一歳。全九巻を書き終えるのに足掛け三十七年という歳月を要したことになる。三十七年もかけて、七千枚近い原稿用紙を使って、何を書きたかったのかと問われたら、「ひとりひとりの無名の人間のなかの壮大な生老病死の劇」と答えるしかない。それ以外の説明は不要だと思う。〉

 

物語の最後は以下のように終わる。

 

きょうはその熊吾を焼き場で焼く日だ。

房江はそう思ったとき、締め付けられるほどの哀しみに襲われた。

だが、近づいてくる隊列といってもいい十四人は、ホンギ以外は、沈痛ではあっても懐かしい人に久闊を叙するというようなある種の歓びのようなものを表情の裡に隠しているかに見えた。

私は、これに似た光景を見たことがあると房江は思った。新たな旅へと向かう人々がどこかの原野を楽しげに出発する光景だ。

 

私は自身の来し方を顧みることはあまりない。恥かき人生あるいは無駄飯喰いを過ごしてきたというある種の恥ずかしさがあるためか、あるいは生来の楽観的な性格ゆえか明日のことに気が行く傾向が強い。死についても、そうはなりたくないと思いつつも、どこかで野垂れ死にするような予感がある。

 

同年代の友人を見送る機会が増えた。友人の中には身の回りの整理をしてエンディングノーとなるものを準備したりしている。カトリックの洗礼を受けた人もいる。その人たちの生死観を聞いたり宗教書をよんだりすることがないでもない。きっと「今際の際」に慌てたり後悔したりするのだろう。後の祭りである。

 

202123日)