2019年6月17日月曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #119


プラハの春とマオイスト内戦

旧聞になるが2018820日は、チェコスロバキアがアレキサンデル・ドゥプチェクの「人の顔をした社会主義」をスローガンに推し進めていた自由改革運動「プラハの春」を、ソ連がワルシャワ条約機構の軍を率いて侵攻して民主化運動を圧殺してからちょうど50年であった。

この年の5月にはベトナム和平交渉がパリで始まった。フランスのソルボンヌ大学に端を発して、大学が集まったカルチェラタンで5月革命と称される学生運動が高揚し、これに刺激された日本の学生も全共闘運動へと一気に突き進んだ時代であった。社会主義勢力による民主化の圧殺を横目で見ながら、マルクス主義を盲目的に信奉してユートピア社会を夢見るという、今思えばなんとちぐはぐな思想であり行動であったことか。この時私は大学3年であった。

「プラハの春」にシンパシーを寄せたのは、ソ連型の社会主義に夢を見ていながら、暴力装置としての「国家」に胡散臭さを感じていたからであろう。もうひとつ、64年の東京オリンピックの女子体操総合でチェコスロバキヤのチャスラフスカが金メダルをとったが、この人には今の体操選手と違って成熟した大人の美しさがあった。彼女が「プラハの春」に連座して拘束されたとのショッキングなニュースを耳にした。民主化はベルリンの壁崩壊を皮切りに東欧諸国の共産政権が倒れる1989年まで待たなければならなかった。ビロード革命と呼ばれドゥプチェクの復権を見た。

我がネパール現代はまさに激動の時代である。20世紀半ばから、ラナ専制の打倒、国王のクーデターによるパンチャヤト議会制度、民主化運動の結果の複数政党制の獲得等々、希望を見出せるかのごとき時代が続いた。試行錯誤の繰り返しでもある。中でもマオイストによる内戦は肌で感じた事件として忘れがたい。 

19962月にルクム、ロルパ、シンドゥパルチョークの3郡の警察署襲撃で始まったこの内戦は2006年まで続いた。デウバ政権がマオイストの初期の要求をあまりにも軽視した。戦線が広がってからは、ビレンドラ国王が「マオイストといえども臣民であればビシュヌ神の生まれ変わりである国王がこれを誅殺することはできない」と国王の心中をおもんぱかる人もいた。王室の情報収集・分析能力の弱体化をいう人もあった。

私が現地で経験したのは後半の5年間である。マオイストの話題では声を潜める必要があった。各戸への特に商店や企業への寄付の強要は暴力を背景とした強奪そのものであった。地方の学校教師など知識人の殺害も聞こえてきた。政府軍のマオイストと疑われた民間人殺害も無視できない。恐怖の中にありながら、政府の姿勢には切迫感がない。停戦後は戦争犯罪を解明する委員会が創設されるも10余年もの間報告を取りまとめられないのはいかがなものだろうか。うしろめたさを残したまま政権運営もあったものではない。

チェコのプラハ音楽祭ではスメタナの《わが祖国》が謳いあげられる。わがネパールもいつの日か国民をあげて「わが祖国」を歌える日が来ることを願っている。

(2019516)