2020年8月17日月曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #147 

 コロナ禍の中で (8

 

梅雨が明けてカンカン照りの毎日である。35度以上の猛暑日が続き10分と炎天下にいられない。5月のテライにいるようだ。元気なのはセミばかりのようである。朝から晩までやむことなく鳴いている。今日は盆の入りである。仏壇にお盆のお供え物をしつらえ、夜は迎え火を焚く。両親と息子、弟の霊である。

 

昨日は菩提寺の城願寺に墓の掃除とお寺さんへお布施を納めに行った。墓所用の花を同級生の花屋に求める。花屋だけに冠婚葬祭情報が早い。昨夜街に住む同級生の一人が亡くなったという。近年は毎年のごとく寂しい知らせが届く。

 

カトマンズの感染拡大が急である。ロックダウンを緩和したせいだろうか。テライの国境都市における増加も再び始まっている。インドでの増加の勢いが止まらない中、オープンボーダーの出入国管理の難しさはあるが、締めるべきは締めなければ取り返しがつかなくなる。市やコミュニティの封鎖では限界がある。10日の再規制政府決定は当然であろう。「言うだけ番長」に終わらずに有効に実施に移してもらいたい。

 

昨日の保健大臣の記者会見は、インドでの感染終息がなければネパール一国ではどうにもならないとこぼす「ケガルネ大臣」であった。ネパールの「三無主義」である①状況の評価から目をそらす、②対処能力を発揮できない、③誰かがやってくれるだろうとのネグリジェンス。平時にはとてもおおらかで住みやすいが、非常時にはちょっと待てよとなってしまう。

 

タメルでは家賃負担に耐えられずに廃業したホテルがあると聞く。一部ホテルは海外出稼ぎ帰還者の一時収容所として糊口をしのいでいる。土産物店やレストランの300軒以上が事業継続をあきらめたという。知人のレストラン経営者から支援の要請があった。

 

露天商やバス、テンプーの運転手、リキシャ夫など日銭で暮らしている人たちは困窮しているようだ。小さな小売業者も家賃が払えなくて店を閉めざるを得ない。個人でささやかな食品加工をして自転車で配達している人たちも同様である。

 

先週インドのケララ州コジコデ空港で中東からの出稼ぎ帰還者を乗せた政府チャーター機が着陸に失敗して多くの死傷者を出した。 コジコデは旧称カリカットである。大航海時代以前から中東との貿易拠点として栄えた港町である。州の人口の10%に当たる200万人が湾岸諸国で働いている。インド全体では850万人といわれる。また海外労働者からの送金は州のGDP35%にあたり、銀行預金の39%を占めているという。(ニューズウイーク日本語版2020.8.11

 

ネパールでも同様に出稼ぎ者が湾岸諸国から続々と帰国している。近年は渡航者が減少傾向にあるものの、昨年度の海外送金は78億ドルでここ数年のGDB対比では25-30%で推移しており、貿易収支の赤字を補っている。帰国後一定期間カトマンズの収容施設にとどまることになるが、迎えがあれば村に帰っているようだ。ロルパ郡で私のプロジェクトを手伝ってくれている元教師の亭主がカタールから帰ってきた。メッセンジャーの連絡では詳しくはわからないが、彼女の実家は田畑があるので食べるのに困らないであろう。

 

インドへの出稼ぎ者は3月中旬から順次帰ってきた。プロジェクトのフィールドであるスドゥ―ルパスチム州で157,000人、カルナリ州で49,000人という。多くが季節労働者である。この地域の感染が6月に急激に増えた。地場産業が育っていない。農地は食べるほどない人たちである。そもそも生産力が低く毎年食糧援助を受けている地域だ。

 

首相イニシアティブの雇用促進政策を出した。ス州政府は15億ルピー、カ州では20億ルピーの事業スタートアップのための無担保貸付制度の予算を確保しているという。どのような使途を考えているのだろうか。農村部で需要を創生するのは容易ではない。現に、出稼ぎ帰国者は村の生活がバーター経済の昔に戻ったようだといっている。

 

私が1972-73年に農村調査のために過ごしたオカルドゥンガの農村での生活を思い出す。毎土曜日に開かれるハートバザールでは一日がかりで集まった人たちの現金を介さない取引も多かった。そんな昔に戻ったのだろうか。当時のように自動車道路も電気もない時代ではない。村の疲弊が心配される。

 

2020813日)

2020年8月7日金曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #146 

 

長崎の鐘

 

7月も終わりになろうというのにまだ梅雨が明けない。それどころか毎日各地で大雨警報が出される。梅雨前線がもたらす大雨災害は日本ばかりでなく中国、韓国にも及んでいる。わが町にも

強い雨はあるが大事に至っていない。セミの声がだんだんと喧しさを増している。

 

山梨の知人から桃が届いた。香りを楽しみながらいただいている。また、追うように沖縄の甥からはマンゴーが送られてきた。今頃はネパールのマンゴーも食べごろであろう。去年に続いて食べそこなうのだろう。

 

新型コロナの流行は秋を待たずして第2波が以前にもまして猛威を振るい始めた。都市部のみならず離島にまで伝播した。日ごとに増加記録を更新している。家庭に持って帰り高齢者や年少者に移してしまうのが痛ましい。45月の緊張感が緩んでしまったのであろう。

 

NHKの朝の連続ドラマは「エール」だが、コロナのため撮影ができなくて再放送している。作曲家古関裕而の物語である。数ある古関の名曲の中でも「長崎の鐘」は日本を代表する歌曲といっていいと思う。

 

学園祭「ソフィア祭」の最終日の晩は隣接の運動場でファイアーストーム(キャンプファイアー)を催すのが恒例であった。地下鉄丸ノ内線四谷見附駅のホームから見える江戸城の外堀「真田掘」を埋め立てたところである。四谷見附門と喰違門の間で、大学の対岸には迎賓館がある。この行事の準備、進行に入学以来毎年かかわった。

 

佳境になると決まって現れる教授がいた。スペイン人のソペーニア神父である。何年も前からそうしているのであろう。ファイアーマスターも心得ていてすかさず紹介する。「長崎の鐘」を歌い始める。声量のある伸びやかなテノール。誰も唱和することなくただ息をのんで聞く。涙を浮かべる人もいる。

 

こよなく晴れた 青空を

悲しと思う せつなさよ

うねりの波の 人の世に

はかなく生きる 野の花よ

なぐさめ はげまし 長崎の

ああ 長崎の鐘が鳴る    

 (サトウハチロー作詞、藤山一郎歌唱)

 

この歌は長崎大学の永井隆医師による原爆体験記『長崎の鐘』がもとになっていることを知らなかった。 

《原爆が投下された当時、爆心地近くにいた永井医師は、被爆したうえ、飛び散ったガラスの破片で頭部の動脈を切る、という大怪我をした。応急処置を済ませた永井医師は、生き残った同僚と負傷者の救護に奔走した。自宅に帰ったのは原爆投下から3日後のことだったという。自宅に戻ると妻はいなかった。台所の隅の方に、黒い塊がふたつあった。妻の焼けた骨盤と腰椎だった。傍らには、妻がいつも身につけていたロザリオがあった。》(藤原正彦、詩歌の品格、サライ8月号)

 

「なぐさめはげまし……」明るい転調が希望を求める最終節を歌い上げると、ソペーニア神父は静かに去っていく。私が4年生の時は大学紛争のため学園祭は取りやめになった。そして、その後は消防署のファイアー開催許可が下りなくなったという。神父のうたは「祈り」であったのではないか。

 

広島出身のミドリさんは毎年原爆忌にあわせてカトマンズで原爆写真展を開いている。コロナ感染下の今年はできるのだろうか。昨日、政府の支援を受けられないでいた被爆者の訴え「黒い雨訴訟」が広島地裁で勝訴した。行政の冷然さ。戦後はいまだ終わらないようだ。もうすぐ8月、広島と長崎に祈りの日が来る。

 

 (2020730日)