2019年8月27日火曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #124


カトマンズで出会った1970年代のすごい登山家達

自宅近くの「町」で唯一残った本屋で植村直己さんの「植村直己 妻絵への手紙」(文藝春秋)に出会った。ネパールからの手紙は2期にわかれる。初期は19743月から5月にかけてのものである。婚約したてのころであり、母校山岳部の依頼を断れずに翌年のダウラギリ5峰遠征の偵察を行った時期である。70年の日本山岳会のエベレスト偵察で越冬し、翌年登頂に成功して以来の訪ネであり、2-3年の間にカトマンズに車が増えたことを書いている。それとて、夜8時には人通りが全く絶えるような静かなカトマンズであったはずである。ダウラギリの偵察の様子はスケッチ入りの短文が、ジュムラからドルパ、ベースキャンプを経てポカラに戻る様子が目に浮かぶようで読んで楽しい。

私が植村さんと会ったのはこのダウラギリ偵察からカトマンズに帰ってきたときである。拙宅で食事をしてもらったが、とにかく無口な人で、今となって覚えているのはエベレストで高度順化が全く苦にならなかったということのみである。手紙にあるような婚約時の高揚した気持など全く見せなかった。筆まめな印象もない。

手紙ではこの時ダウラギリ5峰の登山許可がネパール政府から出たといっている。当時は日本山岳協会の推薦状が外務本省経由で在ネパール大使館に来て大使館からネパール外務省に許可申請が出された。私は大使館の登山担当であったのでこの手続きをしてネ側と折衝したはずであるが覚えていない。それよりも、同じ大学の建学100周年エベレスト遠征隊の推薦状が届き、すでに他の隊に許可が出ていたのを日本に変更するよう交渉しろとの強い要望があり苦労したが印象に残っている。当時は一山一季一隊の許可原則があった。

読売新聞の追悼抄に登山家の中世古直子さんの訃報があった。74年春季女性として世界で初めて8千メートル峰のマナスル(8163m)に初登頂を果たした。日本大使公邸で祝勝会が開かれ私は司会を務めた。中世古さんはあまりうれしそうな様子はなく、何かとっつきにくい感じがした。第二次アタック隊の鈴木貞子さんの遭難のためかと思ったが、記事の友人評で納得がいった。「恥ずかしがり屋で、皮肉や、気さく。とにかく面白い人だった」

75年春季にエベレストを女性として初めて登頂した田部井順子さんは一躍時の人となった。下山後の祝勝会はブリクティマンダップのポリスクラブで行われこれも司会をしたが、ネパールの登山関係者をはじめ各界の大勢の人がにぎやかに祝った。2年続けての快挙はカトマンズの日本人社会を大いに勇気づけたものである。田部井さんとはそれから長いお付き合いとなった。

75年秋季は隊員14人のうち11人が南面ルートで初登頂を果たしたカモシカ同人の高橋和之さんと夫人の今井通子さんとお会いした。この隊の副隊長である高橋好輝さんと2020年東京オリンピックのスポーツクライミングの指揮をとる日本山岳スポーツクライミング協会理事長の八木原國明さんはその後イエティ捜索隊でいらした。

石黒久さんは1973年秋季エベレスト初登頂を加藤保男さんとともに成功させた。8600m地点でのビバークは超人的な体力精神力で乗り切ったものと感激を覚えたものである。石黒さんとはネパールの開発プロジェクトでご一緒する機会があり、お互いに本職で汗をかいて楽しい3年間を過ごした。

1970年に三浦雄一郎さんがエベレストのサウスコルからスキーで滑降した映画は日本中を興奮させた。2003年に70歳でエベレストに登頂しカトマンズに帰るやいなやゴルフをしたいとのことでご一緒したが、その体力には驚かされたものである。日本人会で講演していただいたのもこの時である。

1970年代前半はこのように日本国内のみならず世界の注目を集めた登頂成功があった。その陰で登山中の事故で命を落とした人もいらっしゃる。大学の先輩の遭難事故処理もこの時期であった。領事事務担当として幾多の死亡証明や遺骨照明も作成した。大使館勤務は人生の光と影を否応なく見せつけられた2年間であった。

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2019年8月11日日曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #123


その後のBuddha Boy

52日は仏誕節であった。Buddha Boy’の話である。200511月に、カトマンズの真南のインド国境のバラ郡ラタナプリ村で、釈尊の生まれ代わりという16歳の少年が6ヶ月間も飲まず食わずの座禅修行をしていると話題になり、仏教信者のみならず多くの人が参詣に訪れた。少年の額からは光が発せられているともいう。ジャングルの村は一変してバザールに変貌した。この少年は1989年生まれのラム・バハドゥル・ボンジョンで、出家後はパルデン・ドルジと呼ばれている。母親の名は、釈尊の生母摩耶夫人と同じマヤ・デビ(タマン)である。パルデン少年はインドとの国境の村でソム・バハドゥル・ラマのもとで修行に入り、ルンビニに続いてインドのウッタールアンチャル州のデヘラドゥンで修行した後帰村し、20055月に村のピーパル樹の下で座禅を始めたといわれている。
さて、人間が飲まず食わずに6ヶ月も生きられるのだろうか。普通の人間なら34日で脱水症状をおこして死亡するといわれている。このような下司の勘繰りをするのは筆者ばかりでない。ルンビニ開発基金や王立科学技術アカデミーは調査団を送った。政府の科学技術省も調査団の派遣を検討している。しかしながらいまだに何も解明されていない。夕の5時から翌朝5時まで彼の回りは囲いで隠されてしまうので、この間に食べているのだと想像されている。後に彼は、修業期間中は薬草を食べているといっている。
さて、この少年がふたたび話題になったのが、昨年311日に突如として行方不明になってからである。誘拐説、隠遁説等新聞紙上をにぎわせた。19日に3km離れた場所で仏教団体幹部たちが会った際に「この場所は修行するにふさわしい平和的環境にない。……6年したら戻るので心配しないで」といっていたという。そして、護身用の短剣を持ったパルデン少年は1225日に数人の狩人たちによって発見された。彼の修行の場はふたたび信仰目的の人や興味本位の人たちによって取り囲まれることになった。仏陀少年への喜捨が、マオイストに流れたとか少年の支援団体の銀行口座が当局によって凍結されたとかの生臭い話がついて回るのが如何にもネパールらしい。

以上は以前私が発行していたニュースレター「カトマンズ今日この頃 *ビスターレ・ジャノス*」第8号(20076月)のエッセイの一部であるが、520日づけThe Kathmandu Post紙にこのBuddha Boyが〈復活〉の見出しで久々に登場した。

Buddha Boy (Ram Bahadur Bomjan) は行方不明になっている5人の信者の家族から警察へ訴えられているという。また異論を述べる信者への暴行や、セクシャルハラスメントも訴えられている。警察は14日にシンドゥパルチョウク郡のアシュラム(修行場)を捜査したが見つからなかった。その後519日にシンドゥリ郡のアシュラムに大勢の信者とともに現れたのである。郡警察のトップは上部機関からの指示がないので何ともできないとしている。

Buddha Boyから14年たったボムジャンは30歳だ。新聞の写真を見ると端正な顔つきの大人になっている。数年前にインドで活躍しているタマン族の青年が投票でインドの一番人気のある俳優に選ばれたが、彼をとよく似た風貌である。多くの信者が集まるようである。聖者としてふるまっていく中で独裁者になってしまったのか。14年の月日が彼をどう変えていったのか興味深い。儀式化した既存の宗教では救えないものを求める人たちがいるということであろう。キリスト教への改宗者も多いと聞く。この国で急激に増大する経済格差も一因かもしれない。

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