2019年5月10日金曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #116

ネパールとチベット交易今昔

昨年5月下旬、小田急線の沿線は代掻きを終えて水を張った田がにび色の空から漏れる弱い日を反射していた。

日本ネパール協会主催の新旧駐ネ大使の歓送迎会に出席のため東京に出た。会員でない私には参加者の中に知己が少ない。その中にペマ・ギャルポさんがいらした。話をするのは初めてである。5歳でダライ・ラマ法王とともにインドに亡命し、12歳で訪日して教育を受け、 24歳でダライ・ラマ法王アジア・太平洋地区担当初代代表に就任して10年間その任に当たられた。高校の同級生で『聞き書きダライ・ラマの真実』等の著作のある仏教研究者で写真家の松本榮一君によると、退任理由は法王との行き違いがあったという。ペマ・ギャルポさんのネパールとの関わりは聞き損なったが、氏の研究領域なのであろう。

カマル・トゥラダール著『ラサへのキャラバン~伝統チベットのカトマンズネワール商人』に古のネパール・チベット関係が詳しい。著者の家族は何代にもわたってチベット交易に携わってきた。子供の頃お祖父ちゃんやお父さんから毎晩のごとく聞かされてきた。

交易はカトマンズのリッチャビ王朝ブリクティ・デビ王女がチベット王朝のソンッエン・ガンポ王に嫁したことにより盛んになった。624年以前ともいい、632年ともいわれる。持参金の一部として仏像やネワールの建築、工芸職人を連れて行ったのがチベット文化に影響を与えたという。商人も少なからずいたようだ。

1975年出版のクリストフ・フューラーハイメンドルフ著《Himalayan Traders》はネワール族以外の3つのチベット・インド交易ルートとそれに活躍した人を紹介している。東はコシ水系のタムール川とアルン川である。最近私の小児眼科プロジェクトを手伝ってくれているパサン君はこの地方の交易中継点であるオランチュンゴラの出身で、日本で富士登山ガイドの傍らタメルで登山用品店を営んでおり、トレーダーのDNAを受け継いでいる。

中部のガンダキ水系沿いのルートは言わずと知れたタカリー族が活躍した地である。その中心地はアンナプルナ山群とダウラギリ山群の北側のタサン地方であるが、多くの人はカトマンズやポカラに居を構えている。ただし、死後は先祖代々の故郷の墓にはいらなければならないという。今日、カトマンズではトレーダーというより、タカリー料理として民族の名声を博している。ただ、名物のソーセージはふるさとトゥクチェ村に行かなければ味わえない。春先にヤク(チベット牛)の血を飲んで冬場に弱った体の元気を取り戻すために多くの人が集まるのもこの地方である。

西はカルナリ水系沿いのルートである。今月初旬にジュムラを訪問した。泊ったロッジの経営者は、自分たちはチベット人ではない、ラマというれっきとしたネパール人だといっていたが、ムグやフムラに住むチベット系のボティヤである。交易の主役だ。この地方では羊の毛を紡錘車で紡いでいるのを見かける。ラリと呼ばれるラグを織っている。羊毛のもつ天然の色で飽きがこない。シェルパ族にも模様は異なるが同じ素材でいい風合いのものがある。今ではポルツェテンガでしか織っていないと聞いた。グルン族にはフエルト状にしたラリがある。

ネパール・チベットの5,000mを超えるいくつもの峠は今でも交易路として使われている。シェルパ族のふるさとナムチェではチベット商人の市が開かれている。ナンパラを越えてゴジュンバ氷河を2日下り、衣料品から家電製品までヤクの背中で運ばれてくる。

2019421日)