2020年6月12日金曜日

逍遥 湯河原・カトマンズ #142 

コロナ禍の中で (4

 

夏ミカンの花が散って山椒粒ほどの青い小さな身をつけている。淘汰するように小さいまま落ちるものがある。その木の下には今年もサルビアの一叢が花をつけ始める。毎年待ちかねていた気品ある濃い紫の花だ。

山本周五郎の『赤ひげ診療譚』を読んだ。昭和45年(1972)発行の本なので、古本屋で買って長いこと本棚に眠っていたものと思われる。江戸の奉行所経営の医療所の医者と市井の底辺に住む人々の物語である。長屋の人たちは互いに助け合って格差社会をたくましく生きる。貧困に負ける人たちもいる。

当今のコロナ感染下で我が国の経済格差も浮き彫りになった。真っ先に影響を受けたのは非正規雇用者で解雇あるいは雇止めされる。雇止めとは、契約期限到来時に契約延長しないことである。中には就労時から住居を持たずにネットカフェで寝泊まりしている人が報道された。自粛要請で一時閉店になり、行き場を失う。3月の生活保護申請件数は速報値で前年同月比7.4%、4月は全国政令都市20と東京23区で31%の増とのことである。

一時閉店や事業継続が困難になる中で蓄えもなく職を失う人がでてくる。私もあとさきを考えずに結婚したもので、若いころは給与だけでは生活できずに妻もアルバイトに出ていた。預金などなかった。当時はまだ高度成長の末期とはいえバブル経済真っ盛りであったのだが、世が世であれば同じ境遇にあったにちがいない。今は幸いにして年金で何とかしのいでいる。

外出自粛要請により「巣ごもり」状態でテレビを見ることが多くなる。タレントの言葉遣いに違和感を覚える。「だいじょうぶ」やら「やばい」が頻繁に登場する。スーパーで買い物をすると、レジで袋は「だいじょうぶ」ですか?ああそうか「不要ですか」と聞かれているのだと気が付く。「やばい」はそれこそ会話の文脈をとらえなければ何のことかわからない。路上の街頭インタビューで若者がやたらと使っている。こちとら老人にとってはいい頭の体操になる。

金田一秀穂さんが月刊誌「サライ」で「巷のにほん語」を連載しているが6月号のテーマは「不要不急」である。政府、自治体、マスメディアから毎日のように発信されている当節の「はやり言葉」である。以下一部を引用する。

『「不要不急の外出を自粛してほしい」という要請があるが、そもそも「自粛」を「要請」できるのか。自粛は、自分の判断ですることであって、他人から要請されてすることではなかろう。しかし、日本文化は、そのようなあいまいな依頼か命令かわからないようなものによって秩序が保たれてきたという伝統がある。空気である。お上が空気を醸し出す。それに世間が同調する。未曽有の事態でも日本人根性は不変である。』 なるほど、この日本文化を理解できない諸外国メディアが日本のコロナ感染の少なさを〈ミステリー〉とみて日本人異質論が喧伝されるのだろう。

また、テレビのワイドショウのコメンテーターが「不要不急」とは何ぞや、定義を出せとのたまうのには次のようにおっしゃる。『いつから日本人はこんなに愚かになってしまったのだろう。自分の行為が不要不急であるかどうか、自分で決められなくてどうする。教育の目的は、自分で考え、自分で判断し、自分で表現できるような人になることであったはずだ。』

納得である。ワイドショーのコメンテーターは専門外のことをよく勉強していると思いきや的外れなコメントをすることがままあるらしい。 テレビは見栄えのいい画面を作ることに腐心しているのであろう。あとでほかの情報と突き合わせると事実と相違することがある。餅は餅屋を起用して真実を報道することがテレビ屋の使命なのではあるまいか。

私に不要不急な用件ははなからない。火ではないがスーパーに食料品を買いに行くことくらいは許されるだろうか。

 

202063日)